1029話 一色家と九条家、そして伊勢家

 京愛宕郡伊勢屋敷 一色政孝


 1591年冬


 随分と協力的な態度を示してきたゆえ、俺はもう一歩貞興殿に踏み込むことにした。

 当然その内容は、幕臣らが結成している派閥に対抗するための協力関係だ。常に中立の立場を貫く政所執事を味方とすることが出来れば、それほど心強いものはない。

 貞興殿が俺の利用価値を認めたのだから、完全なる協力関係とまではいかずともそれなりの譲歩があると踏んでのものであった。しかしこちらの思惑は簡単に崩れ去ることになる。


「ご冗談を。私が政孝殿と協力関係を築けるはずがございません」

「なぜそう言い切れる」

「まず1つ。これまで以上に厄介ごとが増えましょう。特に私が政孝殿を贔屓していると他の幕臣らに知られたら、間違いなく今以上に面倒なことになります。それは政所の役割を滞りなく行う上で最も避けなければならぬこと。今は幕府の役職の線引きが随分と曖昧なものになっておりますので、なおさら我ら政所にかかる負担が大きいことは、政孝殿も崇伝殿もよく知っておられるはず」


 そういわれると、俺たちは頷くしかできない。

 そもそも室町幕府の京に置かれた組織を見てみると、政所は主に財政を預かる部署である。他にも問注所、侍所、評定衆などがあり、それぞれが別の役割を担っていたのだ。

 政所が財政を預かるところならば、侍所は京内外の治安維持、問注所は本来裁判を行ったり、記録・訴訟文書の管理などをしていたが、今では随分と役割が縮小されて、文書作成や土地の管理に関わる文書の保管に留まっている。代わって裁判など訴訟関連を担っているのが、評定衆の下につく引付と呼ばれる者たちだ。

 また侍所についても、京内外の警備・治安維持は織田家によって設置された京都所司代があるためにまともに機能しておらず、問注所も諸事情で組織としては随分と小さなものであるために、一部政所が仕方なく役割を受け持っている始末。

 これらを統括していたはずの管領は現在不在同然の状態だ。なんせ京に憧れを抱いていたはずの畠山貞政がまったくその役割を果たそうとしないゆえに。

 理由は単純なもので、2年前に行われた京二条柳町にある松嶋屋の芸能集団が行った紀伊での興行に関して、多くの公家から幕府に対して苦情が届けられたからであった。

 主な苦情は、紀伊道中での山賊やならず者らがまったく取り締まられていなかったこと。義任様が案じておられたように、松嶋屋浮雲大夫らの集団も山賊どもに襲われた。そして管領である貞政に招待された公家すらも襲われた。

 おそらく招待客の中で最も高位にあたるであろう鷹司左近衛大将様は身の危険を感じて、早々に京へと引き返され、他の公家の方々も命からがら帰京を果たされたという。これは紀伊を預かる者として完全なる怠慢であった。まぁ紀伊の北部はまったくの別勢力である雑賀衆や、それに従う根来衆の影響下であるゆえ、いくら畠山家でもそう簡単に手出しが出来るものでもないのだがな。だがそんなことは招待客にとっては何ら関係が無いことだ。

 公方様もこの事態を重く見ておられ、弁解の機を与えると入京を命じられたのだが、病だなんだと理由をつけて完全に紀伊へと引きこもっている。解任も時間の問題であろうな。

 …話が逸れたが、管領不在に加えて他の組織の縮小、また相次ぐ将軍交代による実務経験のある幕臣不足などもあって、政所はそれらのしわ寄せを思いっきり受けている状態なのである。管領の代わりを副将軍である義任様が務めておられたのだが、今は肥前に向かわれており不在。

 これ以上の面倒事は増やさないでほしいというのは、おそらく本心からきている懇願にも近いものなのだと感じた。


「そしてもう1つ。たしかに多くの幕臣らは、再び幕府が力を取り戻したことしか見えておらず、愚かな者どもも大勢おります。それは中立の立場を貫き、いつも遠くから見ていた私が断言いたします。ですが必ずしも彼らが間違いであり、あなたがたが正しいのでしょうか。彼らの言葉は妄言や嘘八百だと突っぱねて良いのでしょうか。最初に申しました通り、私にとって誰が権力を持とうと、誰が公方様の側近になろうと、それは些細な問題なのでございます。ただ幕府が健全にこの日ノ本を統治することが出来れば、それすなわち伊勢家当主として、政所執事としての役割を全うしたと言えましょう」

「それが俺たちと完全に手を組めぬ理由であると」

「将軍が争いの中で交代したとき、我ら政所の人間は真っ先に処分されるのでございます。我が父や祖父がそうであったように。我が兄が幕府内での争いに利用されて死んだように」


 どこか寂しげな表情を見せた貞興殿であったが、すぐにこれまでの調子を取り戻して強気な表情を俺たちに向ける。


「私があなたがたを味方するかどうかは、場合によります。必ずしも味方であるとは思われませぬよう」

「…もし我々が、幕府にとって、日ノ本にとって有益な話をすれば」

「崇伝殿、武士に二言はございませぬ。もし崇伝殿が、政孝殿が、日ノ本のためになるであろう事を話されれば、その時は政所の長としてお二人を盛大にお支えいたします」


 これは完全なる協力関係ではないが、時と場合によっては外から眺めるだけではなく、我らを支持してくれるとの言質を取った。

 あとはこれから見せるものに納得してもらうだけである。


「ではさっそく話を聞いていただきたいのですが」

「いきなりでございますか。いや、今回はそちらから訪ねてきたのですから、当然の流れでございますね。して、いったい私の協力が必要であるとはどのような用件でございましょうか」


