303話 盲目の僧、再び

 高遠城 一色政孝


 1572年春


 信長は上洛を視野に入れ、再び畿内に残る反織田・義秋勢力の討伐を開始した。

 北畠は具教に付き従って籠城を決め込んでいた重臣らが相次いで離反し、挙げ句の果てには近習に裏切られて殺された。

 三瀬砦に籠もっていた具教の三子である親成は、具教の死を知って砦に火を放って自害したという。

 だが最期まで付き従った者は僅か少数であり、他多くの者は織田方の調略によって燃えさかる砦から先んじて脱出していた様だ。

 当主であった具房はそのまま茶筅丸を当主とし元服させた。

 名を北畠きたばたけ具豊ともとよとし、反対勢力を一掃した状態での就任となったわけだ。

 またそれに合わせて、神戸家に養子入りした甚八も元服。名を神戸信孝とし、神戸家を継ぐこととなった。

 これにて北伊勢と南伊勢の有力者を支配下に置くことに成功し、伊勢平定は成ったということらしい。


「越中も随分とあっけなく落ちたな」

「はい。神保が頼りにしていた一向宗は、越前で朝倉が押されていると知り徐々に加賀へと撤退を開始した様にございます。それによって守りが手薄となった神保家の各城は南と東より攻め立てられ、最後は城から落ち延びたと」

「逃げたとすればおそらく加賀であろうが」

「加賀も神保にとって見れば安全とは言えますまい。越中が落ち、敦賀が織田の手にあるということは、すでに織田によって囲まれております。そして能登畠山家は朝倉を助けることはありません」

「だろうな。畠山家の重臣共は静観、もしくは上杉・織田に手を貸すだろう。何が悲しくて、己らを討伐せんと兵を起こした者らを助けるというのか」


 北陸方面はめまぐるしく状況が変化している。それに合わせて上杉家中も変化していた。

 だが俺達がこうしてゆっくり高遠城で雑談しているのは、とある者の到着を待っていたからだ。先んじて書状が寄越された。

 相手は武田勝頼。

 言わずともわかるであろう。上杉領信濃国佐久郡への侵攻に関してと、その後の処理について。その使者を待っているのだ。

 もちろん各領主に抜かりは無い。例で言えば、真田はかつて砦を建てる様アドバイスした場所に城を建てた。

 それほど立派なものでは無いが、最低限防衛ができる、そして人を入れることが可能な城だ。他にも信濃各地の道の整備も進め、物資の流通が円滑に行われる様に手を回している。

 例の2家は何やら揉めながらではあるが、どうにか上手くやってくれているらしい。

 なんでも泰朝殿のまたいとこである宇津山城主、朝比奈あさひな泰充やすてる殿が間に入ってくれている様だ。


「殿、武田家からの使者が参られました」

「わかった。通してくれ」

「かしこまりました」


 かつて武田に縁のある昌続に出迎えを頼んでいたが、使者の来訪は思った以上に早かった。

 何やら慌てた様子の昌続が気になったが、俺は重治を側に移動させて昌続が使者を案内してくるのを待つ。

 しばらく待っていると、かつて聞いたことのある音が廊下の向こう側から響いてくるのが聞こえた。この杖の音は・・・。


「お久しぶりにございます。まさか再びこうしてお会いすることが出来るとは」

「その声は・・・。一色政孝様にございますね。お久しぶりにございます」


 使者は思いも寄らぬ人物。武田勝頼の兄である武田竜芳殿であった。

 前回も甲斐からはるばる駿河まで、盲目という状態にも関わらず竜芳殿は危険な道のりをやってこられた。

 そして此度も同様に危険な道のりをやってこられたわけだ。

 この方の家中での扱いがどのようなところに位置しているのか、なんとなく予想出来た。


「昌景殿もお久しぶりにございます」

「お久しぶりにございます」


 そして竜芳殿の共としてやってきたのは、やはり山縣昌景殿であった。


「昌続」

「はっ・・・。あ、かしこまりました!」


 俺の言いたいことに気がついた昌続は、慌てた様子で部屋の外へと出て行く。

 改めて俺達は向かい合うと、早速本題に移ることとなった。雑談はまぁ、いつでも出来るうえに、おそらくするならば今では無い。まだ全員揃っていない。


「先に申し上げますと、此度ここで決まったことに関しては一切覆すことはございません。当主様より全権を預かっておりますので、ご心配なく」

「それは助かります。こちらもあまり悠長にはしていられませんので」

「ですので私が拒否すればこの話は無かったこととなります。そのこと、どうか1つよろしくお願いいたします」

「かしこまった。では早速」


 俺は重治に合図をして地図を開かせる。すると竜芳殿の背後に控えていた昌景殿が隣に座って地図を確認し始めた。


「我らが目指すは上杉景虎が支配している北信濃の大部分を攻め獲ること。上杉顕景殿と戦うことは本望にございません」

「武田家も少々上杉の事情は聞いております。何でも政虎殿が瀕死の状況に追い込まれたとか」

「その通り。それによって起きたこと、政虎の養子である2人が後継者を巡って対立を深めております。我らはそれに介入しようと考えております」

「介入・・・。故に信濃の大部分ですか」

「その通りです。重治、あれも」

「はっ」


 重治はもう1枚の紙を広げる。かつて氏俊殿にも見せたことがある、上杉家中の派閥を表したものだ。

 一方が顕景派、一方は景虎派。そして中立の立場と、重傷の政虎に付き従って春日山城から出てこない者達。これに関しては完全にどちらに付こうとしているのか不明であるが、基本的には両者に矛を収める様立ち回っている。

