300話 大出世
高遠城 一色政孝
1572年春
「こうして顔を合わせるのは久しぶりでありましょうか?」
「たしかに・・・。ですが政孝殿と会う際にはいつも子が出来たことを同時に報告される。以前も鶴丸様を久様は身籠もっておられたでしょう?」
「そうであった。久の様子がおかしいと、藤孝殿にも相談したことがあったな」
高遠城の広間にいるのは、藤孝殿だけでは無い。昌輝殿と信昌殿もいれば、義昌殿もいる。
他にも顔の知らぬ方々が多く集まっており、今日は信濃の上役となった俺との顔合わせが行われているのだ。
そう、上杉の脅威が一時でも去ったということで氏俊殿は隠居。瀬名家を氏詮殿が継いで、信濃の上役は俺が継承した。
一色家に与えられたのは高遠城とその城下。それ以外は全て信濃に領地を預かる者達で分割されている。俺の知らない間に随分と多くの家臣を抱え込まれていたらしい。
氏俊殿、なかなかやるな。
「その通り。あの時の動揺していた政孝殿が、今や我らの上役として信濃を治められるとは」
「まだ半分だけではあるがな。いずれは全て今川のものとして、あの者らを旧領に帰してやらねばならぬ」
氏俊殿曰く、藤孝殿以外のほとんどの方は信濃に故郷を持たれているのだと聞いた。当然昌輝殿のように旧領に戻りたいという方々も多い。その方達のためにも、俺は頑張らなければならないのだ。
そして話は逸れるが、久が懐妊した。今回は間違いなく出産に立ち会えぬ。
名は予め伝えており、男であれば松丸。女であれば千代となる予定である。ただまぁ毎回の事ながら、俺としてはどちらが生まれてきてくれても嬉しい。久と子が無事であれば、それ以上は望めぬ。
「ですがよろしかったのですか?」
「何がです?」
「菊様をこのような場所に連れてこられても。この地は大井川城よりも危険にございますが」
今、菊は多くの者達に挨拶をされていた。挨拶をしているのは幼い頃(と言っても今も幼いのだが)を知っている武田の旧臣達である。
みな感動していて、泣いている者までいた。
「この地は武田の旧臣が多いと聞いていたからな。信濃の出身で無いのも、藤孝殿くらいでは無いのか?」
「おそらく。ですが上手くやれております。皆様良い方が多いですので」
だがこんな会話の最中、わずかに居心地が悪そうにしている者を見つけた。
特に「武田の旧臣」という言葉に反応したように見える。
俺が不思議そうな顔をしたことに勘づいたであろう、昌輝殿が何か信昌殿に伝えた。そしてそれを聞いた信昌殿が俺の側へとやってくる。
「ご歓談の最中に失礼いたします。兄上よりお伝えすべき事が・・・」
「遠慮はいらぬ」
「では」
信昌は身をかがめ、声を潜めて話を続けた。
「あの方はかつて筑摩に領地を持たれていた小笠原長時様にございます。武田による信濃侵攻の折、居城を落とされて信濃を離れられておりました。長らく京で幕府に仕えられていたようにございますが、先代の公方様がお亡くなりになられてからこちらへと戻ってこられたのでございます」
「なるほど、武田という言葉に反応されたのはそういうことであったか」
「はい。また小笠原様以外にもそのような経歴を持たれている方は少数ではありますがいらっしゃいますので・・・」
それ以上は口を噤んだ。だが完全にこれは俺のミスだ。配慮が足りなかった。
「昌輝殿には礼を言っておいてくれ。改めて俺も礼を言いに行くと」
「いえ、では私はこれで」
慌てた様子で、だが静かに信昌殿は昌輝殿の元へと下がっていく。
「信濃は全て武田に従っていたわけでは無かったのか、いやそれは当然の話か」
諏訪家の一門である高遠家は滅んでいる。他にも武田に従うこと無く滅んだ家はたくさんあるのだ。俺の不注意で気分を害した小笠原家のように信濃を離れた者達も当然いた。
「はい。ですので」
「少し行ってくる」
俺は今持ってこられたばかりの酒瓶を持って、長時殿の側へと座った。
「先ほどは失言にございました」
「余所の者であれば知らぬのもまた無理は無い。だが今後はあまり口にしないでいただけるとありがたい」
「気をつけましょう。お詫びというわけではありませんが」
俺は酒瓶を見せると、一瞬困惑した様子の長時殿は空いた盃を俺の前へと差し出した。
「遠慮無く」
「ではでは」
なみなみまで注ぐと、長時殿は軽く頭を下げてそれを一気に飲まれる。
「よい飲みっぷりで」
「たいしたことではありませぬ。政孝殿も如何ですかな?」
「では遠慮無く」
俺も空いていた盃を差し出して、なみなみまで注いで貰った。別に酒には弱いわけでは無い。なんなら強いくらいであろう。
一気に飲んでもう一杯注いでもらった。そしてもう一度一気に飲み干して、長時殿にどうだ?と目をやると、一瞬呆けられていたが、その後に大きな声で笑われた。
「豪快な御方であるようだ。それに酒に強いともなれば、お慕いせねば失礼にあたるというもの。先ほどは無礼な態度でありましたことをお詫びいたします」