 崇伝殿は厳重に縛った巻物をほどき、そしてそれを貞興殿に手渡す。

 貞興殿はいぶかし気な表情でそれを受け取ると、一気に隣の部屋に向けて投げる勢いで巻物を床へと広げた。

 冒頭部分には『禁中諸法度草案』と書かれており、数か条に渡る法度案が詳細含めてびっしりと書き込まれている。


「…禁中ですと?」

「その通り。私は恐れ多くも帝にすらも法度を課そうと画策しております」

「馬鹿馬鹿しい。そのようなもの、幕府も朝廷も当然ながらに反対しましょう。かくいう私も」

「最後まで読まれましたか?」


 崇伝殿はあくまで落ち着いていた。

 おそらく貞興殿は冒頭の一文目で焦って答えを急いだのだと思う。これだけ豪快に広げたのだから、誰かに見られてしまう危険もあったゆえに。

 しかし読んでみたら、意外とすっきりするのだ。

 俺の心に引っかかっていた憑き物が「サーッ」ととれていくような。かゆいところに手が届いた感動というのであろうか。

 さすがは宮中の実力者にまで手を借りて書き上げたものではある。


「ま、まだでございますが」

「であるならば、一度目を通していただきたいのでございます。返事はそれからでも遅くはないはず」


 どれだけ書き込まれていても、今日中に読み終わらないなんて量ではない。しばらく待てば、理解のために頭の中を整理する必要があったとしてもそんなに待たずに済むはずだ。


「まぁ気長に茶を頂いておりますので」


 俺は先にいただいていたのだが、崇伝殿も遅れて一口。暖かい茶は身体を隅々まで温めてくれるのだが、一方でまるで凍ったように微動だにしない貞興殿。

 まぁそれだけ真剣に読み進めてくれているわけだが、それにしたって静かな時間であった。茶のおかわりを用意すると言っていた屋敷のものがいたのだが、さすがにこの部屋には入らせることが出来ない。

 俺たちは中身の無くなった湯飲みをその場に置き、ジッと貞興殿が再び口を開く時をひたすらに待つ。そして永遠とも思えるほどの時間が過ぎ、ようやく俺たちの顔を見た。


「色々と思うところはございますが、納得できる内容に仕上げていただければ私も“此度は”協力いたします。ただし間違いなくいばらの道になりましょう。この提案を公方様にお伝えすれば、瞬く間に公家衆にも広まるはず。さすれば敵は増えますぞ」

「今さら1人2人増えたところで変わらぬ。そうであろう、崇伝殿」

「…まぁたしかに」


 荒事にはあまり縁が無かったらしく、崇伝殿も覚悟は決めていた様子であったがどこか歯切れが悪い。

 まぁ傍に足の動かぬ俺がいるのだから、見えぬ何かに覚悟をかき乱されているのやもしれぬ。だがそんなことよりも、俺には気になることがあった。

 どうにも貞興殿の様子がおかしいのだ。


「私が思いますに、お二人ともそれなりの後ろ盾を持っておられますが、幕臣でもなければ、大名家より派遣された家臣としての立場でもない。ゆえに狙われてしまうわけでございます。冷静に考えれば虎の尾を踏む行為であると分かりそうなものなのですが。崇伝殿はまぁ、南禅寺という朝廷にも顔が利く後ろ盾がありますが、政孝殿はどうでございましょう」


 問われて考えてみた。

 縁のある公家はそれなりにいる。五摂家の方々とも親交があり、外戚の勧修寺家や万里小路家とも関わりがある。

 前関白である九条様や近衛様もまた同様に。

 しかし確固たる後ろ盾というわけではない。これは見えぬ縁でしか繋がっていないからだ。


「実はとある御方が室を探しておられます。まだ五つかそこらでございますが、当時置かれていた状況も相まって、許嫁すらも用意しておらぬと。政孝殿の姫様はちょうど五つ頃ではございませんでしたか」

「一介の家臣の娘を、強力な後ろ盾になりうるような血筋のお公家様に嫁がせると?」

「一色家の財が凄まじいことは、もはや京の誰もが知る事実でございます。先日の堺での騒動からもよくわかるはず。そのうえで関係を欲する公家の方々は多いと思いますが」

「…」


 俺は無言で隣に座る崇伝殿を見た。

 なんとか言ってもらおうと思ったのだが、その口から出たのは裏切りにも等しい言葉。「まぁ、一考する価値はあるかと」であった。

 つまり美和をどこかしら高貴な御家に嫁がせてはどうかと言われているのだ。


「して、その御家とは?」

「前関白、九条様のご子息様でございます。昨年正五位下左近衛少将に叙任されましたが、今年のうちに従四位下左近衛中将に昇任されるという話も。忠栄様とのご縁、良ければ取り持たせていただきますが」

「すぐに答えは出せぬ」

「そうでしょうとも。ですが私はいつでも間を取り持つ用意はしておきますので」


 まぁなんとなく察した。

 これが貞興殿流の縁の紡ぎ方なのだと。持っている人脈や権力を使えるだけ使う。一方で自身の役割も忠実にこなし、絶対に手放すことが無いように立ち振る舞う。

 各方面に良い顔をすることは難しいことであるが、それを器用にこなしてしまうのがこの男というわけである。

 この調子でいけば、歴代の政所執事でも最も優れた人物として称されるやもしれん。そんな可能性を秘めているように感じた。

 まぁそんなことよりも、である。俺の後ろ盾のために、唯一出産に立ち会えた娘を利用するような真似をしてよいのか。そこだけがどうにも悩ましいところではあった。

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