310話 大きな手土産
信濃国北熊井城 一色政孝
1572年秋
俺達が山道に沿って移動し、目的地に着いた頃には上杉の兵は敗走した後であった。義昌殿や義定が残党狩りを行い、その間に重治が藤孝殿と今後の予定を定めて、そのまま軍議に移ったわけだ。
敵はどうやら明け方には総崩れしたらしく、俺達が山中で聞いた声は混乱して逃げ惑う上杉の兵を追い払う今川という構図で轟いていた両者の声であったそうだ。
しかも誰が大将なのかと聞けば、上杉憲政というではないか。
まさか大将が真っ先に逃げていたという事実に驚き、そして呆れてしまう。「またなのか」と。
しかし現状はどうにも出来ない。越後上杉は山内上杉から保護という名目で憲政を越後に引き取っていたのだ。
政虎が家督を顕景に譲る旨を本人に伝えているとはいえ、監督責任は継続して越後上杉家にある。誰がその責任を負うのか、そんなことは俺の知ったところでは無いわけだ。それ故に戦が終われば顕景に押しつけることも決定した。後のことはどうとでもしてくれ、という判断である。もうこちらではどうにも処理出来ない。
そのまま上杉憲政は奈良井城で頼親殿配下の者達に見張らせることとなった。相変わらず喧しく騒いでいたが、何かあった際にこちらに責任を負わされても面倒であるため丁重に監視するよう命じておいた。仮にも前任の関東管領である。その事実はどうあがいても変わることは無い。
そして気分良く捕らわれていてくれるとこちらとしても助かる。気苦労が減るからな。
その後、残党狩りをしつつ後詰めとして到着した義定らと共に筑摩郡北部へと兵を進めた。すでに多くの城や砦が長時殿らによって抑えられており、綿密に練った重治の策など必要が無いほどあっけなく、かつて小笠原家の城の1つであった北熊井城にまで入城することに成功する。
先行してこの地に入っていた長時殿と合流し、今は周辺の城をどう抑えるか。この相談をしている最中なのだ。
「真田主導で行われた諏訪平定も上手くいった様子。これで我らも孤立せずに戦うことが出来ましょうな」
「それは朗報にございます。あとは武田が上手くやってくれれば、全ての戦線を押し上げることに成功し、さらに上杉の兵を分散させることが出来るのですが」
さすが旧領なだけあって、長時殿はこの周囲の地理に詳しい。それは旧領だけの話ではない。
かつて周辺の国人らと争い、協力してきた知識と経験があるからこそ随分と広域に地形を把握されているのだ。
「とりあえず我らは林城を目指そうと思うております。あといくつか北の城を落とせば、あの者らも寝返るであろうと踏んでおりますが」
「かつて小笠原家の家臣であったお二人にございますね?」
「その通り。一色の軍師殿はどのような条件を出されたのかお聞かせ頂いても?」
長時殿は俺の側に控えている重治に問いかける。
重治は一度頭を下げて俺の横に並ぶと、広げられた地図を指さしながら説明を始めた。
「犬甘様も二木様もこの地よりさらに北に城をもっておられます。それも両者相当に近い距離に城を預かっている様子」
「深志城と井川城であれば目と鼻の先よ」
「そしてその東側に、おそらく敵本陣があるであろう林城とその支城がいくつもある。早期に寝返れば彼らが危険にございますので、ある程度こちらが側に寄り、援軍に向かうことも可能な距離になるまでは大人しくしているとのことにございました」
「なるほどな。ならば距離を考えて、浅田城の北にある烽火台を目指すとしよう。あれはかつて武田侵攻に備えるべく、儂が作らせたもの。あそこから狼煙を上げれば、井川城なら見えるであろう」
「では長時殿にはそちらに向かって頂きましょう。藤孝殿にはこのまま西に進み西牧を攻めて頂きます。おそらく我らの動きを封じるべく、隙を狙っておりましょうから」
「わかりました」
「義定、重治とともにそちらに向かえ」
「はっ!」
藤孝殿は2人を伴って部屋から出て行った。ある程度策を定めて、近く出陣するのだろう。
長時殿とこの後のことを話していると、側に親頼殿がやって来る。
「政孝殿、少し尋ねたいことがあるのだが。後で時間を貰えないだろうか?」
「人に聞かせられぬ話ですか?」
