幕府の裏宰相

1025話 幕府内派閥と副将軍

 伏見今川屋敷 一色政孝


 1591年冬


 南蛮の商人らによる条約違反。当時は知られていなかったことであるが、範以様が今川家当主というお立場で幕府に告発してくださったことで、この悪質な行いは白日の下にさらされた。

 この奴隷売買禁止令は公方様の名で発布されたものであるから、幕府の面目を守るためにも躍起になって調査を行われたらしい。

 結局大名家の関与があるわけでは無かったが、九州の西部、特に肥後や肥前の一部の領主や民が勝手にやっていたことだと判明したのだが、監督責任を取らされる形で島津と龍造寺は該当地域の統治権を剥奪されることになった。

 もちろん多少の反発はあったが、それ以外にも南蛮人絡みで彼の地は問題が絶えない。また両家からしてみても、一国丸ごと統治権を失うわけではなく、問題が絶えない地域のみに限られていたためか、反発もそこそこに納得はしたようだ。ようは厄介払いのようなもの。これで南蛮人絡みの対応に追われることも無いと、逆に安堵しているかもしれないな。

 以降は幕府による直轄統治によって、経過を見守るとのこと。果たしてそれが完遂されるのかは疑問であるが。

 派遣されるのは幕臣として長らく公方様に尽くしてきた蜷川親長殿と、少し前までは義種様のお傍にあった三淵晴豪殿の2人。果たしてこの2人がどこまでやれるのか。

 幕府としても今後、さらに両地域に対して注意していくことであろう。


「ようやくお戻りになられましたな、政孝殿」

「急に無茶な役割を押し付けてしまったこと、まことに申し訳なかった」


 蟄居が解けた俺は、即座に京の今川屋敷へと戻った。

 留守役代理であった幽斎殿に出迎えられた俺であるが、通された部屋は私室としていた場所ではなく広間。

 数人の男らが頭を下げて待っている状況だ。


「民部少輔様の御帰還をお待ちしておりました。早速ではございますが、公方様が御所にてお待ちでございます」

「…幽斎殿、これはどういう状況であろうか」

「政孝殿の蟄居が正月に解けたという話は京でも話題になりました。まぁ待っておられた方々も多くおられますので。それで今日、こちらに入られるとどこで耳にされたのかはわかりませんが、朝早くよりこうして広間で待っておられたのです」


 このおそらく公方様から遣わされたであろう者たちは明らかに疲れ切った表情であった。

 まぁ待たしてもらっている身が、勝手に屋敷の中は動き回れぬし、広間の中をうろうろすることも出来ない。

 小声で雑談くらいはしていたであろうが、談笑するとこれまた家主に失礼にあたる。

 いつ俺が到着するかもわからぬまま、永遠とも感じられる時間をこの広間で過ごしたのであろう。

 本当はもう少しゆっくりしたかったところではあるが、この者たちがあまりに不憫であるため、茶を1杯もらった後に用意された馬車に乗り込むことにした。


「少しばかり支度をせねばなりませぬので、どうかくつろいでお待ちを」

「ご配慮、かたじけのうございます」


 最前列に座る若い男が頭を下げる。

 俺は気持ち程度に頭を下げて、広間から離れた。

 そして隣を歩く幽斎殿に、昨年の出来事を簡単に尋ねる。だいたいのことは耳に入ってきていたが、それでも詳細までは探れない。

 あくまで公にされていたことや、噂話程度だ。幽斎殿は俺の代わりに御所に通ってくれていたゆえ、いったい中でどのようなことが起きていたのか詳しく説明してくれた。


「…どれだけ俺は恨まれているのだ」

「幕府の要請なく行われた処分であったこともあり、もう政孝殿が表舞台に立つことは無いと、その方々の大半は考えておられます。おかげで随分と無茶をされました。志を同じとされている方々の協力もあり、どうにか踏みとどまっております。ですがあれだけは本当に揉めました」

