306話 思いがけない別れ

 信濃国筑摩郡南部某廃寺 一色政孝


 1572年夏


「もう上杉の方々はおらぬのだな?」

「はい。忍びらがそう申しておりました」

「であるならば良い」


 重治は俺が佇まいを崩しているところに入ってくると、すぐに戸を閉めた。これからする話は誰にも漏らすことが出来ない。

 特に景虎や北条の間者が紛れていれば大変なことになりかねないからな。

 重治もよく分かっているわ。


「殿が狩野殿とお話に入られた頃、藤沢様より報せがありました」

「頼親殿からか?何かあったか?」


 藤沢ふじさわ頼親よりちか殿は、長時殿と共に今川家に召し抱えられた御方である。この方もかつて信濃に領地を持っていた方であり、諏訪家の分流の家柄でもある。


「藤沢様が入られている奈良井城に、上杉の兵が攻め寄せている様にございます。明らかに敵兵は突出している様で、今ならば包囲も容易であると。もし包囲策を実行するのであれば、籠城にて長期にわたり耐えることも可能であると」

「そうか。では長らく敵を引きつけて貰うとしよう。どこで反撃の一手を打つか考えていたのだが、まずは筑摩郡を制するぞ」


 俺は信濃に入ってから、多くの山城には地下通路を確保する様に命じていた。脱出路としても使えるが、包囲されない限りは人の出入りを可能にする目的もある。

 それも秘密裏に。

 この奈良井城もその細工を施した城の1つである。しばらくは地下通路を用いて物資を運び込み、敵の目を釘付けにするとしよう。


「荒神山城にいる之助に伝えよ。真田の後詰めのため、花岡城の手前まで進軍させよ。一色の旗を掲げ、諏訪の対岸にいる上杉に我らの存在をしっかりと示すのだ」

「かしこまりました。小笠原様もそこに付けるのですか?」

「どう思う?」


 重治からの問いに、俺もまた問いで返す。


「小笠原様には、細川様を付けて頼親殿の救援に向かっていただきましょう。奈良井城に攻め寄せたという上杉はおそらく筑摩の北部から兵を出しているはず」

「俺も同じように考えた。そしてあの地は」

「はい。彼の地は小笠原家の旧領にございます。細川様には山を抜け次第、奈良井城に向かっていただき、小笠原様にはその他の信濃衆の方々と共に北上していただくのがよろしいかと。また木曽様には万が一に備えて奈良井城の南にある薮原砦まで進んで頂きます」

「ではそうするとしようか。それで調略の方は上手くいっているのだな?」

「はい。現在筑摩郡には、かつて小笠原家に仕えていた者達が複数入っております。おそらく上杉家による迅速な統治を目的としたものでありましょうが、結果それが都合の良い様に働きました」


 栄衆の一部を従えている重治は、信濃の調略に積極的に動いていた。俺が指示を出して煽ったところもあるが、他は全て重治の判断に任せている。

 その調略の成果として寝返った者は、重治の顔を立てて信濃に領地を与える約束となっているが、今回もその扱いとなりそうであるな。


犬甘いぬかい政徳まさのり殿、二木ふたつぎ重高しげたか殿がこちらに付くとの密書を頂いております。時期が来れば城ごと寝返ると」

「両者はどこの城に入っている」

「政徳殿からの密書によれば」


 重治は筑摩郡北部の地図を広げた。

 かつて小笠原家の居城であった林城を中心に描かれているその地図は、周囲に多くの城が記されている。


「政徳殿は小笠原家の家臣時代より任されていた犬甘城と、その南東部に位置する深志城に。重高殿は長らく小笠原家の居城であった井川城に入られているとのことに御座います」

「ちょうど筑摩北部の中心辺りか。しかし林城には景虎の腹心が入っているのではないか?」

「おそらく。そこまでの情報を得ることは出来ておりませんが、あの城を落とし小笠原様が入ることこそが彼の地での勝利であるかと思われます」

「そうだな。ただ問題は安曇あずみの者達は小笠原家と敵対していた者たちもいる。その者らは武田家への臣従を経て多くの者が上杉へと流れているのだ」

「その筆頭が西牧氏にございますね」

「あぁ、奴らがそう簡単に長時殿の筑摩復帰を認めるわけが無い。気をつけて頂くしかないな」

「ではそのように人をやりましょう」

「頼むぞ。それと武田だ」


 佐久郡侵攻もこちらの反撃と同じタイミングで動かさなくてはならない。武田が単独で動けば佐久郡にて孤立するであろうし、下手をすれば大きな被害を出す可能性がある。その隙を北条に突かれれば、甲斐はすぐに落ちてしまうであろう。そうならぬ為に駿河の一部を信貞殿が率いて援軍に入っているのだが、一応注意はしておくべきだ。それに景虎に警戒されても面倒だからな。

 俺達はあくまで防衛に徹していると思われていた方が、今はやりやすい。直に奴らは顔を真っ青にすることとなるであろうが。


「武田の佐久侵攻隊は信濃との国境付近である古宮ふるみや城にて待機しているはずである。長時殿の動きには合わせられぬ故、昌輝殿の反撃の一手に合わせるぞ」

「かしこまりました。上手く調整しつつ、武田へも人をやります」

「そうしてくれ。武田が上手く佐久で注目を集めることが出来れば、真田を中心に行う予定の諏訪平定も容易なものとなるであろう。正直殿や頼忠殿には真田の後詰めとして高島城へと進ませるのだ」

