1030話 大僧正 義演
京九条屋敷 九条兼孝
1591年冬
「何をしておる、おぬしらは」
「これはこれは。今、宮中で最も注目の的となっている兄上ではございませぬか」
「宮中のみならず、京やその周辺では民たちですらその話でもちきりでございますぞ」
我が倅より急ぎ部屋に来てほしいと人が寄こされたゆえ、こうして慌てて屋敷に来てみればなんという有様か。
弟で右大臣となった昭実と、醍醐寺の座主となった義演が倅忠栄にまとわりついていたのだ。
何事かと声をかけてみれば、すでに昭実は酔っているのか顔を真っ赤に染めておる。
「祝い酒でございますぞ、兄上。何とかして縁を持ちたいと多くの者たちが狙っていた男を、またも兄上が射止めたのでございますから」
「射止めた?いったい何の話をしておるのだ」
関白を辞してから、麻呂はあまり宮中と関わりを持たなくなっていた。宮中に参内することも無く、ただ外から出来ることをやることが明らかに増えたのだ。
その中には公家諸法度の違反をするものがでないように監視したり、時には我が権力を使って告発したりと、実は大いに忙しかった。
そんな中で、我が倅の忠栄は元服を果たす。昨年には正五位下左近衛少将に叙任され、今年のうちに中将に昇任される。
九条家は安泰であると思っていた矢先のこれであった。
「なんの?このようなときにいったい何の冗談でございましょうか。倅の嫁が決まったというのに」
「…決まった?麻呂はそのような決定を下してはおらぬが」
すると兄弟3人は目が点となり、顔の赤かった昭実も酒が一気に抜けていくように真顔になっていく。
唯一状況が分かっているのは、おそらく当事者である忠栄くらいであろう。
ゆえに「助けて」だったのやもしれぬ。
「忠栄、何があったか説明できるであろうか」
「はい、父上」
まだ5つである忠栄は、言葉が足らないながらにどうにか宮中で起きている噂とその真実について説明している。
それを聞いて、早とちりだったと気が付いた弟ら2人は顔を真っ青にさせておった。
祝い酒など、気が早いにもほどがある。
「つまりはこういうことであろうか。幕府の政所執事である伊勢が、前に麻呂がこぼした愚痴を聞いていた日野権大納言殿の話を漏らしてしまい、適任であろう者を伊勢が探しておったと」
「そこで一色の名が出たのでございましょうな」
「まだ両家に話など来ていない段階で、権大納言殿が漏らしたか。あるいは伊勢が漏らしたか」
「政所執事であるあの男は、下手なことを口にはいたしませぬ。おそらく漏れたのは権大納言殿からではないかと」
昭実も朝廷の信頼を損ねかねぬ一大事だと、随分と真剣に顔を突き合わせる。一方で事の重大さを理解していないはずがない義演は、楽しげに忠栄と言葉を交わしておった。
「まだどうなるかもわからぬというのに。これだけ事が大きくなれば、万が一立ち消えとなったらどちらもただでは済まぬであろうぞ」
「九条の家はともかく、一色は相当に印象が悪うなりましょうな」
「…あの男がそれを理解しておらぬとは思えぬが」
そう考えると、此度の噂が一気に広まったことに思惑が隠されていると自然に行き着くわけである。
これは間違いなく仕組まれたものであろう。
伊勢か、あるいは日野・広橋の兄弟に。
「ところで信房は如何しておる?参内はともにしているはずであろうに」
「叔父上様は鷹司の屋敷に戻ると言っておられました。父上によろしくお伝えするようにとも」
「…麻呂が今日、この屋敷を訪ねることを知っておったのか」
そう尋ねると、忠栄の視線がスッと昭実の方へとむけられる。
なるほど、と思った。最初から昭実が面倒な絡み酒をするとわかっておったのであろう。それゆえに最後まで面倒を見ずに、自身のみ逃げたわけか。
「しかしそうか。たしかに一色の娘であれば、麻呂としても異存はないのぉ。何かと都合もよい」
「おそらく伊勢がその話を一色にしたのも、後ろ盾として九条を利用するためでございましょう。さすれば厄介な者たちからの攻撃も減りましょうから」
「未だあの襲撃の黒幕は見つからぬようであるが、公家が絡んでいるやもしれぬと関係各所は動いているはず」
「京での暴挙でございましたゆえ、寺社のお偉方も気を張っております。かくいう私もそうでございますが」
「義演は最も気を張らねばならぬ立場であろう。兄の知らぬ間に大僧正という、手の届かぬ場所にまで行ってしもうて」
「任じられたと知った際には、真っ先に醍醐寺へと祝いの人を寄越してくださったではございませんか」
昭実の軽口に付き合う義演は、忠栄と違って手慣れたものである。
ただたしかに義演は随分と遠くに行ってしまったように感じる。醍醐寺の80代座主となったのは、かれこれ15年も前のこと。
