302話 国内整備
高遠城 一色政孝
1572年春
「揚北衆の中で、上杉家に対して独立騒ぎを起こしていた城は全て制圧された様にございます。黒川・鮎川両名は城を捨てて行方をくらました様にございますが、おそらく行き先は会津の蘆名の元ではないかと」
「蘆名、か。上杉の後継者争いには間違いなく関与していると思うのだがな」
だがどうもその影が見えない。落人が根拠無い推測をすることは無いのだから、何かしら奴らが介入してきた痕跡があったのであろうが・・・。
「実は上杉景虎が信濃へと移動した際、蘆名家は越後国境へと兵を動かしていたのです。しかし揚北衆が独立騒ぎを起こしたために、会津へと戻った様で」
「自分たちにもある程度被害が出ると判断し、無理な介入を避けたか?」
「おそらく」
落人から報告を受けつつ、俺はとある1枚の書状を眺めていた。
これは畿内の動向を纏めた報告書の様なもの。商人の見聞したことを、彦五郎がまとめて送ってきてくれたのだ。
「わかった。だがその者達の追跡は必要ない」
「かしこまりました。会津より手を引きましょう」
「それとしばらく越後上杉家からも手を引くか」
俺の言葉に落人は動きを止める。
書状を眺めながらであったが、そのような落人の動きは自然と目に入ってきた。何であろうか、落人との会話にも正直言えば違和感があった。
それが何かは分からない。
特に何かが変というわけでも無いのだが・・・。
「よろしいのですか?」
「あぁ、構わない。それより気になるのは山内上杉家の方だな。景虎と信濃を巡って争う限りは、あちらの動向も注視せねばなるまい」
「何を探りましょうか」
「家中の力関係、周辺国との外交状況、あとは幕府との関係か」
政虎から関東管領を返還することが幕府によって認められて以降、随分と気合いが入っていると聞いている。
今はまだ動きが全くと言っていいほど無いのが不気味であるが、もし急にやる気を出して活発になるとそれはそれで怖い。先んじて奴らの動きを知っておくことも悪くは無いだろう。
上杉から手を引いた理由は単純だ。どうも顕景は前の反乱に関して他国の関与を疑っている。どこでそう感じ取ったのかは分からないが、上杉の忍びも動き始めることが目に見えており、すでに下準備の終わった現状で無理にこちらの忍びを削られることは避けたいというわけだ。
「ではそれらを中心に越後に潜伏している者達を上野へと忍ばせます」
「頼むぞ」
「はっ!」
落人はそう言って下がろうとしたのだが、俺は1つだけ気になったことを聞いてみることにする。
「落人」
「はっ、何でございましょうか?」
「何かあったか?」
「いえ、特に何も変わりはありませぬ」
「そうか。ならば良い」
今度こそ落人はその姿を隠した。
その後すぐに重治が部屋へと入ってくる。何やら書状を手にしており、それと同時に何やら良い匂いがした。
「何かございましたか?浮かない顔をされている様にございますが」
「重治か、少しな・・・。いや、気のせいであろう」
「そうでございますか」
重治は納得したと言って、そのまま俺の正面に腰を下ろす。
「2つ用件がございます」
「2つ?1つ目は何だ」
「木曽様より大量の木材が届けられております。よければ館の建築に活用してくださいと」
「木曽谷の木は非常に良質である。ありがたく使わせて貰おう。というよりも、その良い香りは木曽谷の木材の匂いであったのだな」
「これまでそれらの中にいたため、気がつきませんでした。それほど強く感じられますか?」
「部屋に入ってきた瞬間に分かるほどにはな」
しかし義昌殿、前にアドバイスしたことをどうやら実践されている様子。木の善し悪しは全く分からないが、分からないなりにせめて一度くらいはこの目で見ておく必要がありそうだ。
「それと武田家に関することにございます。今川様より一度人を出していただける様にございますが、以降は殿とやり取りをされるようにとのことにございます。武田家にも十分配慮する様、文を預かっております」
重治より手渡された文を読んでみると、確かにそのように書いてあった。
氏真様から人が出された後、武田からこちらに人をやって貰える様手配してくださる様だ。
本当に上役の権限は大きいな。従属しているとはいえ一大名家とのやり取りも任されることがあるとは。
まぁ当然武田がそれを拒否すれば実現はしないわけだがな。
「それと完全に別件であるのだが、信濃の南にある秋葉街道の整備に取りかかろうと思う」
「秋葉街道というと、信濃と遠江を繋ぐ街道にございますね」
