738話 懐妊
小山一色屋敷 一色政孝
1585年冬
昨日、駿河より政勝殿がやって来た。
新年の挨拶に織田家から使いがあり、今夏も京で会談を要請する旨が伝えられたようだ。
範以様は承諾され、俺は再び京へと向かうことが決定した。
しかし早くても梅雨前後くらいの出発となる予定で、まだまだ先の話であるから問題も特に生じないと返答している。
そんなことがあっての翌日であった。
「な!?まことか?」
手にしていた筆がコロコロと机を転がる。
あまりにも驚きのことであって、手から滑り落ちてしまったのだ。
「まことの話でございます。時期はおそらく・・・」
久は軽く目が泳ぐ。しばらくあちらこちらに目を動かした後、俺と視線が交わると観念したように言葉を続けた。
「おそらく夏頃かと」
「夏?またなのか・・・」
「あくまで予想される時期でございます。ですが経験者の私から申しましても、おそらくその頃で合っているのでは無いかと」
「・・・」
今にも畳へと落ちそうな筆を筆置きへと戻し、硯の墨を見て落ち着こうとする。
しかし気が落ち着くことは無かった。
「また俺は立ち会えぬというのか」
「もうこれは旦那様に課せられた何かなのだと思っております。周りには私も虎上もおりますし、他にも頼りになる産婆を呼びましょう。どうかこちらのことは気にしすぎにならず、お役目をまっとうしてきてください」
久の言葉からも分かるように懐妊したのだ。ともに過ごす時間が増えていた菊が。
たしかに最近、菊の様子が変だと思うことがあった。ボーッとしていることがあるというか。
調子が悪いのだと思って相当に気遣っていたのだが、まさか懐妊していたとは・・・。
それもまた俺のいない時期が出産予定になっていると言うではないか。
久との間に生まれた3人、菊との間に生まれた1人。いずれもその瞬間、同じ場所にいたことが無い。
いつも戦か外交かで領外へと出ていたのだ。
そして今回もおそらく俺は京に入ることであろう。信長が夏だと要請したのが憎いっ・・・。
「旦那様」
「・・・如何した」
「このような言い方をすると旦那様は傷つかれるかもしれませんが」
「・・・」
「このような時代、子を産むだけで女達は命を危険に晒します。また生まれてくる子供達も同様に」
「そうだな」
「ですが一色家ではみな無事に成長しております。特に大きな病にも冒されず、五体満足で成長しているのです。これは何故だかおわかりでございますか?」
「何故であろう」
久は真剣な表情で俺を見ていた。
実はずっと久の背後に控えていた虎上も真剣そのものである。
「旦那様がよく御家のために働き、私達が安心して子を産める環境を作ってくださっているからでございます。子供達が成長する上で必要なものを揃えてくださっているからでございます。たしかに子供達にとって、旦那様とともに幼少期を過ごした記憶はあまりに少ないでしょうが・・・。ですがみながあなた様を尊敬し、敬愛しているのでございます」
「久・・・」
「生まれてくるであろう子は私達が必ず守ります。ゆえにどうか、どうか立派にお役目を果たして戻って来てください」
久と虎上が揃って頭を下げた。
そんなことを言われて頑張れないわけがない。だがこんなことを言わせるなんて、俺もまだまだだと思った。おそらくよほど表情に出ていたのであろう。信長が憎い、と。
「心配させて済まなかった。久の言うとおり、俺は俺の役目をまっとうした上で戻ってくる。それまでどうか我が子を守っていてくれ。それと当然であるが菊のこともな」
「はい、私達にお任せください!」
正月の一件以降、久は少しずつだが本来の姿を取り戻し始めた。
こうしてかつてのように俺の背中を押してくれるのも、どこか懐かしい気分になる。
「とは言っても、こちらを出るのはまだまだ先の話。それまでは菊の側にいるとしよう」
「それがよいかと思います」
「早速行ってこようと思うがどう思う?」
「菊も待っていましょう。旦那様への報告に付いて来たがったのですが、あまりウロウロされるのも怖いので部屋に残したのです」
「大人しく従ったか?」
「先ほどの旦那様のような表情をしておりました。旦那様が部屋へと向かえば、きっと菊も喜ぶかと」
「ならば行ってくる。2人は部屋へ戻ってくれても構わぬからな」
「はい。行ってらっしゃいませ」
立ち上がった俺は、やや早足で部屋から出た。通い慣れた菊の部屋だ。
そもそもこの屋敷も俺達用に作られたものであるから、余計な部屋は随分と少ない設計になっている。
すぐに目的の場所へとたどり着いた。
「菊、いるだろうか?俺だが」
『へ?だ、旦那様ですか!?』
中から何やら慌てた声がする。本当に懐妊しているのかと疑いたくなるようなドタバタ具合だ。
そしてすぐに障子が開かれた。
開いたのは女中も部屋にいたからである。
「何をしていたのだ?」
「い、いえ・・・」
「ふむ・・・」
部屋を見渡しても、特に何かを隠していたというような事も無い。
少し散らかってはいるが、菊は元々こんなものだ。それに俺の部屋が相当綺麗にまとめ上げていることを基準としているから、一般的に見ればしっかりと片付いていると言えるであろう。
ならばいったい何をしていたのか。
「何かございましたでしょうか?」
「いや。腹の中に子がいるのだから、あまり動き回ってはいかぬぞ」
「それは分かっております。ですが落ち着かぬと申しましょうか」
「落ち着かぬか」
「はい。千代丸を生んでいるので経験はしているはずなのですが、どうにも慣れぬと言いましょうか。それにまた旦那様が側におられないかと思うと」
久は大丈夫だと言っていたが、やはり当事者は想いを隠しきれないようであった。そんなことを言われると、余計に京行きを断りたくなってしまう。
だが先ほどあのように宣言したばかり。
どこか居心地悪そうに膝の上でソワソワしている両手に俺は手を添えた。
ビクッと肩を震わせる菊に構うことなく、冷たくなった両手を温めるように包み込む。
「本当は側にいてやりたい」
「・・・はい」
「だが俺は行かねばならぬ。俺の代わりは・・・」
改めて口にすると、本当に酷い夫であると思う。これまで3人の子を生んだ久は当時から気にしないようにと俺に言っていた。
だが実際は菊と同じくらい不安であったに違いない。
菊だって千代丸を生んだ時、きっと今よりももっと不安であったはずだ。それにあの時、側には久も虎上もいなかった。
まだ三峰館の女主人であった頃の話だったからだ。
「俺の代わりは久に託してある。何か困りごとがあれば、遠慮せず久に申すがよい」
「わかっております」
「何かあれば俺がすぐに戻ってくる。だから安心して、俺達の子を産んで欲しい」
色々な感情が渦巻く中で、俺は言いたいことが言えた気がした。もちろん全てではない。
まだまだ伝えなければならないことがある。それも京を出るまでに全て伝え切れれば良いのだがな。
「・・・何か欲しいものはあるか?」
「今は特に・・・」
「そうか。ではゆっくりしておれ。今日は俺も側にいるからな」
しかし不幸が極まっているな。
もちろん子が無事に生まれているのだから、不幸とは一概に言えないのかもしれないが。
それでも俺からすれば十分に不幸である。何故こうも予定が重なり続けるのか・・・。
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