1052話 関係の正常化

 近江国塩津浜 一色政孝


 1591年夏


 結論から言うと、2つ目と3つ目の情報はさほど重要なことでは無かった。

 北陸方面より上杉や畠山などを離れた牢人らが京へ多数向かっているということと、今の俺たちのように淡海を行き来する船が白昼堂々密会の場として用いられているという話。

 2つ目の方に関していうのであれば、何も北陸方面に限った話ではない上に、すでに同様に入京を果たした者たちが京の治安を守るための組織まで結成している。

 また幕府に仕官しようとする志の高い者であったり、人が集まり始めた京で何か事を起こそうとする者など、様々な動機で多くの者たちが京を目指すのだ。この動きをいちい不審がっていては、それこそ調査に人を割き続けることになるだろう。

 動きが無い限りは、そもそも気にしないことが最善である。


「結局叡山の話だけに興味を惹かれたわけであるが」

「真実は闇の中でございます。すでに幕引きされたことでございますので、今さら掘り起こすことなど出来ません」

「そう、だな」


 幕府の関与なく、俺が浅井家に関わることは許されることではない。それが不都合な隠ぺいという話であればなおのこと。

 目と鼻の先に真実を知る者がいるというのに、なんとももどかしい話であった。


「そろそろ長岡様が戻られる頃合いでは」

「一度港に戻ってみようか。合流できればそのまま大津湊に戻るとしよう。そう長く淡海を漂っているわけにもいかぬでな」


 如信より金の入った袋を受け取り、中を確認することなくそのまま藤乃に手渡した。表情を一切変えずに受け取った藤乃であったが、思った以上にずっしりきたためか、思わず袋を船底へと落としかけていた。

 その様子を見た他の踊り子らがぎょっとしていたが、それでも平然を装う藤乃はよく出来たものだと思う。普通はこれだけの金を手渡されれば喜ぶなり、動揺するなりすると思うのだがな。


「それで足りるか?ほとんど1つ目に関する情報料であるが」

「十分でございます。また何かあれば、いつでも大津湊へとお寄りください。旦那さんを案内するのは“藤乃”でございますので」

「分かっている。誰かに頼んででも、藤乃の船に乗せてもらうつもりだ。そう心配せずともな。それとこれはこれまでよくしてくれた礼である。もし京で困りごとがあれば、山科の飛鳥屋という商人を尋ねればよい。淡海の案内人だと言えば、きっと俺のもとに来訪の報せが届けられるはずだ」

「…飛鳥屋と言えば、あの飛鳥屋でございますか?」

「京で名を轟かせているのはその飛鳥屋くらいであろう。山科に立派な屋敷を構えているゆえ、一目見ればすぐにわかるはずだ。そこの家主に先ほどのことを伝えればよい。だいたいのことは話を聞いてくれるであろうで」


 ポカーンとした藤乃は、ハッと我に返ってこちらを凝視する。


「飛鳥屋は京で最も成功した商人と言われている御方でございます。もしかして旦那さん、飛鳥屋の」

「期待させたところ悪いが、俺は飛鳥屋の旦那でも大旦那でもない。ただ少しばかり縁があってな。今の旦那とも、1代前の旦那ともよい付き合いをしていたのだ」


 飛鳥屋は今でこそ一色家の庇護下にいる商人であるが、元々は京やその周辺で活躍していた豪商の1つである。

 一時、拠点を大井川領に移していたが、今では京に堺にと、畿内でも抜群の知名度を誇っている。それこそ堺の会合衆のトップ層や京で名の知れた豪商らと肩を並べるくらいに。

 その中でも相変わらず頭1つ抜けているのが暮石屋であるが、最近は蝦夷交易よりもルソン交易に興味を示しているらしい。遠洋向けの船を大量に買いあさっているのは、その下準備であろう。


