311話 今と昔、信濃侵攻の違い

 信濃国諏訪郡桜城 一色政孝


 1572年秋


 筑摩郡の重要地域をまるごと土産として献上してきた政徳殿や重高殿ら、旧小笠原家臣の働きはとんでもなく大きなものだった。

 それに続く様に旧臣らが続々とこちらへと降ってきたのだ。

 そして長時殿も無事にかつての居城であった林城に入城し、嫡子である長隆殿は深志城へと入った。

 周囲の城には三河衆の援軍も含めて全て人を入れ、万が一にも上杉に奪還されないように備える。そして安曇の平定に動いていた藤孝殿らも、周辺の城主達がことごとく降伏を申し出てきたために、最終目標であった西牧氏の本城である北条城まで簡単に到着することが出来たのだそうだ。

 安曇の南部地域、筑摩郡の北部地域のほとんどを制圧したことで、俺の役目はここで終わり。

 あとは長時殿らに任せて、俺は諏訪湖の北に位置する桜城へと入っている。働き過ぎだと、藤孝殿らによって最前線から追い出された形だ。

 しかし現状全ての戦線において指揮系統を明確にしている上に、俺よりもそれらの地での戦い方を熟知している長時殿ら信濃衆を筆頭に、戦上手が集まっている。

 藤孝殿の配慮に甘えることとした俺は、一足先にすでに穏やかな日常を取り戻しつつある諏訪へと場所を移したというわけだ。


「昌輝殿は順調に進んでおられる様で安心した」

「小笠原様のご活躍を聞いて、真田の誰もが燃えております。我らも小県にある真田の郷に戻りとうございますので」


 留守を任されている昌幸殿と共に俺は外を眺めていた。またも視線の先に見えるは諏訪湖である。

 しかし前回見たときとは南北逆の位置の城であるため、景色は全く違って見える。


「それに例の噂が効果的に広がっていることも、小県出兵への助けとなっている様で」

「あれか。だがあれは噂というわけでも無い」


 噂とは、上杉顕景が後継者争いにケリを付けるべく今川と手を組んだ。こういったものだ。

 だが手を組んだこと自体は事実であり、あの時秀治殿は越後は任せて欲しいと言っていた。つまり顕景はこの戦を好機とし、一気に越後国内を掌握しようとしているということである。


「一部の揚北衆が起こした反乱に関して、その他の揚北衆に含まれている方々は慎重になられておりました。一部の者はその噂を耳にして自領に戻ったなんて話まで出ている始末」

「それに早々に降伏を申し出て来た者もいた。城を明け渡す故に見逃して欲しいやら、端から俺が今川の交渉役だと踏んで顕景に今回は見逃す様口添えして欲しいというふざけたことを提案してくる者もいたな」


 そんなものもちろん突っぱねた。

 文句があるのであれば戦場で相まみえましょうと返事をしたところ、結局降伏すると門を開けていた。

 俺は大名では無い上に、上杉の方面ではほとんど名が知られていないために舐められているのだと思う。まぁそちらの方が都合が良いのだが。


「上杉景虎も当初は佐久郡へと攻勢を精力的にかけていた様にございますが、武田による侵攻と山内上杉家の不介入の表明により徐々に劣勢となり、さらには諏訪や筑摩の陥落でどうも越後方面に退いたという話もございます」

「抵抗しているのは景虎に煽られて立ち上がった者達と、北条という後ろ盾に安心して信濃にまで出張ってきた者達だけだ」

「武田家が長き刻を経て成し遂げた信濃平定が、此度はこれほどまで早く進むとは・・・」

「その身は小さくとも懸命に領地を守ろうとしていたかつての信濃と、強大な北条の僕と成り下がった上杉景虎の守ろうとする信濃は全く違うもの。何十年も前の信濃侵攻と比べるものでも無いな」


 信玄は父信虎を追放して、諏訪侵攻を開始した。その後いくつもの家を滅ぼし、従えながら北信濃へと進出し、政虎率いる上杉軍と川中島で何度も戦った。

 当時信濃を巡って幾度も争った両家であるが、今は見る影も無いほど力を失っていることを考えると、栄えているものもいずれは力を失うのだと改めて実感する。


「兄上は無事に小県を抑えることが出来るでしょうか?」

「佐久郡の動きが少々遅れている。それによってはどうなるか・・・。しかしそれに関して武田を責めることも出来ないな」


 武田はやはり山内上杉家の動向を注視しながらの進軍となったからだ。北条との約定により、当時の当主であった憲政はほとんど上野の全土を返還された。一部南北に越後上杉領と北条領が残ったものの、東西に関していえば全盛期ほどの領地を有するまでに戻れてはいたのだ。

