297話 あの日の真実、そして決別

 今川館 一色政孝


 1572年冬


 部屋から出た俺達を待っていたのは、信置殿とその部下と思わしき数人の兵達。みな武装したままの姿で、氏真様を待っていた。

 そしてその真ん中で縄をかけられて俯いている男が1人。顔が一切見えないために、誰を捕らえたというのか全く分からない。故に俺は信置殿に視線を送った。


「このような姿で申し訳ございませぬ。ですが重要な事にございましたので、こうして参った次第にございます」

「それは良い。それで信置よ、その男の顔を麻呂へと見せよ」

「かしこまりました。お前達」


 信置殿より合図を受けた兵達は、俯く男の側に立って頭を掴み上げる。小さなうめき声とともに顔を上げたその者の正体。

 一瞬顔の傷や、潜伏期間中に被った汚れで誰かの判別が付かなかった。だがよく見てみれば分かる。

 俺はその男のことをかつて何度か目にしたことがあるのだから。


「直盛、生きておったのか」

「・・・」


 氏真様の言葉に何も反応を示さない。だがその表情にあるのは、捕らえられた絶望などでは無かった。

 言うなれば強烈な恨み、であろうか。


「政孝、我が娘は元気でやっているか」

「直親殿に託されたのだ、無下な扱いなど出来るはずがない」


 俺の言葉に僅かに対して動揺したのは信置殿とその配下の方のみ。氏真様も泰朝殿も知っている。

 それは虎上殿の事だけでは無く、井伊家の嫡子としての立場を持つ虎松すらも匿っていることを。まさかほとんどが知っているなどと思わなかったのであろう。

 直盛は面白くなさげに舌打ちをした。


「娘に手を出さぬのか、我が娘ながら良い女であると親の俺ですら思うのだがな。いや、井伊の血など残せぬか?」

「虎松次第、だがいずれは我が娘を嫁がせる気でいる。それくらい虎松は将来を期待出来る。お前と違ってな」


 そう言うと直盛は盛大に吹き出した。そして笑うのだ。

 己が捕らわれていることを感じさせぬほどに、それは豪快にな。そんな姿を不快げに見守るは泰朝殿であった。


「随分大きくなったではないか。政文殿も草葉の陰で喜んでおろう。いゃ、そうでも無いか?」

「何が言いたい」

「いや、井伊の血を残すように立ち振る舞うおぬしの姿を見て、嘆き悲しんでおるやもしれんな」

「関係ない。もう虎松は井伊の名を語らぬし、語らせぬ。お前がそこまで遠江における井伊の名を汚したのだ。その重荷を虎松にまで背負わせるつもりは毛頭無い」


 泰朝殿にも言われたが、井伊の名はもう一生名乗ることが出来ないだろう。いつまで経っても井伊の離反、そしてその後に続いた武田との戦は風化しようのないものとなったのだ。

 武田も信玄から義信、そして勝頼へと代替わりし、これまでの信玄の行いに対して疑問の声も上がり始めているという。本人が甲斐より離れ、残った者たちがある程度好き勝手言えるのであろうが、それでも甲斐武田氏をあそこまで弱らせた信玄の対外政策に疑問の声は上がっているのだ。

 そして井伊家の離反騒ぎからの武田包囲網結成は、今の武田家としても苦き思い出となっている。井伊の存在は今川からも、そして今川に臣従する武田からも認められぬということになる。


「であるとしても、だ。虎松には井伊の血が確かに流れている。この俺と同じ血がな。名を語らせぬからと言って、そうそう消せぬものであるぞ。それほどまでに厄介な代物よ」

「そうか」

「それに俺が言いたかったことはそういうことでは無い。あの戦で、唯一、唯一政文のみが気付いていた」

「あの戦?」

「桶狭間での戦の事よ」


 その言葉に誰も彼もが眉間に皺を寄せる。まさか今になって桶狭間の話をされるとは誰も思っていなかったのであろう。

 そして不穏な物言いに、この場は緊張した雰囲気に包まれる。


織田おだ秀敏ひでとしという男を知っているか?」

「織田秀敏・・・、確か織田様の大叔父にあたる御方でございませんか?桶狭間での戦の際、鷲津砦の守将を任されていたと思いますが・・・」

「そうだ、俺と泰朝殿で攻めたあの砦を守っていた男のことだ。俺はあいつにこちらの情報を逐一流していたのだ。だから信長は今川本陣の位置を正確に把握出来ていた。だから雨に乗じて、あれほどまでに視界が悪い中で的確な奇襲を成功させた。そのまま俺は勝ち馬に乗るつもりであったのだがな・・・」