「まぁその考えは外れであるが、決して無下にはされぬゆえな。遠慮なく寄ればよい」


 宗仁にはそのように伝えておくし、山科の家主にも一言伝えておこう。どうせ伏見に戻る前に寄る予定であったで。


「もし京の案内を旦那さんにお願いしたいと我儘を言えば、旦那さんは聞いてくださいますか?」

「まぁこんな足でよければな」

「もちろんでございます。その日を楽しみにしておきますので」


 背中からため息が聞こえた気がしたのは、おそらく間違いでは無いのだろう。如信の心配は、近く京の屋敷に戻る久や虎上を考えてのことであると思われる。

 小山の屋敷を長らく空けることは出来ないと、泣く泣く久は堺での婚儀の後で大井川領へと戻っていたのだ。一応一時的な家主は菊であるのだが、菊は九条様とその御嫡子様との顔合わせがあったゆえに。


「何も口出しはいたしません。今も、今後も」

「久が怒ると考えているのか、如信」

「お怒りになられるかどうかはわかりませんが、不快には感じられるやもしれません。ですが俺は今なにも見ておりませんし、聞いておりません。聞けば良き関係の御方が山科にもいらっしゃるとか」


 それはおそらく阿南殿のことであろうな。

 あまり如信はそのことをよく知らぬはずであるのだが、誰かに聞いたのであろう。誰か…。誰か…。

 まぁ慶次だろうな。きっと面白おかしく、俺の人間関係を吹聴しているのであろう。護衛としては必要な情報だとかなんとか言いながら。


「別にお前を巻き込むつもりはない。久に寄り添うことはこの先も変わりないのだからな。それよりも港に着く。長岡殿の様子を見てまいれ」

「…かしこまりました」


 あまり納得はしていない様子で離れていった。

 まぁ久がどうこうというよりも、如信は藤乃をそこまで信用していないのであろうな。先ほど、突如として篭絡を仕掛けてきたところからも、良い人間であるという認識にならないのだろう。


「すっかり嫌われてしまいました。ところで奥方様がいらっしゃったのですね」

「言うようなことでもなかったでな。俺は戯れるためにここに来たわけではなかったし、藤乃とそういう仲になるつもりも無かった。ゆえにあえて伝えておく必要も無いと思っていた」


 俺の言葉に藤乃はジッと俺の顔を見るだけで、特に何か言葉を発すつもりはないように見える。

 だがわずかに不満げなものが感じ取れるのは気のせいだろうか。


「そう、でございますか。面と向かって言われると、どうにも残念な気持ちになってしまいますが」


 手にしていた金の入った袋を、傍にいた踊り子に託した藤乃は心なしか距離を取った場所に腰を下ろした。


「旦那さん、今後ともどうか御贔屓にお願いいたしますぅ」

「もちろん、そのつもりでいる」

「さようでございますか」


 ニコッと微笑む様を見て、こちらもホッとした。藤乃の興味が薄れたような気がして。

 菊を迎えた時、10も年下の娘を妻になど出来るかと思ったことがある。

 当時の菊が10かそこらであったから犯罪的に感じたが、今くらいの年齢になるとさほど気になるものでもない。

 しかし藤乃はさらに年下であるように見える。さすがに無理だ。ほとんど豊くらいの娘をそういった目で見ることなど出来ない。こちらに関心を寄せてくれていたのは、その振る舞いからもよくわかったが、これでよかったのだ。

 父がいないと言っていたゆえ、あくまで俺は情報を金で買うことで支援してやることは出来る。これがたまたまであるものの、縁を得たゆえに出来る精一杯である。


「お連れ様もお戻りのようでございますね」

「ならば大津湊まで、安全な船旅を頼もうか」

「お任せください」


 俺たちの微妙な距離感に気が付いたのか、如信が随分と訝しげな視線を送ってきていたが、無視してやった。

 しかし如信は護衛として一流であるが、根が素直というかなんというか。打合せなしでこちらが思ったように動いてくれたわ。おかげで久の存在をそれとなく藤乃に伝えることが出来た。

 まぁこれで正常な関係を築くことが出来るであろう。藤乃の情報収集能力は優秀であるゆえな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る