996話 政豊、側室の座
伏見今川屋敷 一色政孝
1589年冬
今朝がた帰蝶様が指月伏見城に帰られた。戦勝報告を終えた信忠が、その足で迎えに来たのだ。
その顔は明らかに憔悴していたが、帰蝶様と顔を合わせるまでにはどうにか顔色を戻していた。あれもなかなか苦労するであろう。
幸いなのは織田の一門がみな優秀であるということだ。ここに若くして信長の右腕として働かれた信興殿がいればより織田家の立場は安泰であったと思うのだが、こればっかりはどうにもならぬ話。
織田家中で1つだけ懸念があるとすれば、伊勢の一門衆。つまり信忠の次弟・三弟との関係くらい。まぁ当人らは問題も解決していると考えているようだが、おそらく外から付け入る隙があるとすればそこしかない。
他はこれ以上問題を起こさないように、ずいぶんと注意を払っているようであるしな。
特に信興殿亡き信長の右腕は庶兄の信広だったが、越中から一切出てこない。織田の跡目争い、権力争いには関与しないと身をもって表明しているわけだ。
ここまでしなければ政治利用されかねない。織田家はそれくらいに危ない状況に陥っているということでもある。
そんなことを考えながら、俺は外の景色をボーっと見ていた。これまた戦勝報告を終えられた範以様は多くの家臣を伴って石清水八幡宮に向かわれた。かの地は源氏諸氏族から氏神として崇敬されているゆえ、此度足を運ぶことになったのだ。
だが政豊はそれに同行していない。何やら俺に話があるとのことで、一足先にこちらに戻ってくるとのことであった。
「父上」
「戻ったか。殿は無事に石清水八幡宮に到着されたか」
「はい。何も問題はございませんでした。ところでその者は?」
俺の傍に控えているのは如信であるが、政豊は初めましてである。とは言っても慶次と同様に俺に仕えているゆえに、一色の当主である政豊に話を通す必要などない。
「如信という。足の件で世話になっている薬種問屋の次男坊だが、つい先日まで宇喜多家に仕官していた」
「宇喜多家で薬師をしていたのでございますか?」
「いや、そうではないと聞いているが」
俺が如信に発言を許すと、ゆったりとした動作で顔を上げた如信が言葉を続ける。
「宇喜多の先代当主様より下津井の地を任されておりました。かの地に港を作るよう命じられておりましたので、播磨の諸港を参考に整備いたしました。その功もあり、下津井一帯を領地としてお預かりいたしました。すでにそれは宇喜多様にお返ししておりますが」
「下津井?下津井と言えばたしか」
「あぁ、備前にある瀬戸内に対して出張った地域のことだ。あの辺りの海域は元々毛利の水軍衆の影響力が強く、宇喜多や浦上、播磨西部の大名たちも手出しができていなかった。しかしこの下津井を整備し、監視の目を置いたこと。長宗我部が讃岐を押えたことで、毛利の影響力は大きくそがれることになったわけだ」
「それに一役買ったのが如信殿であると」
「殿は不要でございます、ご当主様」
まぁそういう経歴持ちであるため、付き合い方も少しばかり難しい。それで言えば慶次も同じであるが、あの男の場合はすでに前田宗家の嫡子ではなかったゆえな。
それにあの見た目であるから、そういった堅苦しいのは苦手なのだと分かりやすい。
だが如信の場合はそうではない。見た目は大真面目な武士であり、経歴もかなりガチ。そのまま宇喜多の家臣であれば、それなりの地位を得ていた可能性はある。
織田家に与したとはいえ、中国地方東部に数国持つ大名であるからな。
まぁ本人がそれを拒んでいるのだから、政豊も気にする必要などないだろう。
「そうでござい…。いや、わかった。如信、今後とも父上をよろしく頼む」
「ははっ!」
これで如信が信頼できるものだと分かっただろう。
政豊は俺の隣に腰を下ろし、そして改まって俺に頭を下げた。
「如何したのだ。隠居した俺に頭を下げたところで、大したことはしてやれぬぞ」
