296話 不可解な離反
今川館 一色政孝
1572年冬
箱根山で起きた一連の戦は、俺達が援軍に向かった頃には全て終わっていた。湯坂城を攻めるべく動いたと思われていた北条も、重治が背後を突く前にすでに崩壊していたという。
氏詮殿の話では、城を攻めるにはあまりに兵が少なかったのだと言っていた。氏元の離反のタイミングといい、北条の動きは一貫してメチャクチャではあった。これはずっと思っていたことだ。
だが上杉が信濃に向けて動いたことで、その囮だったのではないかと考えを改めて、急ぎ今川館へと戻って来たのだ。
しかしここに来てやはり引っかかりを覚えた。
葛山家が有している領地は、北条が上杉の拡大のために捨てても良いような場所では無い。北条にとって葛山は東海進出するために重要な地域なのだ。それは過去も今も変わらない。
特に伊豆全域を今川へ割譲してからは、さらに氏元の利用価値は高かったはず。しかしここで半ば切り捨てるような形を取った。
「政孝、そなたは此度の戦如何思っておる」
「何もかもが違和感にございます。北条の狙いが全く分かりませぬ」
「麻呂も同じである。氏元が離反しようとしていたのは以前より分かっておったが、何故今である必要があった。そう考えておったのだがな」
「何か心当たりが?」
「連龍の離反の時も同じ事を思わなかったか?政孝はあの時、家康の動きを知っておったのであろう?」
連龍・・・。引馬城に籠もって、今川から松平に鞍替えしようとした飯尾連龍の話か。
また随分と懐かしい話を。
「ハッキリと思い出しました。確かにあの時、久を迎えるべく家康と何度か話を交わしておりました。その中で、家康が遠江の情勢に関与できぬことを知っておりましたが・・・」
そういえばあの一件、前年が凶作で米の備蓄が少ない上に米の値が尋常でないほどあがった時に離反を決意したはず。状況を理解出来ていれば、あのような時期に立ち上がろうなどとしなかったはずだ。結果として食料不足と、家康からの援軍が無いことを知った城内で降伏派と籠城継続派で意見が真っ二つになり、俺が栄衆を用いて降伏派に接近し開城させたのであった。
「鵜殿長持のあれにございますか?」
「その通り。長持の屋敷や椿が残した文には、奴が連龍に対して離反を催促するような言葉がいくつもあった。あれに背中を押されたのかわからぬが、結果としてまったく理解出来ぬ時期にあの騒動を連龍は起こしたのだ。家康からすれば、引馬城は当時欲しかった城の1つであったはず。遠江や三河の東部を抑える上ではな」
「家康が動かぬよう一応釘は刺しておきましたが、元より家康に動く気は無かったように思います。むしろ家康からすれば孤立無援の状況で騒ぎを起こした連龍に対して困惑したはず」
「此度の北条も同じであったのでは無いか?里見と戦をし、北関東の大名らが不穏な動きをしている。そのような中で、氏元が離反の騒ぎを起こした上に援軍など要請されれば、氏政からすれば迷惑だと感じたのではないか?」
「ですが要請を無視すれば、今後の調略などに悪い影響を与えることとなりましょう。故に気持ち程度に援軍を出した。苦渋の決断の末、葛山領という要地を捨てたと?」
「麻呂はそう考えた。政孝は如何思う」
確かにその可能性は考えなかった。葛山領を捨てる、か。これまでの北条の方針からは到底あり得ぬ選択ではあるが、そうしなければならない状況に追い込まれたということだろう。
何度も言うが、伊豆が今川の手に落ちた。北条と今川の関係上、伊豆全域が今川の支配地域になったことは一度も無い。だから前例のない状況に様々な状況が重なって、もはや予測出来ないことが起きている。あり得ない話ではない、か。
「なるほど。今の考えが1番私を納得させられました」
「ならば良かった。随分と迷っていたようであるからな。麻呂に上杉領へ侵攻しないように進言したことを悔いているのかと思ったぞ」
「・・・」
見透かされていた。俺が黙ったことを氏真様は笑われた。
「最後に決断したのは麻呂である。たしかに政孝や他の者らの考えも聞いた上での決断ではあったが、決してお前達の言いなりになったわけでは無いぞ。上杉の噂を噂として判断したのは麻呂よ。そう気にするでない。それに信濃は無事である」
「無事・・・、というと?」
「先ほど氏俊より報せがあった。攻め寄せてきた上杉方は全軍今川領より撤退した。背後で不穏な動きがあったようである、見事であるぞ政孝」
氏真様はまた機嫌よさげに笑われた。しかしやはり上杉は一枚岩では無い。