 そんな様子であった。


「信濃の最北に位置する水内や高井の領主らは顕景殿を支持しております。故にこの地以外で、景虎に与している領主らを攻めねばなりません」


 水内には信濃島津家が、高井には高梨家が入っている。島津はかつて武田による信濃侵攻で領地を追われ政虎を頼っている。

 高梨は長尾家時代から、その勢いを後ろ盾として勢力を拡大してきた過去がある。

 そういった経緯から基本的には政虎を支持している様であるが、北条の傀儡に成り下がろうとする景虎には反感を抱いている。そんなところだ。

 そして何よりも信濃の領主らは揺れていた。

 前の戦で、景虎ら今川領に侵攻してきた者達はほとんど何も出来ずに撤退している。信頼が大きく揺らいでいる。


「我らはすでに調略を進めております。元々北信濃の国人であった者達を我らは多く抱えておりますので、その伝手を頼って」

「なるほど・・・。それで佐久郡は真に武田が頂いても?」

「もちろん。全域お譲りいたします。ただしこれから決める期日以内に、武田単独で落とすことに成功した場合に限りますが」


 そういうと昌景殿が頷いた。自信はある、ということか。


「昌景が頷いた様な気がします。では我らは上杉領の佐久郡に単独で攻めかかることを約束いたします。しかしそうなってくると厄介なのは上野の山内上杉家でしょうか?」

「佐久郡に攻め寄せる段階で、山内上杉家が動いた場合は退いていただいても構いません。その後我らと共に佐久郡を落としましょう。ちなみに佐久郡には信濃に縁もゆかりも無い、北条の家臣が入っております。いや、正確には北条の"元"家臣ですが」

「なるほど。ならばやりようはありましょうか」

「こちらでも煽る様に手はずを進めておりますが、決め手はやはり圧倒的に不利な状況。私個人の気持ちとしては山内上杉家の介入があったとしても、武田家にはそれもろとも攻め落としていただきたい」


 昌景殿は一瞬間を空けられた。今度は即座に頷く様なことをしない。


「聞いております。公方様は今川と北条の戦に関しては関与しないと言われたそうで」

「間違いありません。なので前回の様な、無理矢理な介入はないものと考えております」

「ですが山内上杉家が介入してくるとなると、それは公方様のご意志ではないのですか?それを遠慮無く叩き潰すとなると、例えそれが武田による仕業であったとしても、事実上我らの主である今川家の心証は悪くなるのではございませんか?」


 竜芳殿の心配は、今川家と幕府の間の話。

 だが家康や長照殿が畿内の親三好・義助派に向けて兵を起こしたことからも分かる様に、今川家は最早公方足利義助に味方していない。だからといって、全面的に義秋を支持しているわけでも無いのだが。そこは別に言う必要も無いだろう。


「その点はご心配なされず。遠慮無く叩き潰して、上野に追い返していただければ」

「それであれば良いのです。ですが山内上杉家、決して油断出来ませぬ」

「彼の家の筆頭家臣である長野家は、最早当主から心が離れております。さすがに主家を裏切る様な真似はしないでしょうが、積極的に主家のために犠牲を払うことも無いかと」

「というと?」

「長野家の存在は大きくなりすぎました。僅かな兵で、長らく主家不在の上野を守っておりましたから。故に上杉家臣らは長野家の動向を気にして、発言を注視する。結果当主の扱いが少々雑なものとなった」

「憲景殿は業盛殿を・・・」

「露骨にはやっていないでしょう。ですが心のどこかで思っていることは、知らぬ間に漏れ出ているものです」


 きっと業盛殿も気がついたのであろう。だからこそ両者には溝が生まれた。

 誰も口には出していないであろうが、な。


「わかりました。この条件であれば我らも異論はありません」

「よかった。その言葉が聞けて安心いたしました」


 俺は用意されたものの、熱中しすぎて冷め切った茶を啜る。その様子を感じ取った竜芳殿も茶を飲まれた。

 そして1つ何かを思い出した様に、慌てた様子で湯飲みを床へと置く。


「忘れておりました。諏訪家のことにございますが・・・」

「その話もされていたのですね」

「はい。ただそれに関しては家中で二つに割れております。当主様は諏訪神社の再興のためだと喜ばれておりました。ですが現当主である頼豊殿は反対である様にございます。表立って反対意見を述べたわけではございません。ただ高遠城への使者が私に決まってすぐ、密かにそのように託されたのです。また頼豊殿と同様に考えられている方は、家中に少なくありません」

「・・・わかりました。そちらに関してはまた追々、ということでよろしいでしょうか?」

「はい。今川家で諏訪家を興されることに関しては何も問題は無いのです。ですが諏訪神社のことが絡むと話は別。その点だけどうかよろしくお願いします」


 やはりこちらは一筋縄ではいかないか。諏方郡の安寧を図るためだと思ったのだが、しばらくは保留か。諏訪家を立てることは問題ないのであれば、頼忠殿には保科家から1人立ちして貰おう。だがそれより先は慎重に、だな。


「かしこまりました。まずは上杉を信濃から追い出してから、またゆっくりと相談させていただきます」


 とりあえずはこんなものであろうか。今回の信濃侵攻に関しては、武田との綿密な連携が求められる。

 かつて敵同士として戦ったことが嘘の様だ。

 だがそれ故に失敗出来ない。もしも失敗すれば、景虎の信濃における評価の様な状況になってしまうからな。

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