1050話 淡海を渡る異国の者たち
淡海 一色政孝
1591年夏
あの時とは違う。
天気も良く、ただ純粋に淡海遊覧を楽しむことが出来ている。直政と如信を供として、幽斎殿にも楽しんでもらえているようであった。
「しかし朝妻船に伝手があったとは。驚きでございましたな」
「前回の遊覧の折に世話になったのでございますよ、長岡殿。決してやましいことはございませんので、変に疑うことはおやめください」
「まことでございますかな?やましいことが無ければ、そのような言い方をするとは思えませんが」
俺たちの船には、やはり前回の約束に従って藤乃がいた。
まぁある程度俺たちのことを知っている藤乃である方が都合がよいと思ったからであるが、それでも身分は隠しておくべきだと思って偽名を使っている。
幽斎殿はかつて偽名として使っていた長岡の名を。俺はどこにでもありそうな田中の名を。
だが藤乃は勘づいていよう。俺が商人などではないことを。
それでも周囲の者らに正体がバレては厄介だ。襲撃の原因となりうる。
「しかしこれまで淡海は移動の手段の1つとしか見ておりませんでしたが。こうしてゆったりとした時間を過ごすこともまたよい。舞を堪能し、景色を堪能し。あぁ、気持ちが自然と落ち着いていくような。憑き物が取れていくような。まことに気分が良いものでございます」
「お褒めにいただき、光栄でございます」
俺がやめてほしいと言ったからか、藤乃はあの甘ったるい口調を最初から使っていない。おそらく幽斎殿もあの手の女子は苦手であろうで、特に藤乃に嫌悪感を抱くことも無く、良き話し相手として傍にいることを許していた。
「ところで藤乃」
「なんでございましょうか」
「我々は長らく近江に足を踏み入れていないのだがな。何か面白い話などは無かったであろうか?なに、話の種になればよいと思ってのことであるゆえ、どんな些細なことでも良いのだが」
「最近近江で起きたことでございますか…。あぁ、そういえばこの船ではありませんので、実際に藤乃が見たわけではございませんが」
「何かあったのか?」
「お姉さんの船に異国の方々が乗っていたと」
藤乃はここで一度話を区切る。
この情報だけだと、異国の者が船に乗っただけの話だ。たしかに内陸に異国の人間がいることも珍しいことではあるが、それが幕府によって許されている場合もある。
例えば宣教師でない者。つまり布教活動を一切行っていない者は、幕府の監視のもとで内陸部へ入ることが認められている。
基本そのようなものは守られておらず、地方に行けば幕府よりも大名の意向が尊重されるため、わざわざ幕府の監視などつかないことがほとんどであるが、近江であるから監視はきっとつけられたであろう。
近江守護の浅井がその地位を確立しているのは、織田家の庇護と幕府の守護承認があるからであるゆえに。分かっている話であるが、もはや浅井に主権などほとんど無いに等しい。
近畿の南部にも、他の大名に従属しながら守護に任じられている者たちはいるが、それは決して勢力の弱体からくる従属では無く、利害関係の一致などから来た従属。
なんなら最近は織田家の影響力が低下してきているため、その関係も終わりを迎えつつあるくらいである。一方で浅井と織田の関係はいっこうに変わる気配が無い。
これは浅井が大名としての力をほとんど失っていることを示していた。
他で言うところの奥羽の南部家であったり、備前の宇喜多であったりと似たようなもの。三好や松永とは明らかに違う存在なのだ。
「異国人らはどこへ向かったのであろうか」
「大津の湊で船に乗り、そのまま淡海の最北へ。寄り道もなく、まっすぐに向かわれたと。その際、お姉さんは通常の御役目を果たそうとされたそうでございますが…」
「断られたと?」
「藤乃と旦那様のときと同じでございます。大金を渡されて、舞の礼だけされたと。お姉さんも困惑したそうでございますが、中に入る金を見て腰を抜かしたと申しておりました。本当に腰を抜かしたのかどうかは不明でございますが、嬉々として話していたところを見るとよほどの額であったのではないかと思われます」
