992話 朝妻船の女

 淡海堅田 一色政孝


 1589年冬


 冬の入り辺り。すでに気温はだいぶ下がってはいたが、いい機会であるからと俺は淡海の船に乗っていた。

 義種様をおいて遊んでいるように見えるかもしれないが、半分正解である。残りの半分は視察のようなもの。

 大津湊は安土城入りの前にこの目で見ることが出来たのだが、坂本湊や堅田、他淡海の北に位置する湊がどんな具合に発展しているのか見るのにちょうどよい機会だと城を出たのだ。

 ちなみに護衛を伴っているものの、身元は明かしていない。余計な騒ぎにならぬようにと、素の淡海の景色が見たかったからである。

 ただそのせいで如信が尋常でないほどに背後で警戒心をむき出しにしていた。


「旦那さん、ずいぶんと護衛を連れておられますなぁ。どこかええとこの商人でございますか?」

「まぁ似たようなものだ。ところでいつもこうして舞を披露しているのか?」

「その通りでございますぅ。淡海の船旅はなごうございますので、皆様の暇を紛らわしていただくために」


 まるで白拍子のような格好で舞う女たち。揺れる船の上でも見事に踊っていた。

 政元殿に忠告されていたのだが、これは淡海の湖上で行われている一種の売春であるという。ただ舞を披露されるだけではなく、そのあとは…。ということだ。

 俺たちのように長距離の移動に慣れていればなんてことはないが、普段船を使わぬ者たちにとっては淡海の移動は退屈な時間であると感じるそうだ。波もたたぬゆえ、移動距離に対してかかる時間がそれなりにかかることも長く感じる要因の1つであろう。そういったことからこういった商売が成り立ち始めた。この商売を総じて朝妻船と呼ぶらしい。

 ちなみにだが史実でこれをネタにして島流しにされたとされる画家もいる。ネタにされたのは徳川5代将軍の徳川綱吉である。


「如何いたしますぅ?このまま楽しまれても」


 舞を披露し終えた女は俺の隣に腰を下ろし、肩にもたれ掛かるような恰好で手が俺の胸辺りに触れる。しかしそういったつもりで船に乗ったわけではない。前世の俺の年頃であれば喜んで性欲に従ったであろうが、今の俺にはそこまで欲に忠実なわけではなかった。


「すまぬが舞を楽しみたかっただけなのだ。舞の見物料はこれくらいで足りるだろうか?」


 手をのけさせ、そのまま懐より1つの袋を取り出して女に預けた。

 随分と不満そうな顔を一瞬だけ見せていたが、中身を確認して目を見開く。


「こっ、こんなによう貰いません!」

「舞を楽しませてくれた対価だ。それに失礼をした謝罪料も含まれている。決して侮辱する意図はなかったのだ」

「で、ですが…」

「俺はそなたを買えぬが、代わりに淡海を案内してほしい。よその人間である故、あまり淡海を取り巻く環境に詳しくないのだ」


 そういって返そうとする袋を押し返しておいた。さすがにここまでされては返すことが出来ないと感じたのか、女は申し訳なさそうにそれをしまい込む。

 背後から如信の「はぁ」というため息が聞こえてきたが、特に振り返りはしなかった。そもそも如信も俺がこの船に乗るといった段階である程度は覚悟していたはずである。

 この時代、性は随分とオープンであるがゆえに。


「商いをする人はこんなに金払いがよくありませんよぉ。本当に商人なのですかぁ?」

「商人だ。でなければこんな金をポンポン出せるはずがないであろう?」

「そうですけどねぇ」


 商人らしさを全開にしたつもりであったが、逆に疑われてしまった。しかし金を受け取った限りはこちらの依頼を達成してもらわなければ困る。

 最初に藤乃と名乗っていた女は、すでに俺がその気でないことを悟って少し離れた場所に座っていた。


「こんな羽振りがいいお客さんは初めてですから。お姉さん方に知られたら、いったいなんと言われることやら」

「なんと言われるのだ。まさか金をとられるというようなことはないだろうな」

「それはありませんよぉ。ただどんなお客さんだったかは聞かれると思いますぅ。こんな上客、決して逃せませんからねぇ」


 しかし甘ったるいしゃべり方をする。

 こういうのが好きな男はたしかにいるのだろうが、俺の妻たちは比較的はっきりとした物言いをするために慣れない。というか、どう接するのが正解なのかがわからない。

 阿南殿も完全に藤乃とは真反対なしゃべる方であるし、花街の芸妓である浮雲も媚びたような話し方ではなかった。

 というか、これまで関わりのあった方々は武家の女としての教育を受けてきた方々が多いためにハキハキとされている方ばかりであったのだ。

 こうした遊びには無縁であったゆえ、この年になって初心な感情が出てくるのであろう。


「あまり広めないでもらいたい。少しばかりややこしい立場である故、こうして船旅を楽しんでいたということも、周囲に知られると困ってしまうのだ」

「そういうことでしたらぁ、お客さんの言葉を尊重しますぅ。ただしぃ…」

「わかっている。次また淡海で船に乗る機会があれば、必ず藤乃の舞を見に来る」


 するとニコッと表情を崩し、軽く頭を下げた。つまり俺の話は広げないと、口約束ではあるが交わしてくれたということであろう。


「さっそく案内させていただきますねぇ。あちらに見えるは、かつて淡海の関を管理していた堅田衆の村と湊でございますぅ。浅井様が北近江を獲られてからはぁ、関の通り賃は適切な値に戻されたと聞いておりますぅ」

