329話 かつての緩衝国

 滑津川流域 一色政孝


 1573年秋


 兵の歩みを停止させてまる1日が経とうとしていた。ここに来てようやく雨の勢いは収まったが、兵の士気は落ちきっており、これから戦を行うなどどう考えても得策では無い状況にまで追い込まれている。

 家臣らに兵を鼓舞するよう命じてはいるが、すでに弱音を抑えることも難しい。

 そして定期的に送り出している物見からは、長野隊もまた一切の動きが無いという報せ以外持ち帰ってこない。


「これ以上は厳しい」

「撤退するとなると、この先にある城を落とされる危険もありますが」

「いや、確認させた兵数で間違いが無いのであれば落ちはしない。上野方面からの援軍も見たところ無いようであるからな」

「では一度我らも退きましょうか?」


 義定からの提案であったが俺は横に首を振る。

 この天候で再び山越えは危険だ。土砂崩れなんて起きれば、敵と交戦するよりも甚大な被害が出かねない。


「志賀城に人をやる。少々予定と違うが城から打って出て貰うほか無いか」

「・・・我らの面目は潰れませんでしょうか?」

「こればかりは仕方が無い。まさかここまでの雨が降るとは予想外であった。おかげで奴らも進軍が危険であるとして、たまたま似たような場所で陣を張るという・・・」

「殿?」


 義定の呼びかけは聞こえたが、俺の中でとある疑問が渦巻いた。心配そうに呼びかけてくる義定の顔を押し戻し、隣でただ見ているだけの重治に視線を移す。


「重治」

「はい」

「志賀川から山を越えこちらに抜ける道で、兵がいくらか通ることが可能な山道はここだけか?」

「武田様の作成された地図が正しければそうだったと記憶しておりますが」

「他の抜け道。例えば地図には描かれていないようなものを確認させたか?」


 かつて石垣山にも抜け道があった。時忠が先導し、まだ小山高朝と名乗っておられた命察殿が兵を率いて北条の背後を突いたこともある。統治者が知らないだけで、現地に住まう民が便利な道を作っているということは往々にしてあるわけだ。そう以前の戦で実感したことを思い出す。


「一応忍びを用いて周囲を探らせましたが、少なくともこの地より東には確認出来ませんでした」

「つまりこの山道こそが、内山城を目指して進軍してくる上杉家の背後をとる一番深くにある道であるということだな」

「その通りにございます。・・・まさか我らの動きが読まれていましたか?」


 重治も俺と同じ考えに至った。

 ただそれだと余計に奴らの狙いが分からない。何故このような危険な真似をしてまで、佐久郡へと兵を進めようとしたのか。それもあの程度の兵数で。


「どういうことでしょうか?」

「敵は俺達の奇襲を読んでいた、ということだ」

「内山城に攻めこむ上杉方の背後をとるために、こちらにはいくつかの選択肢が用意されております。内山城よりも北東に位置する内山古城の脇にある山道を下る。もしくは滑津川沿いに繋がる小さな山道に兵を伏せる。そしてそれらの一番上野側に位置するこの山道を用いて背後に陣取る」

「奇襲を警戒するのであれば、この辺りで兵を止めれば少なくとも背後をとられる心配は無くなる。当然城攻めは出来なくなるが」

「ですがそれらの推測が当たった場合、奴らの目的が分かりません。城を攻めるつもりがないのに、何故このような真似をしたのか」


 そう、義定の疑問は尤もだ。城攻めをするのであればもう少し兵を連れて来て、要所要所に兵を置いておけば良いのだ。そうすれば背後で異変があろうとも、残した兵らが足止めをしている内に挟撃を回避することが出来る。

