734話 石川春重事件
一色村代官詰所 一色政孝
1584年秋
「ここに来ても、政豊には会えぬぞ?」
「いえ。本日は政孝様にお礼をお伝えすべくやって参りました」
「お礼?俺がいったい何かしたであろうか?」
「家康様を岡崎に呼び戻してくださいました。おかげで大事になる前に手を打つことが出来たのでございます」
「やはり俺は何もしていないではないか。俺はただ、甥の信康を心配してお節介を焼いただけに過ぎない」
「たとえお節介であったとしても、松平家は再び政孝様に救われたのでございます。どうかお受け取りください」
信康の傅役の1人、平岩親吉は一歩も引き下がること無く、俺に礼を受け取れと言う。
しかし今回の一件、完全に松平家中の出来事であったがゆえに、あまり俺の名前を出されたくは無かった。
家康や信康の沽券に関わると思ったからだ。
だがそれでもなお、親吉は引かなかった。こちらの真意に気付いているはずなのだがな。
「・・・あまり表に俺の関与を漏らしてくれるなよ」
「はい。政孝様が松平の家を気遣ってくださっていることは重々承知しております。そのお気持ちを無下にするつもりは一切ございません。ですが言葉だけでも受け取っていただければと思いまして」
「まぁ、それならな。ではありがたくその言葉"は"受け取らせて貰う」
再度、親吉は深く頭を下げた。
そして今度は良い笑顔で顔を上げる。
「ところでこちらに来てからとある話を耳にしたのですが」
「如何した」
「何やら困りごとがあるようで。その困りごと、我らであればお力になれるかと思います」
「・・・受け取るのは言葉だけだと先にも申したはずであるが?」
「いえ。これはそれとは別件でございます。一色家とは今後も良き付き合いを続けていきたいと考えておられるのは、我が殿も同じ。家康様も同じでございます」
縁戚関係にあるからこその協力の申し出、か。
ちゃっかりとしているというか、よく見ているというか。ここで今回の騒動における迷惑料を完済するつもりなのであろうな、この男は。
たしかに人員不足の解消には時間を要すことが決定的であったから、これほどありがたい申し出はないのだが。
上手くしてやられたようで、どうにも即座に頷く気にもなれない。俺の個人的感情で計画に後れを出すわけにもいかぬのだがな。
「してどのような協力をしてくれる」
「殿の御命で寺津城の城下に港を造りました。元々は入江になっていたところに規模の小さな船の乗り入れ場があった程度のものでしたが、水軍衆強化の一環として1つ拠点を築かれたのでございます」
「そういえばそのような話、こちらにも聞こえてきていたな」
「この地からほど近い場所にございますので。その際に雇った者達の働きぶりを見た殿が、寺津城下の一角に土地を与えられました。その者達を派遣するというのは如何でございましょうか?」
「良いのか?重要な人材であろう」
「もちろん例の計画が済めば返していただきたくは思いますが、これも助け合いでございます。それに一色港が栄えれば、我らもおこぼれをいただくことができますので。例えば、船の停泊費用なども、殿は前向きに検討されております」
「その話も知っていたのか」
「風の噂で耳にしただけのことでございます。して、如何でございましょうか?」
親吉の圧の強さに俺は押し込まれていた。
話す感じは物腰柔らかなのだが、有無を言わせぬ迫力がある。今の信康という人間を作り上げたのは、間違いなく親吉の力があるのであろう。家康はほとんど放任であったからな。
「わかった。だが詳細は俺とでは無く、この地の代官を詰めてくれるか。拡張計画について、俺はほとんどその者達に任せきっているゆえに」
「かしこまりました。ではそのように話を進めさせていただきましょう」
親吉は彦左の案内で部屋を出ていった。
これから別室にいるであろう家清らと詳細を詰めていくと思われる。そしてジッと大人しく、一連のやり取りを見ていた慶次。
静かに立ち上がり、俺の正面へと腰を下ろした。
「松平はどうなったのだ」
「なんだ。やはり耳が良いな」
「伊賀にも甲賀にも知り合いがいる。ここに来る前は色々と情報を集めていたからな。しかし事の顛末は知らぬ」
「顛末はな」
一応親吉がそこにいないことを確認した。
足音も、人の気配も無い。
「信康の傅役の1人が鞆の公方と繋がっていた」
「鞆の公方?義昭か」
「あぁ。だが直接繋がっていたわけでは無い」
「織田と毛利はずっと小競り合いを続けていたな。だから毛利の人間が今川領に入り込むことは難しい」
「その通り。しかし間接的にならば関わる隙はあった」
かつて義昭が京を追われた時、それを毛利領へと逃がしたのは堺の商人であった。信長が畿内に影響力を伸ばしたことで、大損こいた者達が義昭を支援したのだ。
