298話 人は変わる

 大井川城 一色政孝


 1572年冬


 今川館での一件後、すぐに大井川城へと戻って来ていた。

 直盛のことを俺が斬ったことを伝えるためだ。本当であれば一度甲斐から信濃へと抜けるつもりでいたのだが、上杉が完全に撤退したというのであれば問題も無いはず。

 だからまっすぐこっちに帰ってきていた。


「二郎丸、ここに記した者達を全員俺の部屋へと集めてくれ。俺も着替え次第すぐに向かう」

「かしこまりました」

「義兼と勘吉も二郎丸を手伝え、1人では少々時間がかかろう」

「はっ」「かしこまりました!」


 3人は揃ってそれぞれの者らを呼びに城を駆け巡る。俺も汗を流した後、平服へと着替えて部屋で待つとする。

 向かった部屋にはすでに昌友が控えており、何やら言いたそうに俺の顔を見ていた。

 だがそれを今言うべきでは無いと分かっているのか、何も言わずにただ俺の支度が終わるのを待っている。


「待たせたな。俺の部屋へ」

「かしこまりました。参りましょう」

「高瀬は」

「先に部屋の外に控えさせております」

「それで良い。しかし随分と耳が早いな」

「商人らのおかげにございます。まさか駿河にてあの方の首が曝されることとなるとは。それも・・・」


 結局は我慢が出来なかったのか、この話の核となる部分に言及しようとしてきた。それは今言わずとも、すぐ後にでもみなの前で言うことだ。

 二度手間だ。そういう態度がおそらく伝わったのであろうな。結局今回も昌友は何も言わず、後ろに付き従っていた。


「お帰りなさいませ」

「帰った。城の仕事は順調か?」

「昌友様が丁寧に教えてくださいますので、まだまだ未熟にございますがいずれは・・・」

「その日が楽しみであるな。精進せよ」

「はい」


 高瀬が部屋の襖を開けてくれた。それに軽く礼を言って部屋へと入る。待っていたのは虎松のみであった。

 他の者、特に久らが過ごす部屋は少々遠い故、遅れてやってくることは仕方が無い。しかし虎松、随分と大きくなってきたな。もう直元服することを考えれば、時の流れは随分早いものだと残酷さを思い知らされる。

 しかしそう悠長なことも言っていられない。虎松にとって、直盛は伯父であり父直親の養父であるから祖父でもあるのだ。

 直盛が城ごと武田に寝返った際、虎上殿が連れ出した虎松は幼かった故、直盛のことなど覚えておらぬやもしれん。もはやこちらが故郷であるかと勘違いするほど、長い時間を大井川領で過ごしているのだ。ただそれでも、話に聞いていた直盛という同族の男が死んだとなれば、興味を惹かれぬ訳がない。

 それが例えどのような感情であったとしても。


「此度も大変な功を上げられたこと、まことに」

「虎松」

「はっ!」

「いずれは父子の関係になる間柄だ。そのような畏まった挨拶は不要である」

「・・・」

「言いたいこともあるであろう。ただもう少し待て」

「かしこまりました」


 虎松は呼び止められたときこそ驚いていたが、後はいたって冷静であった。それがどちらの感情であるからなのかが分からない。

 だが確かに言えることは、気まずい。これだけは確かだ。

 俺が一方的に思っているだけなのであろうか。それすらも今は分からない。


「お待たせいたしました」


 その後、すぐにみなが集まり始める。

 先頭で入ってきたのは久であり、その後は菊や母も続く。いつもであれば共に入ってくる侍女らは遠慮し外で待っていたが、虎上殿だけは別であった。母の背後について部屋の1番隅に腰を下ろす。

 虎松と2人の間に感じていた気まずさなど、比べものにならない。

 昌友が言ったように、この地にもすでに直盛のことは伝わっている。しかも首だけの姿となった経緯まで全て、だ。別に隠していたわけでは無かったのだが、人の噂とはとにかく足が速いのだと改めて思った。


「みなも知っているとは思うが、井伊の当主として今川を裏切り武田、北条へと逃れていた井伊直盛を俺が殺した。その後、駿河領内のとある場所にてその首を曝したことで、井伊の離反騒動に一区切りをつけることとなった。これは氏真様のお言葉である故間違いない」

「・・・ではこの子達のことは」

「今後井伊の遺児や一族の者を探し出そうとする者は減るでしょう。諦めぬ者もいるやもしれませんが」


 母は一度小さく息を吐いた。もはや我が子のように可愛がっている虎松や高瀬である。そして虎上殿の存在は、母にとってなくてはならないものとなった。

 かつてこの者らの保護を求めたときとは、少々その身に抱く感情も変わっていることであろう。

 それ故の一息。

 だが虎上殿の表情は硬いままであった。


「ただ状況は変わらぬ。前にも言ったが、もはや井伊の名は名乗れぬであろう。そのことを虎松も承知してくれたな?」

「はい。もはやその名に未練はございません。その名を名乗っていた頃は昔の事にございます。それに私自身にその記憶はございませんので」

「そうか、であれば良い。・・・その年で自分の感情に蓋をするような真似はするなよ」

「そのような気持ちはこれっぽちも抱いておりません。ただこの身は、恩のある一色家に捧げると改めてお伝えいたします。例え直盛様が殿の手で討たれたとして、それが・・・」


