737話 久の憂鬱

 遠江国小山一色屋敷 一色政孝


 1585年正月


「ではご注文頂いた品は近くお持ちいたしますので」

「あぁ、よろしく頼む」

「かしこまりました。ではでは」


 暮石屋の跡取りである勘七郎と、その妹の菊野は俺が注文したメモを手に部屋を出ていく。

 見送ったのは2人の弟である勘吉であった。


「しかしよろしかったのですか?」

「もの足らぬか?大井川城があれだけ装飾で溢れていれば、そう思うのも仕方がないやもしれぬが」

「いえ。そうではなく」

「ん?」

「あの子に相談無く、調度品をいくつか注文してしまいました。そのお金は城から出すのでございましょう?」


 久の懸念はそこであったらしい。


「あぁ。屋敷の装飾用の予算を組んでくれていたようでな。その金額内であれば、一色家から金を出してくれるとのことだ」

「真ですか?私達に気を遣って無茶をしているのでは・・・」


 久は城を離れて随分と心配性になった。

 これまでは政豊を信用し、思っても不安を口にするようなことは無かったのだがな。目の届かない場所に越してきた途端にこれである。これからもしばらくは続きそうだと思った。


「大事ない。側には昌友や昌成もついているし、なんなら母上も見守っておられるのだ。それに政豊だって良い大人。無茶ならば無茶と判断して、自らの足でしっかりと踏みとどまるであろう」


 ちゃんと政豊には俺が城を出た意味を伝えた。本人も数ヶ月の月日をかけて、俺の行動に納得したはず。

 それに昌友にもそれとなく確認したから、この予算に関しては何の心配もないのだ。


「であれば良いのですが・・・」

「いや、寂しい気持ちは痛いほどに分かるが」

「本当に分かっておられるのですか?私はずっとあの子の側で成長を見続けてきたのですよ」


 わずかであるが、目に潤いが出て来ているような気がする。母も子離れが出来ぬと思っていたが、それは久も同様であったらしい。

 屋敷に移った数日前から徐々に心配性は加速しているように見えた。そんな久を虎上や菊は心配そうに見ているが、あくまで俺に任せてくれている。

 2人が久の気を晴らそうと近づけば、きっと久は2人に申し訳なく思うからであろうな。その辺りの感情に久は鋭いゆえ。


「そうだな。俺が側にいれなかったゆえ、全て政豊のことは久に任せてきた。政豊に抱く感情も、俺とはまた別物であろう」

「・・・」

「だがいつまでも甘やかしてもおれぬし、政豊もそんなことは分かっている。必死であがき、もがいている彼奴に助けの手を差し伸べるのはまだ早かろう」

「・・・ですが」

「だがまぁ俺が差し伸べる手と、久が差し伸べる手の種が違うこともまた事実。もし政豊の側にいたいというのであれば、城に戻っても構わぬぞ」


 俺の言葉を受けた久は何も言わなかった。

 ただ縋るように俺の右腕を握っている。手に力がこもっているが、小刻みに震えてもいた。


「そういう聞き方はずるうございます」

「久には随分と苦労をかけたからな。したいようにさせてやりたい。それが俺の本音だ」


 動かせぬ右手の代わりに、左手で久の頬に触れる。久の顔は徐々に赤みを帯びていき、そして一筋の涙が左手の親指を濡らした。


「私は」

「どうする?」

「ここで、あの子を、見守ります」

「ならば信用してやることだ。誰かから久が政豊のことを心配して泣いているなどと知られたくもなかろう。互いにな」

「それは・・・。そうでございます。ですがそうは思っていても、私の気持ちは思いに反するのでございます」


 ため息とともに、また涙がこぼれる。

 困ったものだと流れる涙を拭いてやった。しかしあまり落ち着いた様子では無い。

 キリがないと、そのまま身体を引き寄せる。胸の辺りにすっぽり収まった久を抱きしめながら、大丈夫だと言い聞かせた。背中を撫でながら何度も言い聞かせた。


「大丈夫だ。大丈夫。政豊は立派にやっている」

「・・・」


 たまに「うっ」という声が漏れる。久は慣れない環境に随分と気をやってしまっていたようであった。

 俺の元に嫁いできた時はこのようなことにならなかったというのに。岡崎城から大井川城までの距離を思えば、帰りたくても帰れない。それに当時の家康との関係上、帰れる状況では無かった。