「それはお互い様でありましょう」
「今後は息子共々どうかひとつ」
「よろしく頼む」
周りで様子を見ていた者達もホッと一息はいたのがわかった。
やはり長時殿の存在はある意味特異であったらしい。小笠原家もかつては守護を担っていた御家であるからな。
それとなくみなも気遣っていたのだ。
「挨拶はこの辺で良いだろうか?」
1番のくせ者でありそうな小笠原家の方々と親交を深めたことで、これ以上に気を遣う相手はいないだろうと周りを見渡した。
すでに菊への挨拶は済んでいるようで、菊もこちらを見ている。
「今回集まって貰ったのは顔合わせをする目的以外に理由がある。最初に宣言しておくが、俺は信濃の情勢に現状1番疎いであろう。多少は氏俊殿より聞いてはいるが、聞くことと実際は全く異なると考えている。特に上杉の動きが全く読めぬ今はな」
みなが俺の言葉を聞き入っている。
「故に相談役を付けたい。2人、な」
それと同時に周囲はザワつく。そしてすぐさまとある2人へと視線が集まっていった。
1人は藤孝殿。この中では間違いなく付き合いが1番長い。
おそらく先ほどの会話から、みなそれを悟ったのであろう。そして氏俊殿の時にも、その側にいたのは藤孝殿であったらしい。
まぁ信濃の現状を考えれば、それは仕方が無いのかもしれない。
そしてもう1人。それは昌輝殿であった。
「俺としては1人はやはり藤孝殿に頼みたい。この中では唯一客観的に物事を捉えることが出来るであろう。他の者は多少欲が入るであろうからな」
「それは確かに」
昌輝殿が頷けば、他の方々も同様に頷いた。例えば上杉領に侵攻している最中、敵に隙が生じ、それが誰かしらの旧領奪還を予感させればきっと冷静な判断が出来なくなる。
だが信濃に何か特別な思いがない藤孝殿であれば、ブレーキ役になることが期待された。
「そしてもう1人であるが・・・」
俺はグルッと辺りを見渡す。すでに多くの者の視線は昌輝殿へと集まっているが、俺は別の場所を見ていた。
「
正直殿とは、
諏訪家が一時的に滅亡した後、武田勝頼がその名跡を継いだために頼忠殿の立場が浮いたのだ。
結果的に武田の家臣としての立場を確立しつつあった、かつての家臣である保科家へと頼忠殿は身を寄せていた。それが今現在の状況である。
今こそ諏方郡にて諏訪家を再興させるときだ。ちなみに武田家中には、勝頼殿の跡を継いで諏訪家の当主を名乗っている者はいる。それが頼忠殿の兄だというのだから厄介な話である。再興という言葉は使わない方が良いかも知れないな。
「・・・私にございますか?」
「あぁ、諏訪に領地を与えることも氏真様より了承済みである。今はその大部分を真田に任せているが、いずれ上杉の信濃領を切り取ることが出来れば諏訪家の旧領を完全に戻すことも考えている。活躍次第にはなると思うが」
俺がかつて松平の血が流れる久を迎えれたときと同じ理由である。
諏訪家と言えば信濃の諏方郡とその周辺で大きな影響力を持つ。武力という意味では無く、諏訪大社という信仰の対象として。
故にこの地は諏訪家に戻って貰った方がありがたい。未だにそれを望んでいるものがいると聞いているからな。
「ですが兄上のこともございます。武田様との関係が悪化することを私は望みません」
「だが大祝は頼忠殿なのであろう?・・・いや無理矢理はやはりよくないか」
一安心した様子の頼忠殿。だが俺はまだ諦めない。
というのも、現状義昌殿だけなのだ。完全に故郷を領地として認められているのが。
他の方々は少なからず減らされているし、望む場所を拝領出来ていない。だからこの言葉が嘘では無い証を示したいのだ。
「わかった。武田家に許しを得るように手配しよう。それでもし許しを得ることが出来れば、頼忠殿にお任せしたい」
「・・・かしこまりました」
あまり責任のある立場になることを好まぬのであろうか?顔面蒼白であったな。
だがその様子を正直殿は笑ってみておった。そういう仲であるのか?
「両名、少し残るように。あとはそうだな・・・」
俺の言葉を待つみなへ改めて視線を巡らせる。みな緊張した様子で待っていた。
「俺は相手が上杉であろうと、北条であろうと勝つつもりでいる。今川家の為、一色家の為、そして今川領内に生きる全ての者達のために。故にみなの力を借りたい。まだ頼りなく思っている者もいるであろうが、どうか今後ともよろしく頼む」
「お任せくだされ!この昌輝、必ずや政孝殿のお力になるべく奮闘いたします!」
柄にも無く昌輝殿が声を張り上げられた。するとまるでつられるかのようにあちこちから声が上がる。
昌輝殿もうまくいったと、気分よさげに笑っていた。
さて、諏訪家の事をとりあえず氏真様にお伺いだな。
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