959話 乱世の英傑
伏見館 織田信長
1589年夏
人はこうして死んでいくのかと、ここ数日間、毎日のように考えていた。若くして死んでいった信興もこのような気持ちであったのかと。
随分と息苦しく、そして目の前が真っ暗になる感覚は戦に出るよりも恐ろしいものであった。
畳の上で死ぬことを嫌う者達の気持ちが今になってようやく理解できたような気もする。
「信長様、お加減如何でございますか?」
「・・・光秀、か。どう、見える?」
息も絶え絶えである。
俺の命はもう明日か、明後日か。下手をすれば今日もつかわからぬほどである。
せめて信忠が戻るまではと思っていたが、それもどうやら叶いそうには無かった。ならばせめてあの男を側に置いておきたかったと思うのは贅沢な話であろうか。
「どう、でございますか。・・・あの仏敵と恐れられた信長様も、歳には、病には勝てぬのだと驚いております」
「ふっ・・・。それを、当人に言うのか」
「信長様に隠し事は出来ませぬので」
「よう、わかっておるでは、ないか」
光秀を呼んだのは、あまり記憶に無いがおそらく昨日。
古くより俺に仕えていた者達は大半が奥羽に入っている。光秀は御所に入り浸っていたゆえ、こうして呼び出したのだ。
最期の言葉を伝えるために。
「今日はいつも以上に体調が悪いように見えます。あまり無理はされず、ゆっくりお休みくだされ」
光秀ははだけた布団を掛けようとしたが、わずかに動く手でそれをやめさせる。驚いたような表情で見下ろす光秀に俺は思わず笑ってしまった。
「何を、呆けているのだ。ここで眠れば、俺は二度と目を、覚ますことが無い」
「信長様が弱気な言葉を吐かれるなど。あまりにも」
「らしく、無い。俺も、そう思うわ」
気丈に振舞おうにも、心の臓が痛んで思うように息が吸えぬ。そして声も出ぬ。
何度も咳き込み、口元から唾が垂れる感覚に襲われた。それを側にいる玄朔が布で拭う。もう何度目かわからぬ処置だ。
天下をとりかけた男の最期があまりにも無様な。情けなく、こんなことならばさっさと逝ってしまいたいとも思ってしまう。
玄朔は側においた桶で布を洗い、そしてまた黙って俺達を見ているようであった。
「そうは、思う、が。こればかりは、致し方ない」
「致し方なくなどございません!私は病で倒れられても、再び戦場に立った御方がたを何人も目にしております。信長様も病を治せばまたっ」
「俺の命は、もう数日だ。そうであろう、玄朔」
「玄朔殿!?玄朔殿がそのように信長様に伝えられましたのか!?」
「・・・」
横目に見える光秀は、いまにも玄朔に掴みかからんといった様である。しかし玄朔は医者として正直に俺の状況を伝えてくれた。
その行いを叱責するのは間違いである。病や人の寿命を隠すのは医者の役目では無い。
「やめよ、光秀」
一度大きく息を吸った。
「俺は、よくやった。これからの日ノ本を見られぬのは残念である、が。天下を幕府の元で、統一させる。駒としての、役目は十分に果たせた」
「駒、でございますか?信長様は駒などでは」
その言葉に俺はまた思わず笑ってしまう。
かつて帰蝶にも同様に言われたものである。俺は駒では無く、それを操る側なのだと。だがそれは違うと首を振った。
そして今もその考えは変わらぬ。俺は日ノ本を次なる時代へ踏み出させるために必要な、あまりに重要な過程を担ったのだ。たった1つの駒として。
駒であるのは俺も、氏真や範以も、公方様とてそうなのであろう。ただ1人、今思えばずっと操る側にいたような男もいたが、彼奴もおそらく自身を駒だと考えているはずだ。
いつでも彼奴は俺と同じことを考えていたゆえ。
「駒、だ。ここ数年はずっとそう思って、生きてきた」
また大きく息を吸う。もう続けて話し続けることも出来はしない。ゆえに雑談などで時間を潰す余裕など無いのだ。
伝えるべきことを光秀には全て伝えねばならぬ。
「・・・ですが私はっ」
「光秀、俺の話を聞け」
ハッとしたような表情で俺を見下ろす光秀。そして俺の言葉を合図に、玄朔が部屋の外へと出て行った。
これは最初から決められていた、織田家の今後に関する遺言である。俺個人のことでは無く、必ず信忠に伝えて貰わねば困るもの。
ゆえに織田家の人間では無い玄朔には外させたのだ。
「俺の死は、信忠が戻るまではなんとしても隠せ」
「・・・かしこまりました」
「俺の目が無くなれば、織田を煩わしく思う者たちが、再び動き始める」