「していただきたいわけではございません。ただ少し父上にお伝えしなければならぬことがございます」
「伝えること?」
「実はとある人物より、娘を貰ってほしいと言われまして」
「相手はすでに正室がいることを知っているのか?」
「主家より茶々を迎えていることも、子がいることも伝えております。それでも良いとその者は申しておりました」
いったい何をそんなに参っているのかと俺は軽く頭をかいて、政豊に改めて視線を向ける。
そもそも当主は政豊なのだから、わざわざ隠居した俺に伺いを立てる必要など無いのだ。それは政豊とて分かっているはず。
ならばそれだけ相手が厄介であるということだ。
たとえば式目に関わる。つまり相手が商人の娘である可能性。政豊が困ると分かって、あえてその話を持ってきた。だから政豊はその扱いに困っている。
あり得る話だが、保護下の有力商人の中で未婚で年頃の娘がいるといった話は聞いたことが無い。侍女として城に仕えている者はちらほらいるが、そういった者たちを嫁として迎え入れてほしいと懇願することは基本無いはず。
困る相手で他に考えられるのは、今川家ではないところからの提案。つまり一色家の当主として判断を下すことが出来ないというパターンだ。
むしろこっちの方が現実的に思える。たとえば俺との縁で織田家だとか、俺や政豊と縁がある伊達家、菊繋がりで上杉家とかな。いくらでも考えられる。
こうなると俺に相談してきてもおかしくはないが、いったい誰がそのような話を持ち込んだのか。
「相手は誰なのだ。もったいぶらずに申せ」
「毛利家家臣、小早川水軍の一角を担っている児玉就英殿の娘でございます」
「毛利?なにゆえ毛利の将がお前に娘を嫁がせたがる?」
「どうやら気に入られてしまったようで」
俺が如信を見ると、すぐに言いたいことが分かったようだ。
「児玉就英とはご当主様が仰った通り、山陽水軍、つまり小早川水軍の一角を担う男でございます。乃美家に次ぐ戦力を有しており、村上の海賊らとも対等に渡り合うだけの海戦術も持っております。私もかつては児玉家の水軍と何度も戦ってきました」
「村上の海賊衆とも渡り合えるだけの力を持っているのか。して何があった?」
改めて政豊に問いかけると、本当に困り果てたように政豊が言う。
「きっかけは父上からの依頼でございました。我らは陸奥湾沿岸が怪しいと踏んで囚われた商人たちを探していたのですが、同じころに毛利家は大浦の残党狩りをしておりました。その最中にたまたま商人たちを見つけられたのでございます。小早川殿は我らが商人を探していたことを知っておられたようで、発見した児玉水軍に商人引き渡しを命じられました」
「ふむ。つまりそこで児玉殿に気に入られたと」
「…気に入られたのはその娘の方にでございます」
「な!?毛利は軍船に女を乗せているのでございますか!?あの者たちの軍規でそれは厳しく禁じられていたはずでございますが!?」
如信が驚きの声を上げたが、政豊はいまいちピンときていないようだった。まぁ一色家には海里がいるゆえに、女が船に乗ることの禁忌というか、そういった決まり事が一般的にあることを政豊は知らなかったのだ。
俺は知っていたが、そもそも当時奥山海賊を迎え入れた時から海里は船に乗っていた。また海賊時には頭領の後継ぎとしてすでに決まっていた。
ゆえにそういった軍規を俺は作らなかったのだ。おかげで今では奥山衆を率いる指揮官である。あの判断は誤りでなかった。
文句を言う者らも自力でねじ伏せているらしいしな。
「児玉殿曰く、最初は娘可愛さで船の上から見える景色を見せてやるために船に乗せておられたようで。次第に勝手に船に乗り込むようになり、挙句の果てには自ら水軍衆を率いて、海賊の根城を襲ったり、不審な船に乗り込んで捕縛したりと男顔負けの活躍をし始めたそうで」
「随分と頼もしい娘殿であるな」