 政虎が介入して、越後上杉家が一時的に監督者として上野の領内整備等を受け持っていたが、今は現当主の憲景が全権を持っている。もし上杉に援軍を出すのであれば、間違いなく佐久郡であったし、山内上杉家と武田家もまた因縁がある。

 それは信玄が行った上野侵攻もあるが、それより以前に行った佐久侵攻でも両者は衝突しており、山内上杉家は武田の重臣ら相手に大敗した過去を持っているのだ。

 今回当時に比べて当主やら状況やらと色々変わったが、介入してくる可能性もあると踏んでいた。竜芳殿もその点は気にしていたが、結局山内上杉家は越後上杉家に同情する様なそぶりを見せたものの兵を起こして援軍を出す、というような動きにまでは進展してこなかった。俺としては安心したが、景虎としてはアテが外れたことと思っているだろう。


「昌輝殿が小県に攻め寄せれば佐久郡に籠もる上杉勢は撤退しなければならなくなる。でなければ徐々に包囲されていく一方だからな」

「上杉が再度信濃に兵を出してくることも考えられます。小県に我々の兵が入ったことを知って、横腹をついてこようとしているのやもしれません」

「そのような発想にいたる者が景虎の側にいるのであれば、筑摩郡の大将に憲政を置いたりはしない。たしかにあの地はこちらの重要地点より少々離れており、大軍を運用できるほど広い地でもないが、決して容易に落とせるわけでも無い。言っては悪いがもっと戦上手か家中でも信頼されている者に任せるべきであった。結果現地の将らに信用されなかった憲政は、いくつかの城から人を集められぬままに出陣し、がら空きとなった本城やその周辺の城を無抵抗に落とされたのだ」


 もっと信頼を得ることが出来る人物であれば、また話は変わっていたかも知れない。言っても犬甘家も二木家も、他の旧臣らも城を失った長時殿の上洛に従っていない。その道中を共にしたのは、小笠原家の家臣では無く当時ともに武田から反旗を翻した頼親殿であった。


「ただの興味でお伺いいたしますが、政孝殿が相手方の大将であれば誰を起用されましたか?」


 一度昌幸殿にも見せたことがある、上杉家の派閥表。

 それを見たが故の質問であると思った。


「俺ならば山本寺さんぽんじ定長さだながを大将として据えた。山本寺上杉家は、上杉一門の家格でもそれなりに高いところにある。そして聞いたところによると、この男は景虎の傅役に任じられている」

「山本寺上杉家にございますか・・・。たしかかつて越後守護であった上杉家に仕えていたと記憶しておりますが」

「その通り。今でこそ越後を北条に売る様な存在になりつつあるが、それも傅役に任じられたが故の事。家中での存在は未だ大きいと聞く。そのような者が筑摩を任せられてみろ。その地に城を預かる者達も、それだけ重要な地であるのだと改めて思う上に、上杉家全体で見ても重要人物の1人であり、景虎からしても重視している人物が入ったともなればしっかりと纏まったであろう」


 憲政は言っても強制的に当主の座を降ろされた男だ。信用出来ぬであろうし、従う気もそうそう起きない。上が頼りなければ、下は信じて戦うことなど到底出来ない。


「筑摩を落とすことが出来たのは、俺の予想を良い様に裏切ってくれた。南での戦と違って、信濃での戦で冬は越えられぬ」

「ということは直にこの戦も終わりましょうか?」

「そうだな。それまでに顕景が越後を制して、無事に次期当主として家中で認められてれば、難なく信濃を得ることも出来るであろう。だが景虎が健在であればそうもいかぬ」

「信濃の行く末は全て越後次第にございますか」

「それだけは今も昔も変わらぬ様だな」


 雪が降り始めればこの戦は終わりだ。雪の中の行軍は危険な上に、敵とぶつかったところでまともに戦えない。視界が悪く湿気る。火縄銃も弓もまともに使えない状況で無駄に被害を増やす様な真似はしたくない。

 せいぜい城に籠もって籠城戦をこなす程度で収めたいのが本音だ。


「とにかく時間は無い。願わくば小県と佐久のどちらも奪って終われれば良いのだが」


 今最前線から遠ざかった俺に出来ることは、良い報せが届けられることを待つのみだ。

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