299話 側に置く理由
大井川城 一色政孝
1572年冬
久に言いくるめられたのか、はたまた何か思うところがあったのか。虎上殿の気持ちは分からないままであったが、俺の提案を受け入れるまでにそう時間はかからなかった。
そしてそうと決まれば早いのが一色家である。母や久が取り仕切った祝言はすぐさまとり行われた。当然公言出来ないと予め言ったとおり、久や菊を迎えたときとは違って随分とこじんまりとした祝言であったことには違いない。
それでも虎上殿、いや虎上は喜んでくれていたのであろう。なんとなくだがそう感じ取ることは出来た。
「歳の離れた私で、満足させることは出来たのでしょうか?」
寝所へと押しやられてしばらく、虎上は俺にそんなことを尋ねてきた。月明かりに照らされたその肌は僅かに紅く染まっている。
俺としても体温が上がっているのであろうか。上半身の着物ははだけ、だらしなく布団に寝転がるだけであった。
「歳が離れたといえども、せいぜい6つか7つ程度。菊と比べればまだまだ普通のことであろう。そう心配せずともな」
「菊様とは15ほどでしたか?」
「そうだ。まだ俺の半分しか生きておらぬ。そのような者を抱けるわけもない」
菊が俺の妻となった日。同じように寝所へと送り出されたわけであるが、特に何かをしたわけでは無い。
強いているのであれば、父が子を眠らせるようにただ静かに見守っていただけだ。その際に少し話こそしたが、それも菊がただ話したいようにさせてやったに過ぎない。
「私とは状況が違います。子が生まれずとも良いと考える私に比べて、菊様はきっとそれを望まれておりましょう。ご本人様も、そしてご実家である武田様も」
「であろうな。だがだとしても、それは今では無い。ただまぁ、俺にも限界はある。いずれ、な」
「このような時に聞く話でも無いのかも知れませんが、どうしても政孝様にお尋ねしたいことがございます」
「如何した」
天井を見上げて寝転がっていた俺であったが、何やら真面目な話が始まりそうだと虎上のいる方へと身体をゴロッと転がした。
それに驚いたのか、わずかに俺から視線を外して目が泳ぐ。
「な、何故私を側室へと迎えるようご提案されたのでしょうか?」
「あの時も言ったであろう。俺も考えが変わったのだ。だが根底にある想いは変わらぬ。虎松や高瀬だけでは無く、虎上も助けたい。そう思ったまで」
「私を側に置けば、いつかその内厄介なことになるやもしれません。井伊のことを嗅ぎ回っている者がいるのでございましょう?」
「確かにな。井伊谷城が落ちたとき、井伊の一族は誰1人として捕らえることが出来なかった。直親殿が亡くなられていたとしても、身内がその1人だけであったなど到底信じられぬでな」
「であればやはり・・・」
あまりに沈痛な面持ちであったが、それすらも俺は受け入れようと決めていた。大事な者を守るためには、側に置いておくに限る。そうでなければ、いずれ手からこぼれ落ちるであろう。
それは長年の経験で学んだことであった。
「虎上、こちらへ」
「・・・」
「長らく俺の働きを見てこなかったのか?母上の側に付きっきりであったとはいえ、俺の活躍を全く知らぬワケではあるまい」
「知っております。知りすぎております故、それを私のような余所者が壊してしまうことが怖いのです」
俺の差し出す手に、虎上が甘えてくる気配はない。
ただジッと俺が伸ばす腕を見ているだけであった。それもしばらくした頃には、俺の限界によって、布団にペタッと崩れ落ちる。
「虎上1人の存在で、俺も一色も崩れぬ。かつて久と約束したのだ。虎松が井伊の名を再び名乗ることが出来るくらいに、身元を預かっている俺が大きくなればいい、とな」
当然俺が今川で功を上げ続けているのはそれが理由だけでは無いが、間違いなくそれも俺の活力にはなっていた。
やはり井伊の名は残してやりたかった。虎松はああ言ってはいるがな。
それも今となっては叶わぬ事であるが、せめて虎松が俺と同じ位になったとき、井伊の遺児であることが発覚しても肩身の狭い思いだけはしないよう。それは高瀬にしろ虎上にしろ同じ事が言えるわけだが。
「だから虎上、俺の手を取れ。これまでもそうであったが、これからも絶対お前達を守る。俺を信じろ」
また泳ごうとする虎上の顔に右手を添えた。
もはや答えは決まったであろう。嫌でも俺の目が見えているはずだ。どれだけ本気でこの言葉を口に出したのかということが。
「最後に1つだけ聞かせてください」
「何なりと聞いてくれ」
「私があなた様を恨んでいるとは思われないのですか?あのようなことをしでかしたとはいえ、私にとっては唯一の肉親にございました。父を殺された私はあなた様を恨んでいる。そう考えられなかったのでございましょうか?」
