994話 幕府との距離感
室町新御所 一色政孝
1589年冬
「それであの阿呆はまんまと体調を崩したと?そういうことであるか、政孝」
「私がそばにいながら、まことに申し訳ございません」
俺の淡海遊覧がばれた翌日、宣言されていた通り1日かけて義種様も淡海遊覧を楽しまれていた。
しかし政元殿が言っていた通り、師走の淡海は想像以上に厳しい環境であり、言うなれば温室育ちの義種様には耐えられなかったようだ。
とは言っても重篤な症状が出ているわけではなく、ただ人前に出るには厳しいくらいの風邪の症状が出てしまったわけである。
それでも京と安土は目と鼻の先くらいの距離で、奥羽出兵を終えた大名らの戦勝報告を間近に控えた現状、強行して戻ってきたというわけだ。
「よい。輝経より聞いたが、義種がわがままを申したのであろう?ならばあの者の自業自得よ」
「元々は私が1人で淡海遊覧を楽しんだことが原因でございました。それさえなければ予定通り帰京を果たしておられたはずだったのです。責任は私にございます。むしろ義種様は本来のお役目をしっかりと果たされました」
これで義種様のイメージが悪くなるのは避けたかった。
当人らにその気はもうないと思ってはいるが、槙島には義高様がおられ、京には早々に公方様に頭を下げられた周暠様もおられる。
そして最もありえぬことではあるが、大和には昌山道休がいるのだ。
義種様の御子で男の子は義種様だけであるゆえ、父子の関係が悪くなるのだけは避けなければならない。そう思って、必死に責任の所在を俺へと仕向けていたのだが、公方様の顔を見て気が付いた。
どうやら俺はからかわれていたようであると。
「それを期待して政孝を傍に置いたのだ、私はな」
「なぜ息抜きをすることと私の同行がつながるのでございましょうか」
「幕臣らはみな頭が固い。決してそれが悪いことではないが、あくまで幕府が廃れぬことを考えて行動するゆえ、義種に与えた本来の役目が終われば即座に京に戻るように働きかけたであろう。じゃがそれをすると義種の鬱憤はたまるばかり。最近は嫡子としての自覚が芽生えたのか、部屋にこもりっきりで勉学に励み、外に出たかと思えば剣術に弓術、水練など、とにかく修練ばかり。これではただの生真面目将軍が出来てしまうわ」
「そのような将軍になることを公方様は望んでおられぬと?」
「上に立つ者として威厳は持つべきであるし、生真面目さも必要であるとは思う。しかしそれではいつか当人が潰れてしまう。栄枯を繰り返してきた足利幕府のかつての将軍の中でもそういった御方は幾人かあったと聞く。しかし足利将軍家の栄とは生真面目さで成りえたものでは無いと私は思うのだ」
「そういうことをお考えであられましたか」
「その通りよ。政孝の言葉は幕臣ですら無視できぬ。おぬしがあの者たちの顔をつぶすようなことはせぬと思っていたが、仮に義種がそれを望めば叶えてやろうと動くと思うておったわ」
そういって公方様は笑われた。
俺はうまく操られていたのだとようやく気が付く。
「義任がおぬしを推薦してきたゆえにちょうどよい口実が出来たとも思うた。さきにも言うたが、幕臣の中でも政孝の存在は異質であり特別なのだ。幕臣でもなく、私から禄をもらっていないにも関わらず、しょっちゅう御所に呼び出されていることも原因であろう」
「禄に関しては今川家より頂いておりますので。2重にいただくのは気が引けます」
「わかっておる。おぬしは義理堅いゆえ、今川を捨てたと周りに思われることを良しとしていないのであろう?まことに氏真殿が羨ましいわ」
最初の政権獲得時、三好家が公方様に寄り添っていれば歴史は大きく変わったかもしれない。
信長が京に入ることもかなわず、公方様と三好による共同運営の幕府が続いていたのではないかと思う。しかし当時の公方様と三好家が向いていた方向は180度違っていたといっても過言ではないほどにチグハグだった。
だから信長が付け入る隙を見つけ出したのだ。
もし歴史が違っていれば、ここにいたのは三好の一門だったかもしれない。そう考えると数奇な運命であるとも思う。
「それゆえの忠告である」
「…忠告でございますか?」
「うむ。人払いは済んでいるゆえにいうのだが、幕府の中にもおぬしを排除しようとする動きがあるとの報せがあった。すでに義任がその対応にあたっているが、その足を襲撃したという黒幕。それに幕府の中の人間がつながっているやもしれぬ」
「それは…。いえ、その可能性がないわけではないと頭の片隅にあったことは事実でございます。ですが公方様に良くしてもらっている手前、内密の話であったとしてもお伝えすることができませんでした」