「あれ?」

「肥後の天草と、肥前彼杵郡の大村領の一部。この地に派遣する代官を誰にするのかでございます。両地は厄介なものでございますが、同時に南蛮とも深い関わりを持つ地でもございますので。どこの派閥に属する者が送り込まれるのか。成否によっては派閥の勢いを増すことも殺すことも出来ます」

「そういうことか。それで送り込まれた両名の派閥はどこに与するもので?」

「三淵殿は副将軍である義任様の影響が強くあり、派閥に入っているという事実はございません。長らく若様の側近も務めておられましたので。一方で蜷川殿は、当人にその気がないとのことですが、周囲を旧義昭様幕臣派閥が囲っております」


 蜷川親長という男は、織田家中で丹波・丹後・若狭で影響力を持つ明智家とも縁がある。

 だからなのかは知らないが、義昭が京から離れた際にはそれに同行し続け、間者として、そして監視役として義昭の京入りまで付き従っていたのだ。

 ゆえに旧義昭旧臣派閥に組み込まれているのは違和感である。

 まぁ当人は最後まで正体を明かさなかったゆえにな。一方で俺と同じく近江入りした元義昭時代の幕臣でもある細川輝経殿は、安芸で袂を分かって入京しているため相当に敵視されている。この輝経殿は四職の子弟らが多く身を置いている派閥にあると、かつては聞いた覚えがあった。


「なるほど。関与できなかったところはさぞ悔しがっておりましょうな」

「三淵殿に後ろ盾が無ければ、躍起になって取り込もうと暗躍していたのでしょうが。背後におられるのが義任様ではどうにも。特に龍造寺と島津の島原半島での戦を仲介された義任様の存在感は相当に大きなものでございます。それにその発端となった有馬家の巡る扱いに関して言えば、南蛮人と深い関わりのある大友家すらも恩がございますので。一介の幕臣が義任様に盾突けば、各方面より大きな反発が寄せられましょう。それに」

「義任様に何かあれば、公方様が黙っておられぬ。平島公方家出身の御方々は兄弟の絆が非常に強いゆえにな」


 だからこの人事が決まった段階で、それをよく思わずとも打つ手など無いのだ。諦めて結果を見届けるしかない。

 ちなみに義任様が仲介された沖田畷の戦いであるが、和睦に際して島原半島南部を改めて有馬家の所領として認める旨の決定がされた。つまり龍造寺家が沖田畷以南を放棄したのだ。

 そして有馬家は海を挟んで島津家の庇護下に入るというものも、少なくとも和睦期間内はそうあるべきだと取り決められていた。ただそのような和睦条件は、龍造寺にとって一方的に不利なもの。

 そこで両家が戦う原因となった有馬晴信は強制的に家督を譲ることが決められ、跡を継いだのが龍造寺隆信の娘婿であり、晴信の実弟である波多信時だ。

 これは事実上、当地を緩衝地帯とするものであり、対島津で九州最後の大戦が起きた際にも有馬家は義父からの要請を断り続けて、戦への介入を見送ったほど。おかげで現在も有馬家は健在である。

 また両家の争いに巻き込まれる形で隠居の身になった有馬晴信は、旧主である大友家に身を寄せ、現在は小さいながらも南蛮人と関わりがある日向の地を預かっている。


「まぁ派手に動けば、別の派閥が好機だと寄ってこよう。どこも大人しくしているはず」

「決まった今、そうなることを願うばかりです」


 しかし公方様はいったい何用で俺を呼ばれたのか。

 いや、思い当たる節は1つしかない。

 例の奴隷禁止令に関わる南蛮人との付き合い方を如何するか。これに関しては俺よりも状況を理解している人間はいない。

 下手をすれば当人らよりもよくわかっているのではないだろうか。南蛮人、というかスペインやポルトガルと、日ノ本に進出してきた新興勢力イングランド。

 果たして今後頼りになるのはどちらか。

 現状を俯瞰して見れば火を見るよりも明らかである。

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