 言葉尻が弱まっていく。そして憎しみの視線を泰朝殿に向けた。


「俺の言葉に従わず、お前があの砦を攻め続けた。おかげで砦は落ち、秀敏はその行方をくらましてしまった。俺は勝ち馬に乗るつもりが、ただ負け戦のために己の身を削っていたのだ」

「あなたは何を言っているのかわかっているのですか!?」


 泰朝殿の強い非難に、直盛はとくだん表情を変えずに頷いた。


「当然。義元は東海だけでは満足いかず、上洛というあまりにも現実味のない夢まで語り始めた。我らのような領主からすれば、そのような言葉に付いていくほどの余裕は無い。故に今川の支配を終わらせようとしたのだ。あれは遠江の領主、それに三河の領主達の望むものであった。松平は独立したであろう。飯尾も、それに一門衆である鵜殿も関口もな。俺が行動を起こしたが故に、俺だけの意思であるように見えるが実際は誰もが望んでいたことだ。今川の支配はもううんざりだとな」


 初めて知った。桶狭間での信長によるあまりに鮮やかすぎる勝ちの真相を。

 何故多くの者があの戦で死ななければならなかったのか、父は何故死ななければならなかったのか。

 あの時は覚悟をしていたが、今こうして父の、義元公の、多くの今川家臣の方々の死の真相を聞いて、沸々と湧き上がってくる感情があった。


「直盛、もう良い。言いたいことはそれだけか」

「本当はもっとある。あなた様にも政孝にも泰朝にも・・・、そして俺の命に従わず勝手に騒ぎを起こしてくれた氏元にも」

「・・・やはり氏元の離反は北条の望むもので無かったのか」

「当然だ!知っているであろう、今の北条の状況を!今騒ぎを起こしても誰も助けにはいけぬしただの犬死にであると何度も申した!だが彼奴は、武田のひよっこに葛山を奪われることを我慢することが出来なかったのだ!氏政は今川を崩すための調略を命じていた俺に全ての責を負わせて援軍として派兵した。鎌倉公方である足利義氏の家臣達は氏政のやりように否定的であり、その者達に鎌倉が脅かされると言いくるめて私に付けたのだ。僅かな兵だけをつけてな」


 憎しみの感情が漏れ出ている。氏政は形だけの援軍を送ることで要請に応えるフリをした。結果離反した氏元を救えなかったのは、援軍を指揮したものの力不足であると見せることが出来れば、北条は周辺国の領主達の前で最低限の信頼を守ることが出来る。


「湯坂城は今川と北条の最前線であり、重要な城の1つ。当然援軍が大挙して押し寄せることなど分かっておった上に、あのような寡兵では勝てる戦すらも負け戦にしているようなもの。つまりは俺も氏元同様に使い捨てられたのだ。今川との戦ではそれなりに駆け回ったはずなのだがな」

