1031話 無き縁談の話
伏見今川屋敷 一色政孝
1591年春
昼餉を食べた俺は、そのまま部屋に閉じこもっていた。
畳の上には幾枚もの文になるはずだった残骸が散らかっている。そんな状況で、さらに机の上には書きかけの文があるしまつ。
「政孝殿、例の話をまた」
どうしたものかと寝転がって天井を眺めていると、幽斎殿がひょこりと顔をのぞかせた。
「例の」とは、先日伊勢家の屋敷で持ち掛けられた話のこと。美和を九条の嫡子に嫁がせてはどうかというアレだ。
どういうわけか、まだ返事をしていない段階であるにもかかわらず京ではまるで縁談が成ったかのように盛り上がっている。
まぁあちらは前関白の嫡子であるゆえ、多くの者の関心が集まることは当然である。あるのだが、末の娘を俺個人の事情によって政治利用することに抵抗を覚え、未だ返事が出来ていなかったのだ。
まだあちらに話が行く前であれば、貞興殿に断ったところで失礼にはあたらないと考えていたからである。しかしこちらの思惑に反して、あの話を聞かされた数日後には市井ですら耳に聞こえてくるような状況。もはや九条家の耳にも届いていることであろう。
これは思った以上に最悪な展開であった。
「今日はどちらで」
「三条西家の伝手もあり白川家の方で」
「…ま、まさか神祇伯の白川家で?」
「その白川家でございます。神祇官の長官ともなれば、やはり耳が早いのでございましょうか。屋敷に着いて早々尋ねられましたが」
「公家も派閥争いに忙しいということでございましょうな。九条家の懐事情を一色家が支えるとでも思われているのやもしません。公家諸法度の発布により荘園から得られる収入にも影響が出ておりますし。しかし実際のところは逆の立場でこの話が持ち上がったというのに」
それもまだ決断前の話だ。
もはや俺は引き下がれない状況にある。何と言っても、ここまで噂が広まった状況の中で俺が断ればどうなるのかということだ。
明らかに一色家の心証が悪くなる。どのような理由をつけたところで、結局縁談を蹴ったことに変わりは無いからだ。
政所執事、伊勢貞興。嘘がつけぬ腹黒だと思っていたが、まさかこのように逃げ道をふさいでくるとは想定外だ。
なんせこの工作には一色のみだけではなく、九条すらも巻き込まれているのだからな。
「まぁ宮中でもこの話でもちきりでございましょう。出世頭とも言われている九条家の嫡子、忠栄様でありますからな」
「ところで、まだ書きあがらないのでございますか?国許と殿に宛てた文は」
「殿へ宛てた文は書きあがっておりますとも。そちらに」
しっかりと封をした文は、屋敷の人間に託して遠江へ送ることになる。そこで政豊に託し、駿河へと届けてもらうのだ。
だがもう一方、国許へ宛てた文が書きあがらなかった。宛先は政豊ではあるのだが、内容自体は菊と美和へのもの。
出来れば今春行われる政豊と鶴姫の婚儀に合わせて上洛してもらいたいという旨なのだが、果たしてこの事態をどう説明すればよいのかがわからない。
菊は随分と美和を可愛がっているし、いっても歳はまだ5になったばかり。許嫁がいてもおかしくはないが、経緯が経緯なだけにどうしても文がまとまらなかった。
「…」
「気が進みませんか」
「まぁそれは」
「実は私も娘を嫁に出すことになりまして、最近はその件で三条西家によく顔を出しているのでございます」
「娘?三条西家の御方に嫁ぐほどの歳の娘が幽斎殿におりましたか?」
「上の娘でございます。実は最近実家に戻っておりまして。それを承知の上で中院家の現在配流中の当主様に輿入れをしてほしいと」
「中院家の当主…。あぁ、そういえばそういった話も」
中院家の当主、名を中院通勝という御方は宮中での密通行為が明らかになったために当時の帝より勅勘を蒙り、丹後舞鶴に配流となっていたのだ。ちなみにあの三家とは事情が違うため未だ赦されておらず、おそらく今も丹後の地におられるはず。
中院家と三条西家の関係は、幽斎殿の師である先代三条西実枝様の妹君が中院家の先代当主の室。そして通勝様の実母にあたる。
ゆえにこの話が持ち上がったのかもしれない。