そしてその者達は義昭を逃した後、見事に制裁を受けていない。上手く身を隠したのであろう。
今回、岡崎に入り込んでいたのはこの者達だと俺は睨んでいる。
「堺の商人らが義昭の意を伝え、内通していた者達がそのままに動いた、か。まるで摂津衆の騒動の時のようだ」
「やはりあれは毛利の策では無かったのだな」
「あぁ。俺も計画を報された時、信長様を殺すことは出来ても織田をひっくり返せるほどでは無いと思った。あまりにもお粗末な策で、隙だらけだと。だが俺からすれば織田家の今後などどうでも良かった。信長様さえ、という考えであったからそのまま協力したが」
「結局は織田様の方が一枚上手だったということだ」
そのおかげで慶次は織田家を出奔している。まぁ100慶次が悪いのだが。
「さきほどの男が2人いる傅役の片割れ、平岩親吉。今回、その騒動に関与していたのはもう1人の傅役である石川春重だ」
「石川?また石川か」
「そうだ。しかし今回は松平に残っている方の石川家だな」
桶狭間後の松平独立、その後の再臣従。氏真様は臣従を受け入れた際にいくつかの条件を提示されていた。
それが松平家有力家臣を今川の家臣として差し出すことであった。当時その対象とされたのが、家康の右腕と呼べる酒井家と石川家である。
酒井家は忠次殿が三河に城を与えられ、石川家は数正殿が同じく三河に城を与えられた。
しかしその後、石川家では色々あった。
最も大きな出来事は、北条攻めの功績を受けて数正殿が武蔵に領地を得たことであろう。そして本人は家康と同様に武蔵へと移ったのだ。
あとを託されたのは叔父の家成殿であった。三河石川家は実質家成殿の家系へと託されたのである。しかし数正殿の祖父であり、家成殿の父である清兼殿が、三河国内で禁止されていた一向宗の活動を率先して扇動していたという騒動が発生した。
三河が混乱に陥ることを回避するため、信康らは清兼を殺害して事の沈静化に動いたわけである。この騒動のことがあったために、慶次は「また」と口にしたのだ。
当時の今川家当主であった氏真様には病死だとお伝えしたのだが、まぁほとんど公の事実を隠蔽したようなもの。
その汚名を晴らすために、残された清兼の子孫らは今川家に尽くしているのである。これが松平を離れた方の石川家の話だ。
一方で松平家に残った方の石川家とは、数正殿らと同じ祖を持つ一族ではある。かつて三河に定住したという石川政康の長子の家系で、幼い頃から信康の側にいた男が石川春重だ。ちなみに補足をすると数正殿らは政康の三子の家系である。
信康の傅役として、岡崎松平家の家老的役割も担っていたのだが、今回の騒動に関与していたとのこと。
「ただ関与していたのは春重だけでは無い」
「と言うと?」
「岡崎の町奉行に任じられていた大賀弥四郎ら、他にも数人がこれに関わっていたのだ。密告者は同じく町奉行に任じられていた江戸という男であるのだが、それはまぁ良い」
あとは名前を出すなと言っていたから口にはしないが、家康とはあまり良好な関係を築けていない松平忠正殿の密告も大きかったと言える。
岡崎城に戻った家康はその密告書を使って悪質な噂を流していた者達を一網打尽にしてしまった。その手際は流石の一言であるが、その際に信康を随分と叱責したようである。
前に今川館で言葉を交わした際に感じたものから察するに、期待しているからこその叱責であったのであろうが、これでは噂が事実と断定されかねんと冷や汗をかいたものだ。
まぁ、信康がその叱責以降、家中を引き締めなおしているとのことであったから結果オーライなのかもしれんが。
「さすがに今回の騒動は松平家にとっても痛手となったであろう。前回のように誤魔化せなかったからな」
「すでに今川様の耳に入っていたということか」
「鵜殿が動いていた。それに助力の要請を受けていた小笠原や西郷なども動いていたのだ。殿の耳に入っても仕方が無かろう」
主犯とされた春重であったが、その子の春久は家成殿に預けられることになりそうだ。
今後は親吉に大きな権限が移ることになるのであろう。いや、すでになっているかもしれない。
傅役の1人が裏切りを働いていたと知って、信康もなかなかキツいものがあるであろうが、流石に波瀾万丈の人生を歩いてきただけのことはある。
すでに新たな体制を整え、三河西部の混乱を抑え込んでいるとのこと。家康はすでに江戸へと戻ったようであるが、今後はもう少し岡崎のことも気にかけて欲しいものである。もちろんあちらが大変な状況であることは分かっているのだがな。
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