 そう言いかけた虎松は、虎上殿を見た。そしてその表情を見た虎松は深く頭を下げたのだ。


「配慮の足らぬ言葉にございました」

「いや、今のは俺が誘導したようなものだ。ただ虎松の覚悟はしかと伝わった。いずれは豊を頼むぞ」

「はっ!」


 しかし高瀬も呼んだのだが、明らかに虎松や虎上殿とは状況が異なる。高瀬にも井伊の血が流れているわけであるが、直盛とは何ら関係が無いのだ。

 生まれてからも信濃の塩澤で過ごしていた。大叔父上が井伊の血縁者であることを知り保護したくらいであるから、何ら思い入れも無いのであろう。それで言えば、直親殿が亡くなられたときの方がもしかすると堪えたのやもしれん。


「虎上殿」

「はい」

「今後如何されますか」


 俺の問いの意味を真っ先に理解したのはやはり母だった。久も分かったのであろうが、ただ黙って聞いている。


「政孝殿、あなたは今何を言っているのか分かっているのですか」

「分かっています。俺からすれば井伊直盛は敵にございました。氏真様を支える上で、裏切った者達を赦すことは今後も無いでしょう」


 とは言いつつ、家康を赦して貰うように立ち回ったことは矛盾である。それでも俺にとって数少ない過去の懐かしき縁をどうしても切ることが出来なかった俺の甘えであった。今ではその判断も間違っていなかったと思えるが。

 家康は三河の地で良くやってくれている。

 織田と今川の関係を良好にしているのは、間違いなく家康にも要因がある。

 話は逸れたが、あくまで俺は直盛を赦すことができなかったであろう。だが虎上殿はどうだ?

 婚約者であった直親殿から頼まれて、命からがら井伊谷より遠く離れた大井川領へとやってこられた。その後井伊が滅亡し、その身が危険であるからという理由でこの地に留まり続けた。言い方が悪かったな、俺が留まらせたのだ。

 だが果たして虎上殿は今川を裏切った父、直盛に死んで欲しいとまで思っていたのであろうか。どこかで生きていて欲しいとは考えなかったのであろうか。

 虎上殿にとってみれば、故郷を捨てる原因となったとはいえ唯一血の繋がる肉親であるのだ。

 恨まれていたとしてもおかしい話ではない。俺は虎上殿の気持ちは分からぬが、虎上殿も俺の気持ちを知ることは出来ない。

 彼女の身をこの地に縛り付けるのも、ここで一区切りとするべきだ。


「故に聞きます。虎上殿、あなたは今後どうされますか?直親殿の子であった高瀬は俺に既に仕えており、虎松も近く元服することでしょう。もう何もあなたを縛り付けるものはない」

「私は・・・」

「遠慮はいりません。ただ今の正直な気持ちを聞かせて欲しい」


 みなの視線が虎上殿に集まった。だがそれすらも気がついていないのか、ただ一心に俺の問いの答えを考えているようだ。

 そしてその状況がしばらく続いたとき、覚悟を決めたように虎上殿は顔を上げた。


「華様、申し訳ございません。かつての約束を果たせそうもありません」

「虎上、あなた何を言っているの?」

「私がこの地に残ったのは、直親様より託された虎松様を見守るためにございました。ですが直に元服されるとのこと、つまり私の役目はこれまでなのです」

「私の侍女であるという役目を投げ出すつもりなのですか?」

「私では無くとも、その役目は務まります。政孝様のお側には優秀な方々が多くおられますので」

「駄目よ!あなたの代わりには誰もならないわ!」


 母は虎上殿の手を掴もうとしたが、スッと手を引いてそれから逃れた。母にしてみればそれはきっとショックであったであろう。

 だがショックであったのは、おそらく虎上殿も同じであったのだ。母の顔を見るその表情が辛そうである。

 頬には一筋の涙が流れており、つられたのであろう久がこちらをジッと見ていた。まるで縋るような目で。

 井伊の事に関して久は基本的に介入することがない。特に虎上殿と虎松のことに関しては。

 一般的に知られているのは、井伊の離反に家康が絡んでいたと思われていたからだ。実際は桶狭間からであったから、織田に寝返ろうとしていたのだがな。久が罪悪感を感じることなど無いのだ。