光秀の顔が強ばったのが分かった。
かつて信忠と信雄の関係悪化を煽るような噂を流されたことがあったゆえ、これが最も光秀に望むものであると言える。
「だが、公方様には伝えねば、ならぬ」
「ははっ。必ずや公方様にのみお伝えさせていただきます」
「それと、一色にも伝えよ」
「一色?一色政孝殿でございますか?」
「あぁ、彼奴は俺の死が迫っていることを、知っている。個人的な、頼み事もあるゆえ」
「・・・私は遅くより信長様にお仕えしましたので、なぜ今川家の筆頭家臣であった一色殿と信長様が親密な関係を築いておられるのか知りませぬ。この際、教えていただいてもよいのではありませぬか」
そうは言うが、早い遅いは関係ない。
俺とあの男の関係を知っているのは、サルただ1人であろう。岡崎での出会いもあり、信濃での連携もあり、姪の嫁ぎ先でもある。
残された時間が少ない俺では、光秀に全て説明することなど到底出来ぬ。
ゆえに簡単に説明してやった。
「俺が、まだ今川と同盟前に誘ったのだ」
「誘った?一色殿を、でございますか?」
「あぁ。沈み行く泥船に、しがみつき続けるのは、愚かな所業である、とな。当時、松平の才媛と、言われていた娘が彼奴に嫁ぐという、話があったゆえ」
「松平の姫様と言われますと、今の一色殿の正室でございますか」
「うむ・・・。興味を惹かれたのだ。まだ尾張の統一すら、なる前であったにも関わらず」
思えば何十年も前のことをよく覚えているものだ。
あの頃のことは鮮明に記憶として残っている。この歳になり、多くのことを忘れてしまったというのに。
「この館と伏見の城は、一時的に信秀に託す」
「信秀様に。一時的というのは」
「信忠が戻れば、正式に決定を下させよ。信忠の城とするもよし、信秀のものとするもよし、或いは別のものとしてもよい。ただし、決して廃することは、許さぬ。伏見の発展は、日ノ本の発展に欠かせぬ、存在となる」
「もちろんでございます。なんとしてもそのような流れにならぬよう、私が説得いたします」
光秀の形相に、これならば安心だと安堵の息を漏らす。
此奴とは稀に考えが合わず、何度も腹立たしい思いをしたものである。長政の死を受けて、越前へ兵を送り込んだときもそうであった。
だがあれは他家の戦で織田の兵を損なわぬようにしようとする、光秀なりの配慮であったことを知っている。
それにこの男は朝廷・幕府が絡めば間違いなく成果を出してくる。
その点で言えば、誰よりも頼もしい存在であった。どこぞの者らが俺と光秀の関係が悪いと噂を流したこともあったが、あの時は烈火の如く怒り狂っていたことを俺は知っている。
家中に兵を向けることを懇願してきたあの日も、つい数日前のように思えてしまう。みな驚いていたな。
「・・・」
「信長様?」
「いや。死を目前とすると、柄にも無く、色々なことを思いだしては、懐かしむのだと思ってな」
「・・・それは」
「言いたいことは、言った。光秀、公方様のお側で、必ず成すべき事を成せ。此度言い損ねたことは、全てそこの文に残している。まだ、身体が動く頃に、俺自ら書いたものだ。うぬに、託す」
ゆっくりとした所作で立ち上がり、複数枚の文を手に取る音が聞こえてきた。
そして「うっ」というむせび泣く声が聞こえてくる。
らしくない。らしくは無いが、俺も歳には勝てぬらしい。涙こそ出さぬが、この世の未練はやはりまだ残っているようであった。
――――――――――――――
織田信長、享年56才。
尾張のうつけ殿と蔑まれた男は、常識とはあまりにもかけ離れていた。尾張の地方領主のもとに生まれたものの、自身の持つカリスマ性を駆使して瞬く間に周辺諸国を制圧。幕府との繋がりを利用して、畿内の制圧にも成功した。
また当時畿内で強大な権力を有していた三好家を排し、さらに幕府の健全化にも尽力。極めつけは長らく続いた一向一揆を叩き、譲歩し、赦すことで目的の1つとされていた政教分離も果たしてみせた。
外交手腕も高く評価され、特に親の代から因縁のあった今川家の婚姻同盟締結と、対北陸一向宗を意識した上杉家との軍事同盟。後の三国同盟は天下統一に弾みをつけたと言われている。
乱世を終わらせた英傑の1人は、1589年6月2日に多くの妻子に看取られて静かに逝く。
奇しくもこの日は、史実本能寺の変が起きたちょうど7年後であった。
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