272話 最悪の負け戦
相模国真鶴半島 一色政孝
1570年秋
「殿!近藤様、鈴木様が確保した港へと撤退されました!」
「半島部制圧に動かれていた朝比奈様と小笠原様も、制圧には至らずジリジリと後退されている様子にございます」
時忠と頼安がほとんど同時に俺の元へと駆け込んできた。もたらされる報せは悪いものばかり。
味方の敗走による戦線の瓦解、そして後退。これはいよいよこの真鶴半島からの撤退を視野に入れなければならない状況になってしまった。
「最悪だな」
「まさかこの地にあれほど大規模な陣が張ってあったとは・・・」
道房の言うとおり。俺達は伊豆水軍の残党と思わしき者たちを打ち払うと、容易にこの地に上陸を果たす事に成功する。
だが問題はそこからだった。
家康率いる陽動隊を叩くために出陣した北条のおそらく本隊と思わしき部隊の背後には、当然の如く兵站を維持する役目を持つ隊が控えていた。
そやつらは、この地よりやや内陸にある土肥城に詰めていたらしく、警戒していた敵兵に見つかってしまったのだ。
そしてさらに最悪であったのは、この周辺には烽火台が小田原方面に向けて無数に建ててあったこと。
つまり俺達の奇襲上陸は、敵兵に発見された後すぐさま小田原の北条氏政に伝わってしまったこととなる。
それから数日でこの有様だ。
際限なく小田原方面より敵の援軍が送り込まれてくる始末。撤退も考えたくなるだろう。
「我らもこれ以上は持ちませぬ。港を確保している内に、御味方と共に河津まで下がりましょう」
「その通りにございます。このままでは本当に退路を断たれてしまいます」
佐助や時忠の言葉も尤もであるが、何が1番最悪であるかというと幸か不幸か敵方の目には俺達が本隊であると思われている点に尽きるのだ。
敵将には地黄八幡で恐れられる北条綱成に、氏政の弟である北条氏照、そして御由緒六家の一角である大道寺政繁とまさにそろい踏みといった有様。
つまり奴らは未だ今川本隊の所在に勘づいていないということになる。しかし氏真様は進士ヶ城を落とした際に、敵将を取り逃がしたと伝えられた。よほど慌てて城を捨てたのであろうか?
規模すらも確認していなかったと?
「殿、どうかご決断を!」
道房の声で我に返った。今はこちらのことに集中しなくては敵の勢いに呑まれてしまう。考えるのは生き残ることに成功した後だ。
「福浦まで退く。以降はそれから考える」
「かしこまりました!全軍撤退の支度を進めます」
道房や佐助、そして景里は一色兵の撤退を進めるべく外へかけだしていった。また俺達に付き従い、この地で奮闘してくれていた方々への撤退命令は時忠が使番の支度をさせることで伝える。
とにかく迅速に、そして敵をおびき寄せながら退くことが重要だ。そして少しでも北側から目を逸らさせる。
しばらくすると撤退の支度が完了したことが告げられた。
俺達はここまで占領した土地を惜しむことなく一気に撤退を開始する。わずかな欲が俺達を殺す。そう言い聞かせての撤退。
「奴ら、やはり俺達を本隊と勘違いしているようだ!急ぎ港に戻れ、あの地は水軍衆が維持してくれているはずであるから安全だ」
「退けー!退けー!」
「手柄などと思わず駆けるのだ!!」
あちらこちらで決死の撤退が行われる。俺も頼安ら馬廻りを側に置き、安全をある程度覚悟しながら昼夜を問わずに馬を走らせた。
すでに数日はこれの繰り返し。本来であれば、要所要所に馬を置いておくべきだったが奇襲上陸を繰り返し、すでに何ヶ月も戦場にいる俺達にそのような余裕はなかった。
愛馬を手放すことなく、俺達は港にまで駆ける。
「もう走れませぬ・・・」
「我らを置いて先に・・・」
あちこちで弱音を吐く声が聞こえた。大軍での移動は敵の目を引きやすい。故に少数の部隊に分けて港を目指しているのだが、身を隠しながら休憩している最中にはそのような声も絶えなくなってくる。
叱咤したところで、一色の兵達にとっては桶狭間以降の大敗北なのだ。
特に若い者たちにとってみれば未知の状況であることに間違いは無い。俺もまたこのような撤退戦は初めてである。
だがそれでも俺が弱音を吐くことは許されぬのだ。
最後まで走らねば・・・。
無我夢中で何日も走った。正直に言えば、今どの辺りにいるのかも最早曖昧な状況である。現地の民に聞くことが出来れば良いのだが、石室神社と違ってこの地は北条支配の影響は非常に大きく、声をかけることすらもリスク。
だからわずかな情報を頼りに俺達は走った。そんな俺達は最後落人に案内されて福浦の海を眺めることに成功する。