「…それが原因か、毛利家中で嫁として引き受けてくれるところがないと児玉殿が漏らしておられました」
「そういうことであったか」
「当人も頼りにならない旦那はいらないと言っているそうで」
双方合意がなかなか起きない。ゆえに輿入れ先が決まらないわけか。
「何がそこまで気に入られたのだ。頼りになるならないという話で言えば、此度はあまり目立たぬ活躍だったと聞いているが?」
「陸奥の一揆鎮圧はそれなりに働いたつもりでございますが、それが毛利家の、児玉の娘に響いたとは思えませぬ。それゆえ私もずっと不思議に思っておりました」
「そうであろうな。此度の戦で目立ったのは伊達・島津・長宗我部・龍造寺・最上・織田辺り。消極的な動きを見せた今川・毛利・上杉などの活躍は京にもあまり届かなかった」
「とはいっても、いち家臣の娘でございます。大名家一族に求婚など出来ぬでしょう」
「それはそうだ」
俺と政豊はいよいよ困惑を極めて「うーん」と唸る。
だがこれだけ考えても結論が出ないのであれば、これ以上は無駄というもの。ただ事実として、なぜか児玉の姫に気に入られたということがあって、そのうえで求婚されたという話。
受ける意思があるのか、無いのか。あるのであれば範以様にお伝えし、児玉殿にその結果を伝えなければならない。
あちらとて主家に断りを入れる必要があるのだから、すぐにどうこうということにはならぬであろう。
「で?どうしたいのだ」
「…それを聞かれますか?」
「それを聞かねば話が進まぬであろう。主家云々を抜きにして、お前に受ける意思があるのか無いのか。まずはそこを確認せねば、俺からは何とも出来ぬ」
「一色は一門が少のうございます。それを思えば、子が1人というのは不安と申しますか…。ですがあまり茶々に負担をかけるわけにも。今は城を空けがちな私の代わりに鶴丸をよく見てくれておりますので。それゆえ側室を持つということは悪い話ではないと思っております」
なんとも呆れた物言いであった。
いや、輿入れ関連にうだうだ言うのは遺伝なのかもしれない。俺も高瀬を側室として迎えろと言われたときはうだうだ言っていたし、菊の時だって周囲に色々言われた。挙句の果てには妹のように扱い、菊を傷つけたこともあった。
最悪なほどに政豊は俺に似ていたようだ。
「如信、言いたいことがあるならば言ってやれ」
「…俺にそれを言わせるのでございますか?」
「俺であれば手心を加えてしまうであろう。それはこやつのためにはならぬ」
如信はかなり動揺していたが、ついに決心して口を開いた。
「ご当主様のお気持ちが聞きとうございます。子が、御方様がというのは、ただ事実をもとに述べているだけでございます。それは政孝様の問いの答えにはなっていないかと」
「なっ!?父上も同じように考えておられるのでございますか!?」
「まぁ、な。今の言い方だとあまりに相手に失礼であろう。単純におぬしがどうしたいのかを聞いている。直接会って話までしたのであろう?そういった話があったのであれば、多少なりとも意識はしたはず。その時にどう考えていたのか、それを聞かせよ。無理な輿入れは何も良い結果を生まぬ。相手を憐れんで迎え入れるというのは、あちらにも失礼だ」
「…」
如信はほっと一息吐いて顔を伏せていた。その間にも政豊は自身の本音について考えている。
「率直にあの時思ったことを述べさせていただきます」
「それでよい。白状せよ」
「あのとき私は―――」
まぁ毛利との縁は無かったゆえな。政豊がその気であるならば、範以様にお願いするべきである。範以様もお喜びになられるであろう。
それに此度の大浦討伐に帯同していたのであれば、京かあるいは堺にとどまっているはず。こそっと見に行ってみるのもよいかもしれんな。
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