それが漏れたのは口止めを強要されなかったからか。それともその女の口が思った以上に軽かったからなのか。
いずれにせよ、その異国人もまた訳アリなのであろう。
「それで気になったのはその金の話では無く」
「ん?そこが話の本題で無かったのか」
「これはそういうことがあったという話でございます。藤乃が申し上げたかったのはそういうことでは無く、その中に異国の方と同じような格好をした日ノ本の民がいたということ。金を渡したのもその方であると伺っておりますが、何よりもその者は異国の者の言葉がわかっており、こちらでは理解できぬ言葉を使っていたと」
「…それはまさか」
異国の言葉を操る者。近江の北部に向かう理由を持つ者。金を持っている者。
これらに共通する人物があっさりと浮かんできた。直政や如信は何が何だかといった様子であったが、幽斎殿もどこか様子がおかしいように見える。
先ほどまでは舞と景色を堪能しておられたはずであるが、今は藤乃の話を熱心に聞き入っていた。
「その者の名はわかるであろうか?」
「はっきりと聞こえたわけではないらしいのですが、異国の者はこたろう、こたろうと。それだけははっきり聞こえたので、おそらくそれが名前なのではないかと」
しかし人づてに聞いた割には随分と色々な話を藤乃はしてくれた。まるで自身の体験談のように。
しかしそれを問うてみたところ、そのお姉さんが興奮状態にあったらしく、一から十、いや百も千も聞かせてくれたらしい。
本当にその異国の集団を大津で乗せて、塩津浜へ…。
「ん?そういえばその一行は塩津浜へ向かったのか?」
「えぇ。お姉さんはそう言っておられましたが」
俺の思っている人物であれば、淡海を縦断した後、若狭へと向かうのだと思っていた。最短で行くのであれば、多少道は険しくとも高島の方で船を降りるはず。しかし塩津浜で降りたとなると、話は少々変わってくるように思えた。
一方でこの話に強く惹かれていた幽斎殿は、何やら堪えるように静かに肩を震わしておられる。
「長岡殿?大丈夫でございますか?」
「い、いえ。ただその方が誰か確信が持てないものの…」
そしてついには目に涙まで浮かべる始末。俺も藤乃もその涙の意味をくみ取ることが出来なかったが、幽斎殿は非常に満足げに涙をこぼしておられる。
ならばこの話をしてくれた意味はあったのだろう。俺も情報収集を依頼してよかったと改めて思えた。
しかしコタローでは無かったのか。てっきりそうだと思ったのだがな。
元若狭の大名であるし、故郷の様子見に淡海経由でこっそりと。
それからしばらくして幽斎殿はすっかりもとに戻っておられたが、明らかにもう迷う心も何も無くなっているように見えた。
その藤乃の話が、完全に幽斎殿の心をスッキリさせたのであろう。俺はもやもやしたままであるが、いずれ時が来れば幽斎殿も話してくれるやもしれぬ。
そのときを待つしかあるまい。今この話を深堀するのは野暮というものであるゆえ。
「しかし藤乃」
「なんでございましょうか」
「よく湊ですぐ俺を見つけられたな。たった2度しかあっていないにも関わらず」
俺から探し出すことはさほど難しい話ではない。藤乃という女が乗っている朝妻船を探せばよいだけだからな。
彼女らもまた商業を行う上で組織を作っており、顔見知りも大勢いるような状態である。ゆえに聞けばわかるのだが、逆は難しい。
なんせ俺が来ることなど知らぬはずなのだ。
しかし藤乃は俺が見つけるよりも先に、船に乗る若い男を差し向けてきた。
「それは…」
「それは?」
「秘密でございます。女は秘密の1つや2つ持っているもの。そうでございましょう?」
口元に人差し指を当て、随分と妖艶な雰囲気で俺の問いから逃れる藤乃。だがこれもまた深堀すべきではないのであろう。何よりも秘密であるらしいからな。
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