 しかしそういう誤解があるからか、久は井伊家の問題に関しては声を大にして介入してこない。久の言葉であれば、俺もある程度考慮する必要があると思われるからであろう。


「政孝殿、あなたも何か言ってください!」

「・・・虎上殿、続きを言ってください」

「はい。私はこの地での役目を終えたことが確認でき次第、龍泰寺に戻ろうかと思います。その身を御仏へと捧げ、皆様を影より見守りたく」

「なるほどな」


 かつて母を説得させるために言った言葉があった。人としての幸せが全て誰かと夫婦になることではない。そう言った。

 あれはまさしく現代人の俺であるからの発想であったと思う。だが母を説得するための最後の押しとして、虎上殿もそれに便乗した。

 今も果たしてそう言えるであろうか。母はともかく虎上殿は、婚約者がいただけで結局無かったこととなった過去がある。

 今更と言われるであろうか?俺もかつては側室を持つことを良しとしなかった。久のことを、そして側室になるであろう者を不幸とまでは言わないが、幸せに出来ないと思い込んでいたからだ。

 だが今は菊とも上手くはやっている。妻としてでは無いと言われれば其所までであるのだがな?

 だから虎上殿にもせめて・・・。


「虎上殿の気持ちはよく分かった。だが俺からも提案がある」

「・・・提案にございますか?」

「あぁ、あくまで提案だ。その話をどうするかは己で決めて欲しい」

「かしこまりました。それでその提案というのは?」

「俺の側で虎松の行く末を見守らぬか?高瀬のことももちろんであるが」


 一瞬部屋の中が変な空気になる。

 昌友が最初にその意味を悟ったのか、僅かに口角を上げて顔を背ける。この固まった空気の中で1人だけ肩が揺れるほどに笑っているのだ。声を押し殺しているが、果たしてその努力に意味があるのか全く分からない。


「も、申し訳ございません。あまりに回りくどい言い方に・・・」


 また吹き出した。しかし考えてみれば、前世も含めて俺はプロポーズなどしたことが無い。

 久も菊も婚姻という話があった上での成り行きだった。改めてプロポーズなどを口にする必要など無かったのだ。

 だから初めて俺からプロポーズをしたこととなる。それを昌友は無礼にも笑ったのだ。

 一門でなかったら、昌友でなかったら無礼だとぶん殴っていたに違いない。昌友であるから我慢はするのだが。


「それはいったい・・・」

「その言葉のままの意味です。かつては誰かと婚姻関係になることだけが幸せで無いと言いました。あの時は確かにあれが本心であったのです。そして虎上殿もそうであったのでしょう。ですが子が出来、菊を迎えて随分と時間も経ち、考えも変わりました。虎上殿はかつての俺のように知らぬことをはね除けようとしている。俺とあなたは元来似ているのですよ」

「ですが・・・、私は随分と年を取りました。子を成せぬやもしれません」

「それでも構いません。それに今となっては虎松が子のようなものでしょう」

「・・・朝比奈様にご忠言頂いたのでございませんか?井伊の血を残す真似は危険であると」

「それはまぁ・・・」


 俺は一度昌友をチラッと見た。昌友は俺が言わんとしていることがわかったのか、小さく頷く。


「言わねばわからぬ事であろう。そもそも虎上殿の容姿を知っている者はそう多くは無い。さらに還俗後は城から出ておらぬし、気付く者も今更おらぬであろう。ただ久や菊に比べると少々息が詰まることもあるかもしれぬが」

「もしくは殿が保護している商人の娘であるとでも言えばよろしいかと。私のこともございますので、側室としてであれば何らおかしなことではございません」

「ですが・・・」


 母は勝ちを確信したのか、先ほどの必死さはどこへやら。高瀬も虎松も嬉しそうに、この一連の様子を見ていた。

 ただ困惑しているのは虎上殿のみだ。


「先に言っておくがやはり公には出来ぬ。盛大に祝うことも出来ぬやもしれん。それでも俺は虎上殿も含めて、みなを守りたい。その気持ちはあの時から全く変わっていない。ただ考え方が変わって、それに合わせて手段が変わっただけであろうな」

「ほ、んとうに、よろしいのでしょうか?」

「構わぬ。虎上殿は俺では駄目であろうか?直親殿は顔が良かったからな、俺では不満やもしれんが・・・」

「そのようなことはございません!ただ私の方が・・・」


 虎上殿はそれ以降黙ってしまった。やはり直親殿の名を出したことが失敗だったか?

 しかし久は僅かに首を振った。何故こうも俺の周りにいる者たちは俺の感情が読めるのか、そして久は、


「僅かに時間を頂きとうございます。虎上殿、私と共に少し話をしませんか?」

「お方様?」

「いいから」


 そう言って虎上殿の手を引いて出て行ってしまった。

 残されたのは、俺に強烈に突き刺さる視線だけだった。居心地が悪すぎる。

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