俺は長時殿に視線を移しながら、その後すぐに頼親殿に視線を移して尋ね返す。
すると頼親殿は首を横に振る。
「ならば今聞きましょう。長時殿との話はほとんど終わっている様なものですので」
「真によろしいのですか?何やらこれからの大事そうな話をされていた様にございますが」
「それを言うのであれば親頼殿もそうであろう。こちらが大事な話をしていると分かっていた上で、話に割り込んで来たのであるからな」
決して長時殿に頼親殿を咎める気は無かったのがと関わりが薄い俺ですら分かった。むしろ長らく行動を共にしてきたからこそ、軽口をたたき合える仲であるのだと思う。
「確かにそうでございました。では遠慮無くお尋ねいたします」
「何なりと」
「先日、一色家の家臣の方が私の元へと書状を持って参られました。あの中に書かれていたことは事実にございますか?」
「事実です。嘘などつけば、もう親頼殿からの信頼は得られぬでしょうし」
「ですが彼の地は正直殿に与えられているはず。あの方の今川家に対する貢献も凄まじい。にも関わらず、私がその方の領地を削り取る様な真似をすれば軋轢が生まれることは必至。そのようなこと、私は望んでおりません。きっと正直殿も同様にございましょう」
「なるほど・・・。それを心配されていたのですね。いや、ご安心を」
俺は手を広げて頼親殿の顔の前に出す。指の隙間から、俺に対して必死に訴えようとする頼親殿の顔が見えた。
「まず順を追って説明いたしますが、頼親殿に与えると約束した地は現在長時殿が治められている地と、正直殿が治められている地の中間にございます。長時殿は此度の信濃切り取りが成功すれば、旧領への復帰を約束しておりますから完全に元通りとはいかずとも、筑摩に移って貰うこととなりましょう」
長時殿と頼親殿が頷く。
「そして正直殿に関してですが少々事情がございます。諏訪頼忠殿を諏訪へ復帰させるため、距離的にも近い長時殿の今の地を領有して頂くことが私にとっても頼忠殿にとってもありがたいのです。故に荒神山城とその北の城2つ。ですがそれではやはり正直殿のこれまでの貢献に報いることが出来ません。故にこれまで長時殿に任していた荒神山城の南の城をいくつかとその地を任せるのです。そして正直殿が荒神山城に移ることによって空白となった地の大部分は、かつて藤沢家が領有していた地にございます。居城としていた福与城を含め、彼の地一帯と少々飛び地となりますが藤沢城も管理して頂きたい。誰も損はしておりませんし、むしろ得しかない」
実は正直殿にお願いされていたのだ。もし領地の再配置があった場合、今より領地が減っても良いから頼忠殿の側に置いて欲しいと。
どうしても頼忠殿を見守らなければならないのだ、とな。
流石に本当に減らしてしまうと、事情を知らぬ者達が俺に対して反感を抱きかねないから、要望を叶えつつ増やすことを決めた。それを今回、俺からの恩賞としたのだ。
ただまぁ・・・。
「頼親殿、先に恩賞の話とは・・・。随分と余裕がある様にございますな」
俺が言いたかったことを長時殿が言って笑われた。
「・・・確かに。あまりに嬉しき話であったが故、気が逸ってしまいました。お恥ずかしい話で」
額を軽く叩くと、長時殿と共に笑われる。俺もそんな2人に釣られて笑ってしまう。
同じ部屋で話し込んでいた方々も、急に笑い始めた俺達を見ながら何やら話していたが、あの顔はどう考えても真面目な話し合いをしている風では無い。俺達を見て、やはりまたつられてしまったのか。
しかし雰囲気は悪くない。
暗い雰囲気より明るい雰囲気だ。気が抜けるのは良くないが、重い空気の中で戦場に向かうよりは断然良い。
今ならば何でも出来る気がする。
そう思っていたとき、誰かが慌ただしく廊下を走ってくる音が聞こえてきた。
「一色様!急ぎ一色様にお会いしたいと申されている方々が」
「俺に?誰だ」
「小笠原様の旧臣であると申されておりました」
長時殿が「まさかっ!」と立ち上がられる。
俺もまさかと思った。今あの者達が立ち上がることは危険すぎる。周囲は敵だらけのはずなのだ。
だが他に思い当たる人物も思い浮かばない。