 しかしそれを考えたとき、長野業盛が大将ということである程度の納得は出来た。


「厄介者払いされたか?」

「そうやもしれません。長野家の影響は未だ大きいと聞いております。すでに上杉様は側に置いていないと」

「であったな。つまりは奴らも・・・」


 俺がそう言いかけたところで、にわかに陣の外が騒がしくなる。義定が警戒し、側に立てかけていた刀を手にした。

 昌続も俺の側につき、重治も腰にある刀に手を添える。


「殿、少々よろしいでしょうか?」

「時忠か、如何した?僅かに外が騒がしいようであるが」

「はい。それは今私の後ろにおられる御方が理由でありましょう」


 今このような場所に武田の方が来られるわけがない。

 ならば考えられることは1つ。


「長野家からの遣いと理解すれば良いか?」

「はい。すでにその身に危険が無いことは確認しております。また護衛と称して連れられていた方々は、一色の兵が監視し遠くに待機していただいております」

「わかった。それならば良い」


 時忠は俺の許可を確認した後、陣幕をあげて入ってくる。

 そしてその背後には綺麗に頭を剃り上げた僧らしき人物が入ってきた。鎧は一応着けてこそいるが、目に見える位置に刀はない。

 おそらく時忠が手にしている物がそうなのだろうな。


「名を尋ねしてもよいだろうか」

「はっ!長野家当主である業盛様の遣いで参りました。名を長野ちょうの正宣まさのぶと申します。また、僧としては円良と名乗っております」

「ふむ、それで我が陣に何用で参られた」

「一色政孝殿とお見受けいたします。どうか此度は我らの撤退を見逃していただきたい」


 時忠と昌続が訝しげに正宣を見た。重治は未だ考えにふけっており、義定は意味が分からぬと眉間に皺を寄せている。


「そう簡単に見逃すわけにはいかぬ。現に我が友の領地が脅かされているのだ。詳しく話して貰わなくては、どうにも判断出来ぬな」

「それはもっともな話にございます。ただし少々話が長くなりますが、よろしいでしょうか?」


 立ったまま話そうとする正宣。俺は時忠に合図を出して椅子を用意させた。


「話が長くなるのであれば立ったまま話すは辛かろう。その椅子に腰をかけられよ」

「これは有り難い。山道を登るのは足腰に随分ときますので」


 そう言って正宣は腰を下ろす。


「ではでは。話は数日前に遡ります。事の発端は――――――」


 正宣の話を聞いた感じ、つまりはこういうことだった。

 山内上杉家は大恩ある上杉政虎が支持する顕景より要請を受け、越後と上野国境に追い込まれた景虎を支援している沼田城を攻撃した。

 上杉憲景は顕景からの要請を盾に上野の北部を山内上杉家の領地としようとしたわけだ。だが当然北条氏政からは怒りを買った。

 上野は越後上杉家と北条家の間で定められた緩衝国。それは越相同盟の条文にも明記されているらしく、山内上杉家は両家に対して平等であるべきであった。

 だが憲景は越後上杉家に大きく加担した。そう判断した氏政は、越後以外を放棄し、上野国内における影響力を著しく低下させた越後上杉家の隙を突いて、上野の実効支配に乗り出したわけだ。景虎は顕景との戦で死んだため、越相同盟は実質立ち消えであろうしな。

 だが流石に氏政も強引に攻め込むことは出来なかった。なんせ今の北条は四面楚歌という言葉がぴったりだ。北関東諸大名らも信用していないようであるからな。

 唯一北条家自体には敵対行動をとらない、いや正しくはとれない山内上杉家を敵にすることはできないとの判断を下した。

 越相同盟の条文の中には関東管領は鎌倉公方を補佐し関東の安寧を図る、というものがあり、それを利用して憲景の動きを制限したわけだ。とびっきりの脅しつきでな。

 一応顕景も越後国境に兵を残し、上野に北条が武力による制圧を狙ってきた場合には備えているようではある。だがそれも御家騒動明けの上杉家であれば微力なもの。


「知っておられますか?」

「何を」

「佐竹家は他北関東に位置する大名家と共に北条家と縁を切り、里見家と同盟いたしました。両者の争いの元となった千葉家の領地に関しては一部返還し、後に北条から領地を奪うことに成功し、里見家が半島より内陸に進出することが出来れば全土返還が約束されたそうにございます」

