290話 乾杯
相模国福浦館 一色政孝
1571年冬
信長が比叡山を焼いた。勧告無しに行われた焼き討ちは、多くの民や延暦寺の関係者を焼き尽くしたという。
もちろんこの悪魔的所業には多くの者達が批判の声を上げた。本願寺はもちろんのこと、幕府や西国の大名らは軒並み信長批判を繰り返し、挙げ句の果てには連合を組んで挙兵する一歩手前までいったのだ。
また能登平定のために兵をおこす予定であった朝倉義景は、背後が気がかりであることを理由に出兵を取りやめた。幕府もある程度の理解はしているようだが、問題は意気揚々と能登へ向かうつもりでいた
だが実際織田が敦賀へ攻めかかったのだから、義景の判断は間違っていなかったということだ。秀吉によって落とされたらしいがな。
そしてもう1人、信長を痛烈に批判した男がいる。近江観音寺城にて上洛の時を待ちわびている義秋。しかしそれに対して信長は特に行動を越していないのだという。まったく相手にしていないというわけだ。
「これで朝倉は越前にて孤立しました」
「上杉も幕府より能登出兵の要請を受けていたと聞いているが・・・」
かつて打倒北条のために政虎と手を組んだことのある晴朝殿は、心配げに語っていた。
この男、実はとんでもなく苦労人なのだ。
結城家と小山家、上杉家と北条家に挟まれて望まぬ戦を何度もしている。共に今川に逃れてきた実父小山高朝殿とも、実は幾度にも敵同士となり戦をしているのだ。
だからなのか、異常なほど心の痛みに敏感である。戦国大名としては珍しいタイプの人間だ。
「上杉も難しい立場。関東管領職は山内上杉家の嫡流に返還されるのだから、幕府にそこまでこだわらずとも良いとは思うがな」
「政孝殿は上杉に赴いたことがあると聞いておりますが」
「その通り。武田との戦に関する約定を結びに行きました。ただ正直言えば、その時より上杉には脆さを感じていたのです」
「脆さ?」
「確かに上杉家の当主である政虎は強い。戦に関することでいえば天賦の才を持つのでありましょう。毘沙門天の化身とまで言われるのも納得出来ます。家臣らはその姿を側で見ているが故に従っている。ですがこと内政に関しては少々事情が異なった」
上杉が大名としての形を維持しているのは、政虎の戦における強さと優秀な家臣による内政のバランスがあるからだ。
もしこの優秀な家臣らが分裂すればどうなる?もし悪意を持って政虎に提言すればどうなる?
瞬く間にこれまで保ってきたバランスが崩れ、上杉は三好同様の悲劇を生むこととなるだろう。
「知っておりますか?北条の人間が上杉に入ったことを」
「えぇ、たしか氏政が同盟締結直前に駄々をこねて弟である三郎が越後に向かったと」
「その通り。三郎は景虎の名を与えられ、順調にその立場を家中で確立しつつある。本来であればただの人質であったはずであるのに」
「上杉はこのまま北条の手の者へと変えられるということで?」
「対抗出来る者は一応いる。その者が台頭してくれば、今川も首の皮一枚残すことが出来るかもしれない。我らの敵はどう考えても北条でありましょうから」
「なるほど・・・」
晴朝殿は酒を飲みながら俺の話を聞いていた。
ちなみにここは城が完成するまでの間、政務を行うための館である。昌秋が別室に控えており、他にも房介や信綱が今も政務に勤しんでいる。
そんな中、俺達はのんびりと海を見ながら酒を飲んでいた。ただ全く酒を美味く感じない話をしているわけだが。
「そういえば父が出家されるようにございます。何年も前から兄が小山家の全権を譲られておりましたが、やはり父の影響力は非常に大きくいつまでも家臣達が遠慮をしていたと」
「では今後、小山家は秀綱殿の元で1つになるということに御座いますか」
「えぇ、父もこれでようやく一息つくことが出来ましょう。城を落とされたときは、生気を失っているようでしたので。今後は命察と名乗り、氏真様のお側に仕えると申しておりました」
「わかりました。今後は私もお世話になることがありそうにございますね。その際にはどうかお手柔らかにとお伝えください」
