958話 仏敵・第六天魔王織田信長

 伏見今川屋敷 一色政孝


 1589年夏


「・・・雨、か」


 手にしていた書物を一度閉じ、外の景色に目をやった。

 随分と長いこと読書にふけっていたため、身体の節々が痛い。

 背中をグッと伸ばし、首をグルグルと回す。本当は足も伸ばしたいのだが、それは叶わないゆえ畳に寝転がって自由のきく右足だけ気持ち伸ばす。


「しかし随分とややこしい問題だな。むしろ信長はよくぞここまで政と宗教勢力を切り離したものだ」


 つい先ほどまで読んでいたのは、京とその近辺における宗教勢力、おもに仏教系の寺院の活動記録のようなものである。

 著者は知らぬ者であったが、長らく仏教勢力の活動を見て聞いて、随分と詳細に記されている。始まりは三好家がまだ畿内の覇者となるよりも前のところあたり。

 つまり日ノ本の副王と呼ばれた三好長慶の父親の代くらいからである。

 あの頃は将軍家の後継者争いに加えて一向宗や法華宗などの勢力争いなどもあり、あまりにも地獄のような時代であった。

 特に三好元長(三好長慶の父)は熱心な法華衆徒であり、和泉や山城で一向宗による法華宗の弾圧事件が起こると、報復として三好家が一向宗に対して弾圧を行ったなどとにかく政と宗教問題が絡み合っていたのだ。

 こういった事情もあり、一向宗にとっての仏敵は信長というイメージが持たれていたが、信長が現れる前は三好元長とされていた。


「しかし仲時もよくこのような書物を手元に残していたな。下手をしたら没収されて燃やされていたやもしれぬというのに」


 というのも、この書物の著者は今でいうところの幕府や信長寄りの思考をしているようなのだ。

 それは書物の途中くらいから判明したのだが、簡単に言うとやはり政教分離がいかに必要であるのかが説いてある。

 実際、畿内各地を旅して、自身の見聞から政に宗教勢力を取り込むことを危惧している。そんな内容であった。

 ゆえに当事者の1つと言える本願寺。そこに属する仲時がこの手の本を持っていることはあまり望ましいことであるとは言えぬであろう。

 しかし仲時はわりと堂々と読んでいるらしい。なんなら、周囲の若い僧らも回し読みをしていると言っていた。

 これは複写されたものであると言っていたが、どうやら他にも複数冊存在しているようで、多くの者達の手に渡っていると。

 つまり本願寺も大きく変わり始めたということなのであろうか。


「・・・」

「ご隠居様」

「昌友か、如何した?」

「織田家の明智様がお越しでございます。ご隠居様にお話があると。今すぐに」

「光秀殿が?今日はそのような約束などしていなかったはずであるが」

「明智様もそのように申しておられました。ですが火急の用件であるため、人も無く突然の来訪になったと」

「わかった。来られたものを追い返すわけにもいかぬ。広間に・・・」


 そもそも光秀殿はなんのためにやって来たのか。

 事前に人も送れぬというのがそもそもおかしい。俺が屋敷にいない可能性だってあるわけだ。

 それこそつい先ほどまでは晴れていたのだから、用など無くとも散歩に出ていることだってあり得るわけで。

 その可能性があったとしても、人を事前に送ることが出来ないような用件であるということか?