 だから寂しいという感情を抱えていてもおかしくないものであったが、久からそのような言葉を聞いたことは一度も無かった。そのような様子を見たことも無かった。

 今回は顔を見ようと思えばいつでも見に行ける。今生の別れという状況でも無い。

 にも関わらず、久はこれほどまでに思い詰めていたのだ。いったい何故ここまでと思うが、やはり先ほどの言葉に全てが詰まっていたのだと思う。

 俺と久が政豊に向けて抱く感情の違い。ここに全てが。


「ご隠居様、暮石屋は無事に・・・」


 部屋で抱き合う形の俺達を見て、見送りに行って戻って来た勘吉は思わず固まっている。

 瞬間的に顔を真っ赤に染めたかと思えば、


「申し訳ございませぬ!!また後ほど報告に参ります!!!」


 と言って、すごい勢いで部屋をあとにした。

 その慌てよう、そして走り去った先で足でもぶつけたのであろう。とんでもない叫び声が俺達の元にも届いてきた。


「・・・」

「久、笑っているのか?」

「い、いえ・・・。ふふっ」


 本当に笑っているようだ。

 胸の中にいるからか、小刻みな震えの種類が変わったこともすぐにわかった。そして「うふふ」という声も漏れ出ている。


「勘吉には悪いことをしてしまいました」

「歳を考えても、まだ早いと言うことも無かろう。そろそろ妻を迎え入れても良い頃だ」

「ですが、あんなに顔を真っ赤にするなど」


 久は楽しげに笑っていた。目にある涙がどっちのものなのかは分からないが、どちらにしても勘吉のおかげで久の不安は一時的に晴れたようである。


「旦那様、あの・・・」

「如何した」

「もう、よいので。腕を、腕を退けて頂ければ」

「・・・」


 久の手は俺の胸を押すように俺と久の身体の間に割り込んでくる。

 だがそんな必死の仕草も可愛らしいと思えるもので、背中に回した手に力を入れてみる。

 流石に力勝負では勝てる。久は不満の視線を投げかけてくるが、気にせずに体勢をそのままにした。

 どうせ勘吉が気を遣って、人を近づけぬであろうしな。


「あの、旦那様?怒っておられるのですか?」

「何故」

「私はこちらの屋敷に越してきて以降、旦那様に気を遣わせてばかりなので」

「いつも遣わせてばかりであったからなぁ。このようなことで怒りはせぬ」

「では何故?」

「こうしていたいからだ。たまには良かろう」

「・・・」

「それに最近は菊とばかり一緒にいたからな。寂しいのではないかと思っていた」

「寂しい?私がでございますか?」

「あぁ。虎上も菊も心配していた」

「・・・」


 久も思い当たる節があったのであろう。

 直接話しかけては来ないが、所々で2人の気遣いには触れていたはず。それがこの者達の気の遣い方なのだ。敢えて誰も口には出さないが。


「そういえば今年の正月は随分と人が多いようだぞ」

「突然でございますね。しかし何故?」

「政豊や昌成が人材確保にもっと積極的になるべきだと考えたようでな。色々やって、一色家臣の適性があるものを拾い上げたのだ」

「拾い上げた?いったいどこからでございましょう」

「元々は商人の子女からのつもりであった。だがそれだけでは能力の取りこぼしが生まれる。希望するものに身分は関係ないものとした。結果的に様々な思惑はあったのであろうが、今年はとりあえず数人を一色家の家臣として雇い入れることが決まった。その顔合わせが今日、大井川城にて行われるのだ」


 腕から解放されることを諦めた久は、顔だけを俺の方へと向けた。

 その目には色々な感情が込められていたが、また政豊が1つの実績を上げたことを心底喜んでいるように見える。俺も嬉しい限りだ。

 俺の時は暮石屋の現主人である喜八郎から、一色家に仕えたい商人の子女は実際のところかなり多いという話を聞いていたにも関わらず、結局そこに手を付けることは出来なかった。別件が立て込んでいて忙しかったというのが理由であるが、政豊は人材不足を実感してすぐに手を付けた。

 本当に大きな成果であると俺も思う。


「今後の活躍が楽しみだ」

「たしかに。あの子の力になってくれれば、私も安心できるものでございます」

「そうだな。俺もそうなることを願っている」


 しかし身体を寄せ合っていても、寒さとは関係なく襲ってくるものである。久の背中も、俺の腕が触れていない場所はひんやりとしていた。

 残念だがこの辺りでやめとしよう。

 新年早々風邪など引きたくは無い。


「勘吉を呼ぶか」

「そう、でございますね」


 先ほどまで離れたそうにしていたはずの久であったが、俺の腕から解放されると少しばかり残念そうに眉が落ちた。

 もう一度抱き寄せたくなる気持ちを抑えて、どこかで蹲っているであろう勘吉を呼ぶ。すぐに屋敷の者達が追加の炭を持ってきてくれた。しかしその日、勘吉が俺の部屋を訪ねてくることは無かった。

 随分と申し訳なく感じてしまったのであろう。俺も不注意だったとは思うがな。

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