そこから弟は躍進し、10年前に大僧正、5年前には准三后宣下である。
五摂家の生まれであり、過去何人も関白を輩出してきたこともあるせいか、僧の身で上るところまで上り詰めた義演の方がよほど物珍しく、そして遠く、尊き存在に映るものであった。昭実が面倒な絡みをするのはこのせいである。
そして多忙の身である故、滅多に我ら兄弟が顔を合わせることもない。
ここに信房がいないことが残念でならなかった。
「して、実際のところはどうなのだ」
「…怪しい動きをしているという情報は毎日のように寄せられます。ですが大半は幕府が発布した公家諸法度に一矢報いたいものの、どうにも出来ぬ者たちが口からたいそうな夢を語っているにすぎませぬ。襲撃の黒幕に繋がる話は、これといって」
「ふむ。近衛権大納言殿が興味を持っているゆえ、核心に迫れば恩を売ることも出来るであろう。さすれば両家の関係もよりよいものになるやもしれぬ」
「恩を売るなどと言うている間は、とても良好な関係になどなれませぬぞ。私は厄介ごとに首を突っ込む兄上がたを心配しております。此度も今一度念を押すために、この屋敷を訪ねたのでございますから」
義演の言葉に、思い当たる節のある我ら兄2人は思わず口を閉ざしてしまう。
たしかに五摂家の内、3家の当主は二条の兄弟である。ゆえにこれまでは色々と厄介ごとに巻き込まれずに済んできたところはある。
しかし、私が表舞台に出られなくなったとき。すなわち忠栄が厄介ごとを麻呂から引き継いだ時、果たして無事でいられるか。
全ては父である麻呂が招いた事態を、倅に擦り付けるのか。
「少しばかり行動を鑑みる必要があるやもしれぬ」
「“やも”ではなく、鑑みるのでございます。いつも私が忠告に来られるわけではないのですぞ」
グッと顔を近づける義演を引き離しつつ、麻呂はちゃんと目を見て頷いた。
「そうしつこく言わずとも、おぬしからの忠告はしっかりと受け取った。ゆえにあまり我ら兄のことを心配しすぎるでない」
「であればよいのです。近く私は千僧供養を幕府からの命で行うことになりました。ゆえにしばらくは顔を見せることも出来ません。どうか私に念仏を唱えさせないよう、お願いいたします」
「ぶ、物騒なことを」
「そう言わせたのは兄上様方でございます」
昭実の言葉に、少し苛立たしげに言葉を替えす義演。その様を緊迫の表情で見つめる忠栄。
しかし千僧供養、か。
乱世に終止符を打ったことを印象付けるため、長く続いた戦乱の世で散った命を供養するという名目で幕府が主導で行うもの。
取りまとめたのは一色同様に義助殿の相談役である崇伝という男である。南禅寺の者ではあるが、その力は各方面に強い。
その分敵も多いようであるが、義演も複雑な感情を抱いていることであろう。
なんせ、京やその付近にある仏教八宗より僧100人を出仕させてのものであるゆえ。この弟は真言宗が今日まで国家鎮護を担ってきたのだと強く信じておる。このような大事な御役目も、当然真言宗の宗派が担ってこそであると思っているはず。
しかしそこは幕府との関係を重視する。大僧正という立場であるからこその我慢。そうしなければ、あの相談役によって何をされるかわからぬ。法度を発布された公家のように手足を縛られてしまうやもしれぬ。
これが日ノ本のためになると分かっていても、やはり当事者は受け入れられぬであろう。麻呂も多くそう言った声を聴いたゆえ、わからぬことでもないが…。
「義演」
「なんでございましょうか、兄上」
「しっかりと供養するのだぞ。これからの日ノ本は、もっと落ち着いた国になるはずであるからな」
「承知しております。精一杯やってまいります」
しかし兄弟みな、何かしら嫌なものを抱えている。
信房も気丈には振舞っておるが、紀伊へ招待された際に受けた襲撃の傷が未だ癒えぬという。それは実際に刃を受けたわけではないが、多くの従者が殺害される景色や、耳に入るすべての音が弟の心を蝕んでおる。
早く忘れてくれた方が良いと、同じく近衛府に入ることになった倅を預けたのだが、事はそう簡単ではないようである。
「忠栄」
「なんでございましょうか、父上」
「さきほどの縁談話、とうぶんは真に受けぬようにな」
「かしこまりました。それに半人前の私に許嫁など、まだ早いと思います。ただ待ちたいと思います」
そう言って忠栄は昭実が持っていた杯を取り上げる。
「あっ!?」と声を上げたがもう遅かった。これで夜道でも無事に帰ることが出来るはず。
しかし伊勢は知っていたのであろうか。麻呂が忠栄の妻に求める条件を。
そうとしか思えぬほどによい人選をしてくれたと思うがな。
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