このように我らが隙を見せたときですら纏まれないのだ。いゃ当然か。上杉の主力は今越中にいる。その中には政虎の腹心も多くいて、歴戦の将もそちらに多い。
対して景虎に従う者達は、政虎による能力を重視した統治によりなかなか認められなかった者達が多い。もちろん中には優秀な者も多少いるようであるがな。
あとは家中での領地の境界線争いなど色々だ。これに関しては揚北衆のことを指しているわけだが。
「ありがたきお言葉にございます。ですが1番は、殿より城を預かった方々が奮闘した結果でありましょう」
「裏で動いていたのであろう?氏俊より聞いているぞ」
「そのこともご存じであられましたか。実は少々、ですがそれも商人達が命の危険を顧みず、やってくれたことにございます。私はただ命を出しただけ。ですのでそのお言葉は私では無く、商人達にかけていただけるとみなも喜ぶと思うのですが・・・」
「そうか、ではそうさせて貰うとしよう。戦が落ち着けば、みなを集めて労いの宴をする。その際には商人らも呼ぶが良い。麻呂がもてなす」
「よろしいのですか?」
「良い。これまで何度も麻呂らを支えてくれておるのだ。その者達も含めて麻呂が労いたいのだ」
庄兵衛が現役であれば1番喜んでやって来るであろうが、今は喜八郎か。
未だに遠慮されているようであるからな。もう少し距離を縮めてくれなければ、本心が聞けぬのだがな。それで言うのであれば熊吉も同様か。
そちらは兵助に任せるとして・・・。
いやそうでは無かったな。
「かしこまりました。ではそのように伝えておきましょう、きっとみな喜ぶはずです」
「であれば良い。直に・・・」
氏真様がそう言いかけたとき、誰かが走ってくる音が聞こえた。さらに外の庭の方にも人が入ってくる気配がある。
「殿!突然の入室失礼いたします。城より落ち延びた氏元を捜索していた信置殿が、とある者を捕らえました。・・・政孝殿も外へ」
「・・・わかりました。さっ、殿」
「うむ」
何故泰朝殿は一瞬俺を見たのだ。
いったい誰を捕らえたというのか、その人物が少なからず俺に関係があると?
心臓の鼓動が早くなる中、俺は氏真様や泰朝殿に従って外へ出たのだった。
富山城 上杉顕景
1572年冬
「政虎様のご容体、未だ優れぬとのこと。そのような状況で景虎殿があのような暴挙に出た挙げ句、さらに何の成果も得ること無く撤退するとは」
「兼豊、報告ご苦労であった」
「はっ。それと殿のお側におられる方々は、景虎殿の動きに不信感を抱かれております。いや、もちろんそれは当然なのでございますが・・・」
「であろうな。しかし今は景虎を相手取るわけにはいかぬ」
兼豊には少数であるが兵を預けて、政虎様が襲撃されたという地を見に行かせた。その後は春日山城へと向かわせ、政虎様のご容体を確認して貰った。
その時である。景虎の不審な動きを知ったのは。
だが政虎様より越中の平定、椎名家の救援を命じられた私はこの地を動くわけにはいかぬ。
「神保が率いている加賀の一向宗は、織田様に対して強い憎しみを抱いております。それが此度非常に強い力となり我らに襲いかかっております」
「ふむ・・・。長親よ、このまま南に兵を率いて織田殿と合流せよ。その間にある神保の城、および一向宗に占領されている村は全て攻略せよ。必要な分だけ人を連れて行っても構わぬ」
「かしこまりました。では元より越中にいる者達を借り受けさせていただきます」
「それで足りるのであればよい。景綱、その方は揚北衆を連れて越後へ戻るのだ。景虎に従った後、独立騒ぎを起こしている者達を討て」
此度私と共に越中に入った者の内、揚北衆に含まれるのは
万全な状況で戦っている故に、我らはどうにか勝てているのだ。
「ではそのように。実は治長殿でございますが、
「頼むぞ。それと・・・」
「顕景様?」
「これは景綱であるから言えるのだ。他言無用で頼みたい」
「かしこまりました。それで話とは?」
「政虎様のお側におられる方で、私に力を貸してくださる方を探って欲しい。万が一のとき、私の味方になってくれる方を今の内に把握しておきたい」
「・・・かしこまりました。探っておきましょう」
これまで政虎様より受けてきた恩をまるで忘れてしまったのかと、自己嫌悪に陥る。だが景虎は私のそんな感情すらも超えて、自らの野望のために邁進しているのだ。
私がここで立ち止まれば、私を支えて来てくれた者達に申し訳が立たぬ。なんとしても後継者争いに勝たねば。でなければ越後は再び争いの中に身を置くこととなってしまうであろう。
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