「あぁ、かつては武田が領有していた信濃に塩を送るためにある程度整備させたがそれだけでは足りない」
「と言うと?」
「人を大勢運ぶためにしっかりと道を整えようと思ってな。故に彼の地を任されている信州遠山家を中心として、道を整備しようと思ってな」
信濃侵攻の折、真っ先に俺達が戦ったのが信州遠山家だ。
遠山川沿いに築城されたいくつかの城を攻めた俺達であったが、武田からの援軍が見込めないと察した当主遠山景広殿は次子を人質として差し出して、俺達に降伏した。
当初は籠城策にて抵抗していたものの迅速な判断が功を奏し、信州遠山家はとあることを条件に義昌殿と同様に旧領の安堵を約束されたのだ。
ただ現状を見れば旧領安堵と言っても良いのかは微妙である。
景広殿は隠居し、長子である景直殿が信州遠山宗家の当主とされた。また和田城より北に位置する遠山領3城は、景広殿の甥である政善殿が新たに家を立てることで遠山家による全域統治が認められたのだ。
今回はその両家に加えて、遠江の天野殿にも協力を要請しようと思う。
「天野様と遠山様はかつて長らく彼の地一帯で争いあってきた間柄。うまくやれるでしょうか?」
「やって貰わなければ困る。あの地で人や物の流れが止まれば、信濃の物資は一気に回らなくなる。当然他にも整備された街道があることに違いは無いが、大井川領から物を入れるのであれば、間違いなくあそこが一番近い」
「たしかにそうですが・・・。いえ、かしこまりました。人を用意いたしましょう」
「頼む。もし何かあれば俺が両者の間を取り持つ。そうならないことが望ましいのだが、こればかりはどうなるかなど想像出来ないのでな」
重治は人を用意するべく出ていった。
しかし信濃は現状静かである。それは南北共にだ。
そしてこうしている間にも、前線に城を持つ者達はいつ来るか分からない侵攻に備えているのだ。
一時は武田の支配で安寧の時を得ることが出来ていた民達も気が気でないと思う。
「顕景が上杉の掌握に動けばこちらにも十分勝機がある。信濃を切り取ることが出来れば万々歳。出来ずとも上杉に対して圧をかけることが出来れば・・・」
そんなことを1人口にしていたとき、誰かが襖の前に来たのが分かった。何故分かったのか、それは着物のすれる様な音が聞こえたからだ。
「誰だ」
「私にございます。実はお願いがあって参りました」
「願い?菊の願うことであれば極力叶えてやりたいところであるが・・・。難しいことであるのか?」
「いえ。そう難しいことではございません。ですが少々人の目が気になりますので」
言いにくそうに菊はそう言った。
これまで侍女を疲労させまくっていた普段の姿とはかけ離れており、それだけで何か調子が悪いのかと心配になる。
だが菊は覚悟を決めた様な目で俺の目を見てきた。
「新たに館を建てると仰られました。そこに信濃に領地を持つ方々が今川様に出された人質を集めるとか」
「そうだ。そこの館は菊を主とする故、大きな問題に発展しない様なことであれば基本的には菊に任せるつもりである。わざわざ俺に伺いをたてずとも」
だが菊は未だに不安げな眼差しをしていた。
つまるところ割と重大な問題ということであろうか?しかしまだ館も建っていないというのに、そんな大事があったか?
「今川館より送られてくる人質の中には・・・。私の姉様がいらっしゃるのです」
そこまで言われてようやく思い出す。義昌殿は、俺達が信濃に侵攻した際に無抵抗で降伏を申し出た。その際に求められた人質に、武田信玄の娘であった真理姫を差し出しているのだ。
まだ子はいないはずであるが、そうでもして武田の縁者を遠ざけたかったのであろうか。あの時は真理姫も抵抗なく人質となることを了承していたが、今はどうなっていることやら・・・。
「何も特別なことは無い。人の目を気にする必要も無い」
「真にございますか!?ありがとうございます!嬉しゅうございます!」
勢いよく頭を下げる菊。やはり血のつながりは良いものだ。
「ですが姉様は寂しくないのでしょうか?久様は随分と寂しそうにされておりました」
「どうであろうな。義昌殿の考えは分からぬが」
「木曽様は姉様をもうお側に戻されないおつもりなのでしょうか?それはとても悲しい話です」
結局菊は元気なく部屋をあとにする。
真理姫に会えば一時的に元気になるであろうが、こればかりは俺が強制することでもない。
ただそれとなく義昌殿に話を聞くくらいならしてもよいかもしれんな。
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