「あれが堅田、か。随分と栄えているのだな」

「堅田は陸路の方も整えられておりますのでぇ」

「ところで藤乃、その話し方は改められぬか?少し慣れが必要というか」

「…お気に召しませんでしたかぁ。ならば辞めさせていただきます」


 俺が言った途端、藤乃は少し崩していた姿勢を正し始めた。その姿はこれまでのイメージとはずいぶんと違う。

 それこそ久たちのようにしっかりとした佇まいであるというか、俺の慣れ親しむ女たちの姿であった。


「簡単に変えられるのか?」

「趣味嗜好は色々ありますので。旦那さんが上客であることは間違いありませんでしたし、口約束程度では次も必ず私を見つけてくださるとも限りませんでしたので」

「篭絡を試みたと?」

「簡単に言いますとそういうことでございます。ですがどうやらそのような女子は苦手であられるようで」

「わかっていたのであれば最初からやめてくれればよいものを」


 俺は最初から困惑していたのだ。決して途中で態度を変えたわけではない。

 それがわかっていたのであれば、俺好みの役を演じてくれた方が客として次回以降もつきやすいであろうに。

 俺の言葉に藤乃は口元を隠して笑っていた。


「旦那さん、面白いほどに顔に出ておりましたので。つい可愛らしいと思ってしまいました」

「歳が倍以上に離れた親父相手に何を言うているのだ。おぬしの父親くらいであろう」

「そうでございますね。生きていればそのくらいの歳であったやもしれません」


 軽口のつもりが地雷を踏みぬいてしまった。しかしこの時代、死因が何であれ若くして死ぬことは普通に起こる。

 藤乃がケロっというたのだから、俺が神妙な顔つきになるべきではない。だからといっておちゃらけることは絶対にやってはならぬことであるが。


「ならば可愛いなどと言うではない。可愛いなどと言われてうれしくなる男がいると思うか?」

「意外と多いものでございます。皆様甘えたがりなのでございましょうか?まるで子犬のように私に抱き着いてくださいますが」

「…」


 この話題、あまり深堀するのはやめておくべきか。

 そもそも他人のそういうことに興味はない。好きにやるべきであって、口出しすることも、巻き込まれる形で想像する必要もない。


「藤乃」

「なんでございましょうか」

「もう1度舞ってくれるか?その分の金は払うゆえに」

「旦那さんが望まれるのであれば、いくらでも舞いますが…。ですがお代は必要ございません。すでに十分すぎるほどにいただいております」

「いいや。それとこれは別のことだ。あと口止め料もまだ渡しておらぬでな」

「そんなことされずとも、藤乃は黙っておきますのに」


 そう文句を言いながらも藤乃は傍にあった禿らしき女児に声をかけて舞ってくれる。その舞はやはり見事なもので、やはりそれなりの金を払う価値はあった。だが俺がこの藤乃と親密な関係を築くのには理由がある。俺自身の名誉を守るために言っておくが、決してやましい理由があるわけではない。

 いや、捉えようによっては非常にやましいものであると言われるかもしれん。

 そう。俺は藤乃を栄衆とは違った情報収集の手段としたいと考えたのだ。

 明らかな上客という立場を利用して、である。そういう目的もあったゆえ、藤乃のこの性格はいきなり当たりだった。

 あとは雪女に藤乃の身元を洗わせて、背後に何も潜んでいないかを確認させればよい。何もなければたまに情報をもらうとしよう。もちろん対価はちゃんと支払った上でな。


「いけずな旦那さんでございます」

「まことの心か?」


 俺の問いに藤乃は「フフッ」と笑みをこぼす。


「ちょっとした冗談でございますぅ。あれだけの金で私を買ってくれた旦那さんをいけずだなんて」


 結局1日かけて淡海を巡った。

 さすがに浅井家も淡海の価値をよくわかっている。どこもかしこも賑わっており、特に国友近くの湊は少し異質な栄え方をしていたのが印象的であった。

 湊の蔵付近には大量の火縄銃や大筒が用意されており、これから織田家やら上杉家に送られていくのであろう。

 また藤乃の解説も分りやすかった。さすがは淡海で商いをしているだけのことはある。今後もこの者のことは贔屓にしていくであろう。

 思いもよらず、よい人材が手に入ったわ。

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