小山高朝は勇将として知られる。かつては結城のために、またかつては小山のために大軍相手に戦をしていたと聞いている。
北条や上杉とも戦った経験があるほどだ。だからこそその身を退くことは惜しいと思うが、60を超えたご老体に無茶は言えぬ。
今後は今川館にて出会うことになりそうだ。
「そんな北条は里見の征伐にございますか。名目は関東公方を僭称する小弓公方の討伐」
「しかしその実体は千葉家の旧領奪還、ですか。しかし当の千葉家は佐竹へと逃れたと聞いていますが」
「佐竹は北条との手切れを考えているとの噂が北関東一帯で流れておりました。またそれには宇都宮や千葉家も同調していると」
「関東同盟もようやく終わりを迎えるか。これは里見に取ってみれば間違いなく追い風となりましょう」
「その代わりこちらは静かなものです。北条が我らを刺激せぬようにと兵を増やしておらぬと誰かが言っておりました」
ある意味挑発のようにも思えるが、な。攻められるものならば攻めてみよ、と。たしかに今の俺達は東に向かう北条に釣られて動くわけにはいかない。
動くときは信濃とともにだ。
でなければ今川領の中身がスカスカとなる。北条領で押すことが出来ても、上杉に押し込まれたらこちらは終わり。
相手が多数・多方面にある場合は、如何に押し込まれないかが重要であるのだ。
だから信濃では防御の備えを整えている。
「次の戦は、政虎が越中へと兵を向けたとき。それこそが北条攻めの好機でしょうな」
「ならば直に戦でしょう。帰って支度でも進めましょうか」
「そうですね。それが良いかも知れません」
とは言っても今は夜。晴朝殿が帰るのは早くても明日となるだろう。
「殿、お客様にございます」
「客?今は晴朝殿がおられるのだ、今で無ければならぬか?」
二郎丸は困惑したように背後に目を向けた。
俺が誰であろうか確認しようとしたところで、突如として襖が開く。
「いきなりの訪問申し訳ない。我らの水軍を移動させていたところ、何やら政孝殿がこちらに参られていると聞いたのだ」
「嘉隆殿にございましたか」
厳ついひげ面の男が入ってきた。
晴朝殿は初顔合わせである。あまりの態度のでかさに、身体が一瞬だけ引けた。
「こちら神高島を任されている九鬼澄隆殿の叔父である嘉隆殿です。そしてこちらは関東よりやってこられた結城晴朝殿です」
「関東からの将が殿に仕えたと聞いていたが、結城家の人間であったとは。それにしても政孝殿は随分とよく口添えを頼まれる」
「偶然ですよ。私は何もしていない」
九鬼家は偶然助けを求めた船が一色保護下の船だっただけ。
藤孝殿は氏真様の命で俺と縁を持ったため。
真田家は・・・、まぁ邪な気持ちがあった。それは認めよう。
だが結城家と小山家は重治が自らの判断で連れ帰ってきただけであり、基本的に俺の関与は無いも同然だ。
「まぁ良いか。それよりも最近良い酒が入ったのだ。飲まぬか?」
瓢箪のような物を揺らすと、確かに中から水の音が聞こえた。なんでも澄隆殿に娘が生まれたときに祝いの品を用意したら、その礼だと酒を貰ったのだそうだ。
それが尋常でなく美味いようで、必ずどこかに出るときは瓢箪に入れて持ち歩いていると言われていた。
「よろしいのですか、我らが飲んでも」
「美味いものは分け合わねば、この感動を共有出来ぬ。そうであろう?」
二郎丸が慌ててお猪口を持ってきて、それになみなみと注がれる。
「それでは乾杯するとしよう」
「何に乾杯されますか?」
俺の問いに嘉隆殿は考えられた。その様子を俺と晴朝殿で見守る。
「新たな友との出会いに乾杯だ。どうであろう?」
お猪口を掲げた嘉隆殿。それを一瞬の間の後、晴朝殿が微かに笑って同様に掲げる。
俺もまたそんな2人を見ながらお猪口を2人のものへとあてる。小さく鳴った乾杯の響きは、俺達の出会いを確かに祝福しているのだと思った。
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