「では明智様を広間にご案内いたします」

「いや、ここに案内せよ」

「ここにでございますか?良いのでございましょうか?」

「軽く片付けておく。それに見られて困るものは何も置いてはいない」

「かしこまりました。ではこちらにご案内いたします」


 昌友が立ち上がると同時に、俺も身体を起こした。周囲に散らかった書物を片付けつつ、つい先ほどまで読んでいた書物を奥へとしまい込む。

 誰に見られて、何を思われるかなど分からぬゆえ。

 そしてしばらくすると、少し肩の濡れた光秀殿がやってきた。随分と神妙な面持ちで、その上何やら顔をジッと見られているような気もする。


「よくぞお越しくださいました、光秀殿」

「突然の訪問、申し訳ございません。さきほど昌友殿にもお伝えしたとおり火急の用件があり、無礼を承知で訪ねさせて頂きました」

「火急の用件とは気になるところでございますな。では・・・」


 光秀殿の視線が一瞬俺から外れたことからなんとなく察す。

 どうやらあまり人には聞かせられぬ話であるようだ。廊下には昌友が待機しているが、それすらも認められぬ用件であるらしい。


「昌友」

「はっ。何かあれば遠慮無くお呼びください」


 そう言ってその場を離れていった。

 今日は慶次も屋敷を空けているから、正真正銘俺と光秀殿の2人きりである。


「して、今日は何用で?」

「単刀直入にお伝えいたします」


 そういって光秀殿は一呼吸あけた。

 周囲に目を向けながら、改めて誰も聞き耳を立てていないことを確認している。実際人の気配は無い。

 本当に昌友だけが先ほどまで側にいたのだ。


「昨夜、信長様が息を引き取られました」

「・・・そう、でございましたか。体調が優れぬとは聞いておりましたが」

「あまり驚いておられるようには見えません。やはり知っておられたのでございますね」


 光秀殿の口調は随分と落ち着いている。

 俺が知っていることを知っていたような。まるでそんな雰囲気であった。

 だがそれは勘違いだ。俺も信長から死期が近いことは聞いていたが、それがいつになるのかなど誰にも分からない。

 覚悟はしていたが、まさかそれが今日であるのかと驚き、そしてついにという心にぽっかりと穴が穴が開いたような、虚無のような感情がせめぎ合っている。

 今日は奇しくも6月2日であったゆえ。


「信長様の死は諸々の事情を考慮して、時期が来るまで伏せられます。また伏見城と館の主は一時的に六子信秀様となります。奥羽の遠征軍が戻れば、改めて殿によって取り決められることになるかと」

「そのような御家の一大事を私に話しても?」

「信長様の遺言でございます。殿が戻られるまでは決して外に悟られることは許されませんが、公方様と政孝殿には伝えるようにと」

「・・・そうでございましたか。織田のご隠居様の最期はどのようなものでございましたか」

「安らかなものでございました。多くのご子息様や奥方様に看取られて・・・」


 ここまでよく頑張っていたと思うが、ついに光秀殿の目から涙がこぼれた。

 かつては不仲説など囁かれていたが、この世界線ではしっかりとした主従関係を築けていたようである。

 しかしそんなことよりも、ついに信長が逝った。先ほどにも言うた通り、どこかで覚悟はしていたが、やはり寂しい想いはどうにも湧き上がってくるものである。

 知らぬ間に強く拳を握りしめていたことにも気付かぬほどに。


「こちらを信長様より預かってきております。必ず政孝殿に渡すようにと」

「私に?」

「信長様が少しだけ話しくださいました。かつては敵対していたはずの今川家。その一門筆頭に在り続けたあなたが、どうして信長様と深い縁で結ばれているのかということを。その話を聞いた上で、これを託されたのでございます。受け取って頂けますか」


 懐より書状が取り出される。

 これだけ雨が降っている中で持ってきて貰ったものだというのに、一切濡れていないところを見ると、相当大事に届けてくれたのだと分かる。

 それに信長が俺にあてて書いた最期の文だ。受け取らないはずが無い。


「もちろんでございます」


 受け取り、開いていく。

 墨の染み具合があまりないことから、それほど中身は無いのだと思った。


「では読ませていただきます」


 一息に開いて驚いた。

 これだけ仰々しく閉じられた文であったのだが、内容はとても簡単なものであったからである。

 思わず笑ってしまい、それを不審そうな目つきで光秀殿が見ていた。


「政孝殿?」

「・・・いや、信長様らしいと思い」


 しかしこれは表には出せない。

 たとえ全てを聞いたと思われる光秀殿にも見せられぬ。これは信長が俺に送った最期の激励であるのだから。

 何十年にもわたって関係を築いてきたからこその文であり、一文である。


『地獄で天魔とともに酒をあおって待っている』


 すでに起きれぬほどに状況が悪かったはずであるが、耳にはしっかりと届いていたようだ。

 三好元長・織田信長に続く仏敵は俺であると。そして信長が果たすことが出来なかった政教分離の完成形を俺にやれと。

 なんともあの男らしいものであると、そう感じずにはいられなかった。

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