「はっ!」


 重治が出ていき、それを確認したかの様に落人が姿を現す。


「如何した」

「三好が何度目かの分裂をしたようにございます」

「またか。これでは将軍家の後ろ盾にはならぬであろうな。だがそれでも幕府は上手くやっているのだが」


 実際三好の権力は日に日に衰えてきている。三好本国であった阿波と讃岐は阿波守護家であった細川の流れを汲む細川真之を主として独立を宣言し、その後即座に長宗我部と手を組んだ。というよりも実質臣従に近い扱いを受けている。

 そして言わずもがな、永禄の変に際して三好家と袂を分かった三好義継と松永久秀。

 摂津・和泉を中心に力をふるう三好本家の3つであった。これ以上に分裂する要素が見当たらないのだが、次はどこが三好長治から離れたのか。


「それで?」

「織田殿による越前侵攻。その動きを警戒した三好家は若狭に兵を集めておりました。そして若狭は幕府の政所執事である伊勢家の所領とされております」

「たしか伊勢貞為と言ったか?」

「はい。しかし若狭で対織田の指揮を執るは三好重臣である篠原長房となったようで、この者は若狭に入るとそのまま当主貞為を殺害。弟である貞興を新たな当主と立てて伊勢家を乗っ取る動きを取ったのでございます。動機は明確に出来ておりませんが、幕政における公方様との確執が原因であると言われております。またその動きに合わせて丹波の赤井家が三好と敵対する動きを見せております。ただこちらは若狭の篠原と手を組むのか、その辺りもまだ判明しておりません」

「そうか、三好に関する報せを聞く都度思うな。畿内の情勢は複雑怪奇であると。だが信長にしてみればこれほど好都合なことがあるのかと言ったところか」


 しかし今日も今日とて違和感があった。落人の言葉が僅かに変なのだ。

 前回はその違和感の正体に気がつかなかったが、今回は明確に違いを見分けることが出来た。

 故にここで白黒ハッキリしておくべきだ。

 この男が誰なのか。


「落人」

「はっ」

「近くに寄れ」


 一瞬驚いた様に身体を強ばらせた。それもやはり気になった。

 何か後ろめたいことがあるのか?だがこれまでおよそ10年の付き合いである落人がこのような反応を見せたことなど、過去1度も無かった。

 ここ数日を除いては。


「遠慮するな」

「では」


 近寄ってくる落人。俺の手が届くところまで来たところで、顔を覆い隠している布をめがけて手を伸ばす。


「っ!?何を!」

「それはこちらの言葉である。お前は誰だ?落人ではあるまい」

「いえ、私は正真正銘、栄衆の頭領である落人にございます」

「そう思えぬ事が多々あったのだ。まず落人は一色の者以外は全てを呼び捨てで呼ぶ。同盟相手の信長であってもな」


 先ほど畿内の動向を俺に伝える際、この男は信長のことを「織田殿」と言った。それに公方のことも「公方様」と言った。

 落人にとっては仕えている俺が主であり、それ以外は敬わぬ癖があったのだ。別に一色の関係者以外の前で落人が姿を現すことも、誰かが聞き耳を立てているときに俺の前に出てくるヘマもしないため、矯正させることなく放っておいたのだが、今こうして役に立つことになるなど、当時思ってもいなかった。


「それは・・・」

「もう一度問う。お前は何者だ」

「・・・申し訳ございませぬ」


 落人と思わしき者は、俺から距離を取ると落人の姿として初めてみる膝をついて頭を下げたのだ。

 やはりこの男は落人では無い。


「どういうことか説明してくれるのであろうな?」

「はっ。全てお話しさせて頂きます。しかし先に言っておくべきは、本当に私は落人なのです」

「・・・」

「というのも、栄衆の頭領は代々『落人』と名乗り他の者達と立場を分けていたのです」

「つまりお前も落人である、と?ならばこれまで俺に仕えていた落人は如何した?」

「・・・先代は数ヶ月前に病で亡くなりました。私は先代の、父の跡を継いで栄衆の頭領となったのです。故に私も落人であることに違いはありません」


 その後も話を聞いていて、ようやく俺も納得することが出来た。

 かつて東条城の台所を任されていた者の中に栄衆に協力者と呼ばれる女がいた。名を「福」と申していたが、あの時も落人にそう呼ばれているという紹介をされた記憶がある。

 つまり忍びは通常時に名乗る名を持っていないのだ。仮の姿になる際に名乗る名はある。俺達が聞いていた名は全てがそれなのだという。

 だからかつて久の侍女であった初も今の侍女である美好も、菊の侍女である小柴も全て仮の名なのだそうだ。

 ただ頭領に関しては統一された名が無ければ不便である。それ故に頭領としての名が決められた。

 それが落人や雪女という名である。


「元々我らは1人の主に仕えたことがありませぬ。故にこのような時、どうすれば良いのか判断がつきませんでした。父はそれを伝えずともただひたすらに殿に仕えれば問題ないと言われ、それに従っておりましたが・・・」

「・・・どうした」

「従っておりましたが、殿のお顔を見ればその時に伝えるべきであったと後悔しております。このような非礼、どうかお許しください」


 また落人は頭を下げる。しかしそのように言われた俺は今、どのような表情をしているのだろうか?それほどまでに感情が漏れ出ているのだろうか?


「落人」

「はっ」

「お前の父は立派な忍びであった。俺はあの男に何度も助けられた」

「はい」

「励めよ、亡き父に恥ずかしき姿を見せぬ様にな」

「かしこまりました!今後も我ら栄衆一同、殿のお力となるべく懸命に励まさせて頂きます」

「期待している」


 落人は姿を消した。その鮮やかな去り方は、先代の姿を思い出させる。親子であると言っていたな。

 ・・・せめて一言言ってくれても良かったのでは無いのか?落人よ。

 もういないであろう天井を見上げた俺は、ただその死を悼んだのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る