403話 囮の役目

 下総国船橋 一色政孝


 1576年冬


「敵襲!敵襲だ!!」


 闇夜の中から聞こえた悲鳴に近い叫び声は、瞬く間に敵陣の中で伝播していった。そしてそれはそのまま動揺へと切り替わる。

 赤々と燃え上がる敵の陣をわずか側から見上げていた。そしてこの策の第一段階が成功したことに安堵する。

 だがこんなところで満足するわけにはいかないわけで。俺はすぐに視線を下に戻して、周囲にいる味方に対して声を張り上げた。


「蹂躙出来るのは今の内だ!駆けよ!燃やせ!」


 俺は馬の上からそう叫ぶ。

 味方の騎馬隊は松明を手に、敵陣のあちらこちらで火を放ちながら縦横無尽に駆け回っている。100にいかぬほどの兵しかいないが、敵は天へとのぼる火の手に混乱状態であった。

 そして奇襲を仕掛けてから幾ばくか、最早松明など必要が無いほどに周囲は明るくなり始める。多少離れているにも関わらず、燃えさかる炎で汗が出てくるほどだ。


「やはり敵は油断していたようだな」

「殿の策は命中いたしました」

「だがまだ足らぬ。他のものに目が移らぬほどに奴らを蹂躙せねばならぬ」


 俺は馬を走らせながら、現在地を頭の中で描き続ける。今どの辺りにいるのか、まったく土地勘がないからこそ、家康が残したあの地図の価値は大きいのだ。

 俺はあれを頼りに、ほとんど見しらぬ土地で暗闇の中を駆け回る。

 なかなかの混乱ぶりであったが、しばらくした頃にはわずかに敵の動きに統率が見え始めた。そしてそれとほとんど同時に1人の者が俺の側にやってくる。


「政孝殿!これ以上は危険にございます。そろそろ」


 駆け寄ってきたのは三河衆の1人である奥平信昌殿であった。ちなみにこの男は家康の長女であった亀姫の夫でもある。

 何故三河衆の者がこの場にいるのかといえば、俺達一色の兵だけでは寡兵過ぎるがゆえに、家康からそう申し出があったのだ。

 それゆえに遠慮無く借り受けた。まだ俺より年下ではあるが、その働きは目を見張るほどのものであり、そして引き時も心得ている。

 本当に三河衆の者らが生まれ持つ戦の感性には感心するばかりだ。


「敵陣はどれほど焼いた?」

「大方。ですが敵大将らしき者の姿を見たものは現状おりません」

「・・・奴らは俺達がこの地に詳しくないゆえに奇襲は無いと油断していたはず。ならば危険を冒してまで本陣から離れるわけなど無い。それに大方焼いたのであれば十分だ。奴らの目はこちらに釘付けよ」


 敵大将の姿を見なかったのは単純に兵達が見落としただけであると、俺はそちらに賭ける。もし外れていた場合、策の看破どころではない事態に陥る可能性が出てくるが、ここで予定を変更する余裕などはもっと無い。