「もう満足であるか」

「・・・俺はまだ死ねぬ。あの地で死んだ者達の分まで生きると決めたのだ!」


 兵に押さえ込まれている直盛は、それでもなおジタバタと暴れている。


「往生際が悪かろう。最早この地より逃すことは無い」


 氏真様は、側に控える小姓が持つ刀を抜かれた。


「よろしいでしょうか」

「・・・助命など申すつもりではあるまいな」

「そうではございません。このような者に、殿の刀を汚すまでもございません。その役目、私に任せてはいただけませんでしょうか」

「わかった。政孝よ、直盛を斬れ」

「かしこまりました。ですが1つだけお願いしたきことがございます」


 俺が言葉を発す前に、氏真様は頷かれた。もはや何をしても許されるということであろう。


「信置殿、直盛の縄を解いていただきたい」

「な・・・、何を申される」

「先ほどの話を聞かれていたはず。私はこの手で井伊との縁を切らねばならぬのです」


 腰に差していた刀を鞘ごと抜き取り、直盛の目の前に置いた。


「刀の腕で俺に勝てると?随分と舐められたものだ」

「いつまでも過去に縛られし貴様に負けることなどあり得ない。俺を殺すことが出来れば、この場から逃げれば良い」

「本当に良いのか?もし勝てばこのままここにいる者を全員殺して逃げることになるのだぞ」

「俺を殺すことが出来るのであればな。信置殿、その刀を貸していただけませ」


 そう言いかけたところで、背後にいらっしゃる氏真様が俺の肩を叩かれた。


「政孝よ、これを使うのだ。麻呂の刀ではないので安心して使うが良い」

「はっ、ですがこれは・・・」

「その話は直盛を斬った後に話すとしよう。故に必ず斬れ」

「かしこまりました」


 氏真様より預かりし刀を、鞘より抜ききった。

 煌めくその刀身は、あれから随分と経っているにもかかわらず汚れ1つ付いている様子は無かった。

 きっと手入れがしっかりとされていた証であろう。


「ふむ、これは村正であるな。よいな、まるで使ったことが無いような代物である」


 兵らは緊張した面持ちで縄を解き、万が一に備えて出入り口を固める。それをチラッと直盛が確認したが、すぐに俺に向き直って刀を抜いた。

 俺の刀をじっくりと眺め、そして俺に対して構える。


「言っていろ。そのように裏切りに裏切りを重ね、目の曇りきったお前に負ける気は更々無い」


 俺もまた正面に刀を構えて直盛の動きを待つ。

 これは真剣だ。かつて幼かった頃の家康と稽古でしていた1対1は木刀であった。擦り傷や打撲こそすれど死ぬようなことは無かった。

 今はたった一太刀浴びただけで死ぬ可能性は十分にある。全ての攻撃に対して妥協無く、全てを躱さなければならない。もしくは・・・。


「かかってこぬのか?それとも怖くて足が踏み出せぬか?」

「そのようなわけあるまい。これでようやく虎松が救われると思っておったのだ」

「真剣で向かい合う場で、意味の無いことに思考を巡らせるなど愚の骨頂。その身を一刀にて切り伏せてやるわ!」


 直盛の強く踏み込んだ一撃。たしかに鋭い太刀筋ではあるが、見切れないほどでは無い。

 まっすぐに振り抜かれる刀を僅かに身体を傾けて躱した。そしてそのまま懐に潜り込んでの一閃。横向きに払った刀は、何の抵抗を受けること無く振り抜くことに成功した。

 抵抗では無いが、確かに何かを斬った感触は手に残っている。


「見事である、政孝よ」


 氏真様の言葉と同時に、背後より直盛が崩れ落ちる音がした。兵らは慌てて直盛にかけより生死のほどを確認する。


「殿」

「うむ。見事にございました、政孝殿」

「いえ、それほどのことにはございません。ただ刀に迷いのある者には負けぬということに御座います」


 直盛の血を振り払い、側にいた氏真様の小姓が渡してくれた紙で血を拭き取る。そしてそれを鞘に収めて氏真様にお返しした。

 そう、この刀。義元公が死の間際までその身に纏い、討ち死にされた後は信長の元へと戦利品として接収されていたはずの『左文字さもんじ』。かつて見たものよりも短くなっているのは、信長が扱いやすいように削ったのであろう。

 いつの間に今川へと返ってきていたのかは不明であるが、よいものを使わせて貰った。


「その者の首を落とし、城下へを曝すのだ。これにて井伊の一件は全て終わりとする。よいな、信置」

「かしこまりました。これまでに聞いたこと、全て公言いたしませぬ。またこの者達にも強く言い聞かせておきます」

「それで良い。そうだな、政孝」

「ご配慮感謝いたします」

「その方ら、この者をこの場から片せ」


 兵らが直盛の骸を庭より外へと連れ出した。しかし庭が血で汚れてしまった。ここは氏真様の私室の目の前であるというのに。


「空いた部屋はある。寝る場所に関してはどうにでもなる。市でも春でも事情を話せばな。しばらくはここも使えぬが、気にするほどでも無いぞ」

「はっ、ですが申し訳ございませぬ」

「政孝が斬らずとも、どうせ麻呂が斬っておった。何ら変わらぬ」


 それ以上謝罪するのは野暮というものであろう。本当は場所を変えるべきであったと、正直に言えば後悔の念は尽きぬ。

 だがこれで井伊との因縁も終わりを迎えることが出来たであろうか。直親殿の無念も晴らせたであろうか。

 だが虎上殿には何と言うべきか・・・。いくら城から逃げ延びてきたとはいえ、実父を斬ったのが匿っている俺だというのだから何ともな。

 しかし言わねばならぬ。戻れば早速伝えるとしようか。




 ※織田秀敏・・・今作は『重修譜』の記載を採用。織田信長の祖父である織田信定の末弟。織田信長の大叔父。

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