993話 淡海遊覧

 安土城 一色政孝


 1589年冬


 淡海遊覧を終えた俺はその足で安土城に戻ってきていた。

 師走を迎えたこの頃は日が落ちるのも随分と速い。廊下を蝋燭の明かりを頼りにして歩く。

 俺の前を歩いているのは浅井家の家臣である増田長俊殿だ。兄はこれまた豊家の御奉行であった増田長盛殿である。現在は国友の領主であり、浅井家の収入源の一翼を担っているとのこと。

 少し話をして知ったことだが、この長俊殿は根来の僧であったらしい。しかしのちに雑賀衆が紀伊北部で覇権を獲り、根来はその一員として見られるようになった。

 そのころに還俗して兄のいる浅井家に出仕したとのこと。


「如何でございましたか、淡海は」

「想像以上の賑わいに驚きました。同時に羨ましくもありました」

「賑わいが羨ましい、でございますか?天下一の港を有する一色家の隠居殿が」


 嫌な顔をされたわけではない。だが嫌味に受け取られる可能性があるような物言いだったことはすぐにわかったため、口には出さなかったが反省はした。

 だがここで変な間を作ってしまうと、仮に意図的にそういった表情をされていた場合、結局気まずくなってしまう。

 そう思い、すぐに頷いた。


「俺であればどう発展させたであろうかと。今以上の賑わいになったであろうかと。色々考えさせられました」

「何か妙案はございましたか?」

「淡海の利用と発展については、おそらくあれが答えなのだと思います。妙案など出るはずもありませんよ」

「実は政元様よりお伺いしたことがあるのでございますが、淡海の発展について先代の当主様がとある御方と相談して方向を定めたと。その方は浅井の家臣にはなられませんでしたが、近江のことを、浅井のことを熱心に考えてくださり、そして今があるのだと」

「ふむ。そのような人物であれば、是が非でも手元に置いておきたかったでしょうに」

「政元様曰く、その御方は家臣というよりも友のようであったと申しておられました。その方はまるで風のようにあちらこちらを旅しておられたようで、浅井に引き留めることは難しかったようでございます」

「友、か」


 そのような男が傍にいれば越前で長政が討たれるようなことも無かったのであろうか。

 いや、聞けばその者は政に精通しているようであるし、そこまで歴史がかわったとは思えぬな。


「よき響きですな」

「まことに」


 その後は沈黙であった。俺の足が不自由であるから気を遣わせたのかもしれない。

 意識があちらことらに分散しないようにと。


「すでにこちらでお待ちでございます」


 とある部屋の前まできたところで、長俊殿は身体を反転させた。

 そして膝をついて襖に手をかける。


「またいつかお会いする日を楽しみにしております」


 開け放たれた先にいらっしゃるのは、すでに今日の調査を終えた義種様と氏郷殿や幕臣ら数名。そして当主代理の政元殿。


「政元に聞いた。随分と楽しんでいたようであるな」

「義種様、それは勘違いでございます」

「勘違い?氏郷、今政孝は勘違いと言ったか?」

「はい。私にもそのように聞こえました」


 随分と義種様はご立腹であった。まだ子供らしさが抜けないお顔でプリプリと怒っておられる。

 どちらを優先すべきか分かっている氏郷殿も義種様のお怒りに付き合っていた。


「我らがこの寒い中で比叡山の怨霊調査を行っているというのに。足が悪いという理由で城待機を命じていたはずの政孝は淡海遊覧か」

「お言葉ですが、比叡山よりも淡海の遊覧の方が寒うございました。私は進んで乗る必要もない船に乗って苦行を味わっていたのでございます」

「…よくもぬけぬけとそのようなことが言えるものだ。政元もそう思うであろう?」

「近江に住まう私といたしまして、冬の淡海は身が縮こまるほどに寒く、いくら慣れ親しんだ者でも1日中、湖上の上を漂うことは何かの罰だと疑うほどに厳しゅうございます」


 まさかの方向の援護射撃に義種様は絶句されていた。一応言っておくが、決して義種様も本気で俺に嫌味を言っておられるわけではない。

 ただまだ根が子供ゆえの不満爆発なだけである。義種様は怨霊などを信じておられぬようであるし、そうなると此度の近江入りもあまり乗り気でなかったのかもしれない。

 だが怨霊騒ぎはさておき、京の隣に位置する近江の民がいるかもわからない怨霊に怯えて動揺していると聞けば、これをどうにか解決するために動くのはまだまだ地盤をしっかり固めておきたい幕府として当然の動きであった。

 ゆえにこうしてたまに子供っぽいことをされるのだ。


「…氏郷!」

「はっ」

「私も明日は淡海遊覧とする。京に戻るは明後日とする。異論はあるか」

「いえ。若様は今回の近江入りでたしかな成果を出しておられます。帰京が1日遅くなったからと、公方様がお怒りになることはないかと思います」

「ならばよい」


 そしてしばらく誰も言葉を発さない。

 長俊殿の沈黙が気遣いであるならば、これは気まずさである。


「政孝」

「はい」

「楽しかったか?」

「それはもう。近江はどうしても立ち寄る機会が無かったため、1日かけて淡海やその周辺を見て回ることが出来たのはあまりに充実しており—――」


 俺は聞かれたことについて答えていただのが、しばらくして顔を上げてみると義種様がひどく疲れた表情でひじ掛けにもたれ掛かっておられた。

 山歩きの疲れが今になって出てきたのであろうか。

 となると、長話に付き合ってもらうのも悪いというもの。という冗談はさておき、ついつい熱くなりすぎてしまったようだ。


「政孝、もう今日は休むがよい。明日はおぬしが淡海の案内をせよ」

「かしこまりました。ですが1つだけ義種様に了承していただかなくてはならぬことがございます」

「了承とな?いったい何を認めればよい」

「淡海遊覧はよいのですが、御身分は隠された方がよいかと思います。たしかに近江は浅井様のお力でしっかりと治められておりますが、先日の比叡山の騒動もございます。民の動揺はよからぬ者を呼び寄せることもあり、さらに近江の兵は大半が出払っておりますので、そうした隙をつかれるということもございます」