「忠告はした。なにかしらの情報を得ることが出来れば、すぐさま屋敷に人をやろう。ただし義任は使えぬ。あやつも私の右腕としてひどく注目を浴びる立場になってしまったゆえ。間違いなく行動を見張られていることであろう」
「義任様にはあまり無茶をされないようお伝えいただければ幸いでございます。こちらの事情に将軍家の方々を巻き込むわけにはいきませんので」
「このこと、政孝は私にあまり話してはくれぬが、私とて気にしている1人であるということだけはよく理解してもらいたい。私は将軍という立場上、あまり表立って政孝の事情に介入は出来ぬが、心配はしているのだぞ」
公方様の目は真剣そのもので、間違いなくその瞳は「死ぬな」と言われていた。
「何から何までよくしてくださって、公方様には伝えきれぬほどの感謝の意がございます。ですが私からも公方様にお伝えすべきことがございます」
「…なんであろうか、遠慮なく言うがよい」
「はっ。奥羽の平定、大浦の討伐が成った今、私の事情に深入りするのはおやめください。幕府の役目はこれから大きく変わることになりましょう。そのような時代の転機に1人の人間を気にかけすぎるということはあまりにも時間の無駄となりましょう」
「無駄であると?私が政孝を守ろうとすることがか」
「はい。人払いが済んでいるとのことですので申し上げますが、織田の御隠居様が亡くなられた今、公方様を近くから絶対的な権力で守ることが出来る御方がいなくなりました」
「信忠殿では力不足か」
公方様は随分と心配そうに問いかけられた。
俺は本心から首を横に振ったが、口から出てくる言葉は公方様の言葉に対する肯定だ。
「織田様の家中をまとめ上げる手腕は本物でございます。譜代の家臣らに、大勢の外様の家臣らを上手くまとめ上げておられます。ひとえに主だった家臣らを一心にしたことが上手くいっている要因でございましょう。ですが織田様が出羽へ出兵しておられた間に織田家中は大きく揺らぎました。それは公方様もご存じであられるはず」
「たしかにあった、な」
「それに加えて、絶対的な存在であった信長様の死で織田家の勢いはくじけたと感じる者たちが織田家の外にいたとしてもおかしくはありません」
信忠が不出来なわけではない。信長が出来すぎたのだ。
だから多くの大名や公家は織田家を恐れていた。信忠が悪いわけではないが、どうしても見劣りしてしまう。
これはおそらく信長の死後、織田家の誰が成り替わったとしても結果は同じ。だから信長は最期のときまで家中が荒れぬように手をまわしまくっていた。
帰蝶様の件、信秀様の件、そして影武者として立てられた信照殿の件。ここまでしても織田家の先は薄暗いのだ。
公方様にはそんな織田家の庇護をあてにされている部分が無意識のうちにあるのではないかと思う時がある。
しかし今後はその意識も捨てるべきだ。幕府はすべての武家の上に立ち、どこか1つと親密になりすぎるべきではない。
俺のことにしても、そして織田家のことにしても。
「公方様はひたすらに日ノ本のことをお考え下さい。私的な事情をそのお立場を使って解決に動かないようにしていただきたく思います。それは公方様の御身を滅ぼすことにつながりかねません」
「…わかった。政孝がそこまで言うのであれば、私から動くような真似はせぬ。しかしそれはつまり」
「今後は私が御所に顔を出す機会も減りましょう。どうしても伝えなければならぬことがあれば、忍びを使います。恐れ多くもそういった者たちを御所に入れる許可を頂きたく」
「それでよい。しばらくはやっかみの目を逸らさせるといたそう。ほとぼりがさめればまた、な。それくらいは許されるであろう?」
「その時が来れば、喜んで公方様のもとにかけつけますので。そしてその頃には私が抱えている問題も解決しておきます」
そのようにお伝えすれば、公方様はどこか寂しげに、それでも満足そうにうなずかれた。
「待っている。それゆえ…。そうであった、政孝に1つだけ聞いておきたいことがあったのを思い出した」
「聞きたいことでございますか?何かしでかしましたでしょうか?」
「そうではない。あくまで政孝の考えを聞かせてほしいのだがな、実は―――」
公方様より聞かされた話は、それこそどこかそんな予感がしていたものであった。
しかし想定外であったのは、あの男が莫大な軍資金を用意して、さらにはともに動かす兵まで用意しているということである。
その数、数万にものぼるとのこと。
だがコタローのこともある。ゆえに俺はこう答えた。
「例の者たちと話してからでも結論を出すのは遅くないかと思います」と。
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