「通されよ。ここにな」
「はっ!」
その者は慌てた様子で再び廊下を走っていく。
「皆様方、歓談は一時中断されよ」
長時殿が声をかけると、誰もが承知と言って広間の脇へと規則正しく並び始めた。いつも氏真様が座られている場所には、大将として指揮を執る俺が座る。
そして両側にズラッと全員が座って時を待つ。
「っ!?お、お連れいたしました!」
案内に戻って来た者は、先ほどと全く違う景色に驚いた様であるが、そのまま背後に控えている2人を部屋へと案内する。
部屋へと通された2人は一瞬俺の脇に座る者の方へと視線を向け、懐かしそうな笑みをこぼすと再び顔を引き締め俺の正面に座る。
そして深く頭を下げた。
「顔を上げよ。俺に会いたいと申したそうだな。その方ら、名を名乗れ」
なんとなく誰かなど分かっていたが、敢えて名乗らせる。これが重要だ。
「はっ!某、上杉家に深志城を任されておりました、犬甘政徳と申します」
「井川城を任されておりました、二木重高と申します。いきなりの訪問は失礼であると思い、此度土産を持参いたしました」
「土産が土産だけあって、人を入れたいのですがよろしいでしょうか?」
俺は両脇に座る者達に一度目配せをする。
長時殿の旧臣であるとはいえ、油断は出来ない。いきなり兵が飛び込んでくる可能性は低くても、用心に越したことはない。
「構わぬ。だが不審な動きは控えるのだぞ」
「承知しております」
政徳が手を挙げると武装をしていないが、おそらくどちらかの兵であろう者達が虎松ほどの歳の男を連れて2人の背後に座った。
だが虎松とかけ離れていることは一点だけある。
その者の手は後ろでキツく縛られているということ。
「誰だ」
「林城主、上杉憲政の子にございます。名を
頼親殿が僅かに頬を引き攣らせた。本当にまさかの土産だ。
こんな事態、誰が予想出来たのだ。山内上杉家の血を受け継ぐ者を2人も捕縛。それも捕虜としてどの程度価値があるのか、全く未知数であるというのが憲政に対する評価であったのに、もう1人増えるとは・・・。
「残念ながら城主であった憲政は先日の奈良井城出兵以降戻っておらぬ様で、捕縛するには至りませんでした。もし足らぬというのであれば」
政徳がそう言いかけたところで、ついに我慢が出来なくなったのであろう。長時殿が手を挙げたから俺は発言を許した。
「上杉憲政殿はこちらで身柄を確保しておる」
「・・・なっ!?」
驚きの声を上げたのは、政徳でも重高でも無く父の帰城を待っていたであろう憲重だった。
「父はっ、父は無事なのでございますか!?」
「そう心配せずとも、俺の手にある内は何もせぬ。その先は分からぬがな」
「そ、う、なので、ございますね」
勝手に声を上げ身体を前のめりにしたことで、兵らが縄を強引に引いて元の位置へと身体を戻させていた。俺が不審な動きをしないように念を押したために慌てた様だ。
「わかった。重高殿、政徳殿、今後は安心して今川家にお仕えください。きっと氏真様もお喜びになられましょう」
「真にございますか!?ありがたき幸せにございます!」
2人はホッと息を吐き頭を下げる。長時殿もどこか安心した様に胸をなで下ろしていたが、それとは対照に憲重は涙を流している。
今の感じだと、憲政が生きていて安心したというところか?あまり武士として育てられている感じではないな。いや、それはそうか。
一応名門である山内上杉家の継承は絶対に果たされない立場のはず。そして父に付き従って越後にいるということは、つまりそういうことだ。
憲政はどう考えているのか分からないが、あの時南に逃げている様子を見ればなんとなく分かった。
もう上野への復帰を諦めたのだと。だが今の境遇を憎んだ結果、政虎に敵対する動きをしていたのであろう。
「憲重、そなたも奈良井城に送る。そこに憲政もいる故、父と今後の事を話すが良い」
「かしこまりました」
消え入りそうな声で項垂れる憲重は返事をする。もはやこの親子は駄目かもしれないな。どうなるのか、ただ勝手に死なないようにだけ気を配らせよう。
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