ちなみにであるが、先ほど話に出た白川家はこの中院家の人間が当主であるから、三条西家の伝手で関わりを持たれたのであろう。
「通勝様は歌人として名高く、配流されてからは心を入れ替えて和歌の道を邁進しておられるとか。そんなときに私の話をお聞きになられたそうで」
歌人として実績のある両者の関係構築は、おそらく周辺の御家にも良い影響を与えると思われたのかもしれない。
また幽斎殿はその人柄からも公家衆の受けが良く、今回の縁談によって通勝様の赦免を認めていただくための一手と期待されているのだと容易に想像できた。
それを思うと俺と状況が似ているとも思える。自身の娘が政治に利用されている。
置かれている立場はまるっきり俺とは逆であるが、まったく悲嘆とか苦悩のような感情は読み取れなかった。
「心配ではありませんか?」
「まぁ宮中での密通というのが…。ですが歌人としての腕は凄まじく、その道に関わるからには一度言葉を交わしてみたいとは思っております。またその腕前を三条西家も保証してくれておりますので」
「そうではなく娘の方の」
「あぁ、そちらは何の心配もしておりません。娘の伊也は父親の私が思っている以上にしっかりしておりますので」
言い切る幽斎殿。だがまあそれもそうかと思いなおす。
そもそも美和と幽斎殿の一番上の娘とでは年が違いすぎる。上の娘伊也は政豊や澄政と同世代なのだ。
そりゃしっかりしている年頃であろう。
「それほどまでに心配でございますか。今の京に置いて九条家以上に安全な場所を私は知りませんが」
「まぁ敵の多い御方でありましたからな」
「あまり大きな声では言えませんが、織田の御隠居様が亡くなられてから織田家の存在感がグッと落ち込みました。九条家は次なる後ろ盾を探しているという噂も聞いております。すべては次代の宮中の実力者になることが約束されている左近衛少将様のためであると」
「それゆえになかなか忠栄様の縁談が纏まらなかったというわけでございますか」
「どうやらそのようで。しかし此度に関しては、間違いなく耳に入っているであろうにも関わらず九条家は一切行動を起こしておられません。つまりあちらも政孝殿の動きを見ているのではないかと思います」
そう指摘されて俺の頭の中はスッと纏まっていくような感覚になった。
なぜ九条家が否定も何もしないのかという理由について、1つは噂の情報元が俺であると疑われている。噂が広まれば広まるほど、あちらも後戻りできなくなる。九条家の嫡子の嫁探しは公家の中では有名な話であるようだから、俺がそれを利用したと思われた可能性だ。この場合、対一色感情は最悪なものとなっているだろう。それはもう間違いなく。
そしてもう1つ。噂の元は別にあるとして、俺がこの件に前向きに動くかどうかを見極められている。この場合は相手にとって不足無しと思われている可能性が高い。
俺がまことに縁談するように動けば、あちらも乗ってくる可能性はある。
だがどちらにしても俺たちが何の繋がりもなく、勝手に行動を起こすわけにはいかない。そもそも我らは顔すら合わせずにこのような状況に陥っているのだ。どうやって今後動けばよいのか。
となればすべきことは1つだ。少なくとも巻き込まれた我らは、勝手をする前に互いの気持ちを確認する必要があった。
美和に上洛を促すのはその後だ。もしかしたら普通に立ち消えになる可能性だってあるのだからな。その場合はあまりにも美和が不憫である。
「やるべきことは決まりましたか?」
「幽斎殿のおかげで目の前が開けたような気がします。早速貞興殿にお礼をしに行かねば」
「ふむ。その割には力の込めすぎで筆が折れてしまっているようでございますが」
「このような良縁を生んでくださった貞興殿に感激していただけのことでございます。さっそく日時を確認しなければなりませんな」
新たに筆を用意し、ササッと密会の都合をつけられないかと文をしたためた。あちらは間違いなく乗ってくる。
この噂、絶対に、疑いようもなく貞興殿が絡んでいると踏んでいるゆえに。いったいあの若造がなんと言い訳してくるのか、今から楽しみである。
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