「では!」

「全軍に撤退を命ずる。三河衆にもそう命じよ」

「かしこまりました!そして目指すは」

「あぁ。江戸湾めがけてひた走れ。その後は海岸に沿ってひたすら西に進むのだ。あとのことは後方の三河衆に託す」

「かしこまった」


 信昌殿はそのまま配下の三河衆に指示を出すべく駆けていった。俺もまた全軍に命ずる。

 合図はたった1発の火縄銃。

 俺の背後で待機していた直政に合図を出すと、手で持っていた火縄銃を空へとかかげた。そして1発ぶっ放す。

 暗く、視界が悪いにも関わらず、この戦場にいる誰にも音が聞こえたはずだ。


「全軍撤退せよ!これ以上は持ちこたえられぬ!」


 蹄の音が一瞬だけ止む。そして音の向きが同じへと切り替わる。


「撤退!撤退!」

「江戸川まで退くのだ!!」


 各地で将らがそう叫びながら敵陣から一目散に逃れていく。

 まるで敗走するかのようにただ一方にめがけて走り始める。当然敗走している風を装うのだから、俺に従っていた護衛達も散り散りであった。


「直政!俺から離れたとしても気にせず走れ!」

「ですが!?」

「構わぬ!江戸川にて再び会おうぞ! 」


 馬の腹を蹴ってそのままに走る。今俺が目印としているのは、おそらく先頭を走っているであろう頼忠殿の騎馬を追う者達の影である。

 頼忠殿は目立つようにと、赤い染料で染めた鎧を身に纏っており多少の灯りがあれば夜中であったとしてもどうにか視認出来る。

 他の者らは暗闇に紛れるようにと、一般的な黒の鎧を身につけさせていたから見間違えることはないであろう。


 そしてしばらく。

 馬の足も少し遅くなったと感じ始めたとき、僅かに自身の左耳にこれまでには無い音が聞こえ始めた。

 そう、波の音だ。


「海までたどり着いた・・・。ようやく、か」


 俺の声はおそらく周囲の騎馬の音でかき消されているであろうが、多くの者らが目的地に無事たどり着いたことに安堵しているはず。

 そして何故俺達が闇夜に紛れた奇襲を仕掛けたのかは、まさにここに答えがあったのだ。

 船の姿を視認すれば、奴らは間違いなく追撃の足を止めたであろう。特に援軍として入っている佐竹の者どもは雑賀衆との因縁を自覚しているであろうし、何よりも大筒の怖さは買い付けに来たときに知ったはずだ。だがこれだけ辺りが暗く、そして蹂躙してやったことで怒りを覚えた奴らに正常な判断など出来るはずも無い。


「あとは俺達に任せな!」


 足下が砂となったことで極端に馬の足は遅くなり始める。だがそれでもここまで来れば、という安堵感は確かにあった。

 しかしそれよりも何よりも、今の重秀殿の声を聞いた方がずっと気持ちを保つことが出来る。


「お前ら!ぶっ放せ!狙うは後方の集団のみだ!」

「おぉっ!!」


 波の音すらものともしない重秀殿の号令と、それに答えるように叫ぶ雑賀の者達。

 そして次の瞬間、安宅船に乗せてきていた新型大筒が火を噴いた。

 馬たちはその迫力に思わずのけぞり、かなりの数が振り落とされたほどである。幸いにも足下が砂であったため、重傷を負ったものはいなかったようであるが、完全にこうなることが頭から抜け落ちていた。

 今後の反省として活かすとしよう。

 そして今一番気になるのは大筒の弾の行方である。

 いったい1隻に何門積んできていたのかは知らないが、相当な数が発射されているように思う。逃げることも忘れて思わずその景色に見惚れてしまうほどであった。

 だが確かに俺達がこれまで使ってきたであろう道の方から、ズドンと響く着弾音と悲鳴が聞こえてくる。


「上手くいったか。みな聞け!」


 俺が叫んだことで、周囲の者らの視線がこちらに集まる。そして俺が無事であることを確認した者らが再び安堵の息を吐いた。

 やはりここまで敗走の演技を求めた故に、周りなどほとんど見えていなかったのであろう。特に俺達一色家の兵らは敗走経験が乏しい。まことに喜ばしい話である。

 だが逆に言えばそんな中での無茶ぶりだったのだ。この者達もよくぞ無事にここまで逃げ延びてきてくれたものである。

 もちろん馬らもな。一寸先もまともに見えぬ道を全力で走るなど、きっと不安であったであろう。


「これよりは行軍速度を落として江戸川まで退いて態勢を整える。おそらく数正殿ら後方支援組が残る三河衆を率いて大筒から逃げ惑う千葉家へとどめの一手をさしてくれるであろう。お前達は十分に良くやった!」


 俺の言葉を側で聞いていた者達は歓声を上げた。そう、もう演技は不要であるのだ。

 ここで一度大きな雄叫びでも上げさせれば、最早敵の戦意は底にまで落ちきるであろう。そしてそのまま敗走すれば良い。

 これでこの地は俺達のものとなる。里見家への助力ともなるであろう。そして証にもな。


「さぁ、戻るとしようか」


 おそらく疲労困憊なのであろう愛馬の身体を撫でる。頭を俺の方へと寄せてきたが、時間が無いためにすぐに跨がった。

 不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、今はどうすることも出来ない。ここで餌をやるわけにもいかぬでな。


「戻ればいっぱい喰わせてやる。もう少し辛抱してくれ」


 伝わったのかは分からないが、渋々といった様子でまたかけ始める。多少遅れはしたが、俺もまた江戸川へと向けてまた歩を進めたのだった。

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