「考えたさ。それは当然な」
「では何故」
「そうだな・・・」
俺の顔は今どのような顔をしているのであろうか?きっと狡い顔をしているのであろう。
こう言えばきっと虎上は何も言い返してこないだろうと、ほとんどわかっているような返事をしようとしているのだから。
「虎松がいる限り、虎上は俺の側を離れられぬ。俺が死ねば虎松も死ぬぞ?一色の手で死なずとも、嗅ぎ回っている者どもが見つけるであろう。だから俺のことは殺せぬ」
未だ幼い鶴丸では、井伊の者達を守ることは出来ない。今確実に生かせることが出来るのは間違いなく俺だけだ。
それだけ今川家中でこの10年をかけて築いてきたものはデカい。
「その物言い。まるで私の心の中を視ているようにございます」
「どうであろうな」
「ですが全て納得することが出来ました。私はあなた様の側を離れることが出来ません。きっと久様や菊様とは少し違った形の夫婦となるのでしょう」
「おそらくな。だがそれも良いでは無いか」
虎上にとっての最優先は虎松のことだけだ。それは何故か、きっと直親殿に虎松を託されたという理由だけでは無いのであろう。心底にはきっと婚約者として定められていた直親殿が有り続けている。俺ではその代わりなど到底務まらぬ。
故に直親殿に頼られた者として、最低限の居場所を用意してやらねばならぬ。
「俺は俺なりの方法で虎上を幸せにしてやりたい。それでは駄目か?」
「いえ・・・。そのようなことは・・・」
布団へとへばっていた手に、虎上の手が触れた。
雲に隠れた月のせいで、また虎上の表情が分からなくなったものの、手に触れる僅かな感覚から泣いているのがわかった。
「きっと、きっと私は良い縁に出会えたのでございましょう。ここまで長うございました」
触れる手を握り、改めて虎上の元へと身体を寄せる。これ以上の言葉は不要であろう。
とりあえずは俺の室として、本人も納得してくれたようであるからな。
「これからよろしく頼む」
「・・・はい」
抱きかかえたことで、俺の胸の中から確かにそう声が聞こえた。
長原城 松平家康
1572年冬
「・・・」
「・・・」
「・・・」
殿より命じられ織田領に入った我らは、すぐさま長島城を居城としていた一益殿と合流することとなった。
その後は織田の案内役を付けると言われ、しばらくして私の前に姿を現した者はかつてよく知る者であったのだ。
そのまま案内されるままに伊勢南部にある長原城へとやって来たわけである。我ら今川勢が任されたのは、北畠親成が入ったと言われている三瀬館。彼の地を落として、親成を拘束すること。
だがそれはまだ良い。北畠は背後の大和すらも敵を抱え最早どうにもならぬ状況である。
そう先のことではなく、いずれ滅ぶであろう。三好の援軍などが出張ってこなければ。
「・・・」
「・・・」
我慢出来なくなったのは、家臣である
「正信殿、まさか生きておいでであったとは。何故殿に何も言われず姿を消された」
「・・・何か言えるわけなどありますまい。私は殿を裏切り一向宗に味方したのです」「であったとしても、だ。あの一揆で、一向宗に味方した一部の者は今川様にお許しを得て、殿の元へと戻ってこられているのだ。何か事情があるというのであれば今からでも」
「・・・今は滝川様にお仕えしている身。忠世殿のお言葉は非常に嬉しいものにございますが、これ以上は松平様のご迷惑となる話にございます」
「松平・・・、様?」
これ以上の話は無駄であろう。
忠世が私のことを気にしてくれているのは十分伝わっている。だがここでこれ以上正信へと声をかけ続ければ、正信の今の立場が揺らぐであろう。それが大きくなれば今川と織田の関係にヒビを入れることとなりかねん。
それは最早私の望むところではないのだ。
「もうよい、忠世。正信殿も気になされるな。今は目の前のことに集中せねば・・・」
だが私がそう言いきる前に、1人の男が部屋へと飛び込んできた。
「
「やはり北畠は長くもたなんだか。忠勝に報せよ、我らが目指すは三瀬砦である。正信殿、案内を頼めるであろうか」
「かしこまりました!我らが先導いたします」
今頃は一益殿が茶筅丸様を大将とし、霧山城を攻めておいでの頃であろう。これでどちらの城も落ちれば、伊勢を長らく制してきた北畠も滅ぶ。
やはり古き時代の遺物はことごとく消えるというのであろうな。
「殿?如何いたしました?」
「康政か、いや少し考え事をしていただけである。気にせず先に支度を」
「かしこまりました!」
そろそろ私も覚悟を決めなくてはならぬか・・・。
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