「北条にとって山内上杉家の重要度が余計に増した、というわけか」

「その通りです。そして北条は現状最大の敵である今川家の兵力分散を狙いました。我らはそのために使い捨てにされているのです」


 北条は信濃にいる俺達が武田領を通って武蔵にでも攻撃されることを避けたかった。だから今はまだ守りの薄い佐久郡に兵を出させて、あわよくばを狙おうとした。最悪でも俺達が信濃から出られないよう。それが山内上杉家に課されたものであったというわけだ。


「政虎様は徹底的に上野を支配されましたが、全ては上野に住まう民を思ってのことでした。故に我らは上野にて長らく大国の侵攻を防ぐことが出来た。ですが氏政様は違う。あの御方は上野の民も我らも何とも思われておりません。全ては北条領の民のため。我が主である憲景様もどうにか北条の影響下から抜け出す機会を探っておられたのです」

「よくわかった。こうしてあまりにも無謀な進軍を仕掛けてきたのは、俺達と接触するためか」

「はい。これは我ら長野家にとっても大きな賭けにございます。もし今回の話を呑んでいただけないのであれば、我らは上野に戻って死ぬこととなりましょう。どのような形であれ」

「・・・」

「死兵より恐ろしいものはないと思われませぬか?」

「確かにな」


 しかしこれは困った。絶対に俺が判断出来る内容では無い。

 だが保留にすれば長野家は死ぬことになる。


「・・・」

「・・・」


 俺と正宣の間には沈黙が流れた。それほど長く黙り込んでいたわけではないのだが、そう思わせるほどに俺の頭の中はめまぐるしく大量の情報が駆け巡る。

 だがついに覚悟を決めた。長野家一族の覚悟は、こうして目の前で話し合っている俺が一番感じている。それを無下にすることなど出来ないと判断したわけだ。何よりも今後味方となる可能性があるのであれば心強い話。敵となれば厄介ではあろうが。


「冬をどうにか乗り切っていただきたい。その間に俺が北条領への進軍を進言し、実行に移していただけるよう殿を説得する」

「我らの元には佐竹様よりお声がけいただいております。今は保留としておりますが、機が来ればそちらと手を組む支度も出来ておりますので」

「佐竹、か・・・。いや、その同盟への加入は待っていただきたい。もし上杉様が我ら今川家を頼ろうと言うのであれば、どうか我らを信じていただきたいかぎり」


 というよりも俺は佐竹を信用出来ない。憲景が佐竹と組むのであれば、今か先か、だが必ず敵対する。

 それならば今この話を俺が聞く必要も無い。

 更にいえば今の話を聞く限り、憲景は今川に対してそれほど悪い感情を抱いていない様子。何度でも言うが北条相手に大きく足止めされていることを考えれば、敵を減らす努力をしていくべきである。


「・・・では雪解けまで待ちましょう。もし春になっても今川様に動きが無ければ、我らは佐竹様と共に北条打倒に動きます」

「そうならぬよう手を尽くそう」


 正宣はその後、山を下っていった。それからしばらくすると物見の者が長野家が上野へと撤退したという報せを持ち帰ってくる。


「まことによろしかったのですか?」

「どちらにしても仕方が無い。今の俺達ではまともに戦えぬ上に、長野家は俺達の居場所を完璧に掴んでいた」

「奇襲するつもりが、されるところであったとは・・・。己の力を過信しておりました。あの方達はすべて読んでの進軍であったわけですね」


 義信と重治と少し話をした後、俺達は志賀城へと撤退する。

 すでに空は晴れており、気持ちの良い風が吹いているのだと思われる。この雨で重くなった鎧さえなければ、きっと清々しいままに帰城出来たのであろうがな。

 だがとにかく今は氏真様だ。山内上杉家のことを伝えねばならぬ。


「俺は一度大井川城へと戻ろうと思う。虎松の元服も1年遅らせてしまった」

「かしこまりました。高遠城の守りはしかと努めさせていただきます」

「義定、頼むぞ」


 忙しい冬がやって来そうな予感がした。

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