「ふむ。たしかにそれもそうであるな。ならば政孝も身分を偽ったのか?」

「商人として船に乗りました。彼らのふるまいはよく知っておりますので、あまり疑われませんでした」

「あまり?」


 大盤振る舞い過ぎて、藤乃には引かれた。だが一応商人としてごり押しはできている。

 明日はその点だけ気を付ければよいのだから、身分を偽ることはそう難しい話でもない。


「どうしても武家で育ってきたゆえに出てしまう癖がございます。そのあたりだけ気を付けていただければ、船乗りたちもそう怪しんできたりはいたしません。ただあまり護衛は連れていけませぬ。どうしても目立ってしまいますので」

「ふむ。そうなると少しばかり難儀であるか」


 氏郷殿は「ならば止める」を期待しているようだが、おそらくそうはならないだろう。

 義種様は今回の怨霊騒ぎという茶番に不満を抱きながらも、義助様直々の命であったゆえにここまで働かれたのだ。ご褒美くらいあってもよいと、きっと考えておられるだろう。


「ならば政孝、氏郷、それと晴豪、そなたらが護衛として付き従え。他の者たちは安土城で待機とする」

「「な!?」」

「それはなりませぬ!今の近江は危険で、いったい何が起こるか…」


 晴豪殿と同じく幕臣として付き従っている者の1人、細川輝経殿の失言に政元殿のこめかみがヒクリと痙攣した。

 しかしどのような無礼な物言いであったとしても、その発言元は幕臣である。浅井家は北陸統治失敗の失態を織田家にしりぬぐいしてもらった上に、独立すらままならない状況でも2代続けて近江守護に任じられた恩がある。本来であれば浅井家を庇護している形となっている織田家が他の守護と兼任してもおかしくない状況であったが、それでも公方様は浅井家を信じられたのだ。

 そして何よりも政元殿自身が当主代理という弱い立場にあることからも、どうにか堪えられた。

 また幕臣である輝経殿もすぐに自身がやらかしたことに気が付いたようで、口を隠すように押さえていた。

 この険悪な雰囲気を感じ取ったのは決して俺だけではない。


「ならばよからぬ者に向けて牽制いたします。浅井家では年に数度、物資の集積地となる巨大な湊に役人を派遣し、何か不正を働いていないかを確認させる作業をしております」

「ふむ。そのような話、京では聞いたことが無いが。いったいどういった目的でやっているのだ」

「京では公方様が毒の取り扱いについて厳しく制限を加えられました。京へ向かう荷の中に、そういったものが紛れ込んでいないかを確認しております。また不正に京に入ろうとする者がたまに荷に紛れていたり、不自然な武器の取引、あとは銀を若狭や敦賀に停泊中の明の商人に売ろうとしている者などを取り締まっております。この立ち入りを明日にでも実行させましょう。主な物資の集積地は大津・坂本・堅田・国友・舟木・塩津浜の6か所でございますので、一斉に行います。さすれば変な気を起こす者も出ないかと」

「むしろ不自然に見えるのではないか?」

「適当な日を選び、時々こうして一斉立ち入りをおこなっておりますのでご安心ください」


 ちなみにだがそれぞれの湊を管理しているのが、長束・石田・猪飼・増田・朽木・内藤である。唯一聞きなれない堅田の猪飼とやらは、まだ堅田が淡海で好き勝手暴れていたころの水軍衆の棟梁一族だ。

 他は言わずと知れた名ばかり。内藤家が預かる塩津浜は浅井家にとって大きな財源の1つである敦賀へと繋がっており、かつては外様の内藤家が湊を預かることにたいそう不満が出たそうである。

 しかし先代の宗勝殿はそういったヘイトを躱すことに長けていた。さすがはあの三好家で一大勢力を有していただけのことはある。

 話が逸れたが、それだけの巨大湊で立ち入り検査が行われるのであればたしかに目くらましにはなるだろうし、牽制にもなるだろう。

 義種様の身の安全も氏郷殿や、幽斎殿に剣術指南をされた晴豪殿がいれば安心だ。俺がどれだけ戦力にならずともな。


「であれば安心か。政元が動いてくれて心強く思うぞ」

「いえ。我らはいつも通りのことをやっているだけでございますので。ですので明日はどうかゆったり、淡海遊覧を満喫なさってください」

「うむ。その言葉通りな」


 先ほどの失言のこともあり、幕臣らは何も言わなかった。

 まぁ本人たちも義種様に何かあっては困るゆえにそうした発言をしたのだ。もう少し考えてから口にするべきであるとは思うがな。

 だが明日の船はどうするのであろうか。あの約束があるにしても、さすがに朝妻船に義種様をお乗せするわけにもいかぬし。

 変に目立てば、さっそく俺が約束を反故にしたこともばれてしまうやもしれん。

 使った金がそのまま無駄になるということも…。

 チラッと義種様を見たが、ずいぶんと楽しみにしておられる。ならば金のことばかり考えてもおれぬか。

 せっかく昌友が多めに用意してくれたというのに。当主の頃であれば首を締めあげられるまではなくとも、数日そういった目つきで睨まれていたことであろう。

 さて、どうしたものか。

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