「ご無事で何よりにございます。あとは朝比奈信置らが戻ればすぐさま撤退出来るよう事は進んでおります」
落人も俺達の行方を捜すため、数日山中を駆け回ったらしい。
だがここまで帰ってきたのは、撤退のための保険を作るため。まだ俺達に退くことは出来ない。
「上陸時に建てた陣にみなを集めよ」
「殿?」
「急げ時忠、あまり時間は無いぞ!」
「は、はっ!かしこまりました」
思った以上に冷たい声が出たことに、俺自身驚きを隠せない。言ってしまえば元は不幸から始まったことだ。だがしっかりと調べておけば、真鶴半島に無理矢理上陸する策は立てなかったはず。
甚大な被害報告を現状聞いてはいないが、それでも別働隊を窮地に陥れたことに間違いは無かった。あまり表には出さないようにしていたつもりが、時忠に当たってしまったか。
本当に最悪だな・・・。
「殿、まだ戦は終わっておりませぬ。そうやって戦場で油断されるのは、初陣からの悪い癖にございますよ」
「悪い、少し考え事をしていた」
「此度の反省は城に戻ってからにいたしましょう。そのためにはまず生きねば」
「佐助・・・、そうだな。少し余計なことを考えていた。戦に集中するとしよう」
長く戦場で俺を支えてくれた佐助の声は俺の荒れた心を落ち着かせてくれた。まだ戦える。俺達は初戦に負けはしたが、まだ負けきってはいない。
ここから挽回しよう。最終的に俺達が勝っていれば、その過程は反省こそあれど悪いものでは無い。
「殿!皆様揃われました!」
「わかった。すぐにいく」
緊張した面持ちの時忠の呼びかけに気がついた俺は、その足で陣へと向かった。
だがその前にしておくべきことがある。
「時忠、先ほどはすまぬ」
「何を!私が腐抜けたことを申したのが全て悪いのです!」
「初陣が激しく、厳しい戦であるのだ。どこかで集中が切れることは致し方ない。それを教えるのが本来俺の役目。ともかく今は俺の謝罪を受け入れよ」
呆けた時忠の隣を今度こそ通り抜け、俺はみなが待つ陣へと向かった。
何やら背後で時忠と佐助が話していたが、それはまた城に戻った頃に聞けば良いだろう。
それよりも目の前の敵をどうにかしなくてはな。
小田原城 北条氏政
1570年秋
「伊豆水軍は良いようにやられているな」
「今川水軍も随分と手強いようで・・・。それに畿内より呼び寄せられたという傭兵らも」
政景の言葉に長綱、今は
「石廊崎に上陸するなど、まさかでありましたな。しかも補給のままならぬ敵を追い返すどころか、勢いをつけてしまいました」
「武に秀でた政勝をも打ち破ったのであろう?よほど名のある者が敵の大将なのであろうな」
幻庵の言葉に頷きながら、私は伊豆へと兵を進めてきた敵本隊のことを考えた。まさか船で各地へと上陸を繰り返し、奇襲によって我らの拠点を落として回るとは・・・。驚きの策であることに違いない。
だが対今川に対する備えとして、建てさせていた烽火台がこうも上手く作用するとは思わなかったが。
「陽動に踊らされたのは癪であるが、本隊を見つけたのであればこちらのもの。真鶴であれば、反撃されたときの撤退は難しかろう。里見に割いている水軍を伊豆へと戻すのだ。奴らをここで仕留めるぞ」
政景は頷いたが、幻庵は未だ黙ったままであった。
ここまで我らに風が吹いているというのに、不安なことでもあるのであろうか?敵の本隊さえ崩すことが出来れば、奪われた伊豆の支配を取り戻すことは可能であろう。それこそ里見をどうにかした後にでも。
「進士ヶ城の放棄は殿の指示であると伺いましたが」
「その通り。彼の地で敵を防ぐことは難しい。それよりは周囲に分散させた山城で籠城させた方が耐えられるからな」
「本当によろしかったのですか?かの城は目の前に芦ノ湖があり、自然の要害を用いて籠城することも可能にございます。たしかにこちらから援軍に向かわせるには、少々骨が折れますが」
「私は同じであると思うのだ」
幻庵の言葉ももちろんそうであると思う。だが此度の今川の本隊のように、孤立した城を救援に向かう兵が、山越えにより疲れ果てれば万が一の時ただ蹂躙されるだけとなる。
撤退も視野に入れたとき、それが出来ぬ地形であるのが進士ヶ城なのだ。
今の我らに兵を無駄死にさせる余力は無い。それよりは険しい地形に建てた城に籠もる方が、より守りやすいうえに時間を稼ぐことが可能であると考えたのだ。
「何よりも奴らを信用することが出来なかった。同盟を結んだは良いが、結局私はあの者たちを意識していたのだ。それも相まって対今川の備えが万全にならなかった。進士ヶ城もその1つ。攻め込まれれば一気に城は落ち、籠もる兵は討ち死に覚悟で突撃するか捕らえられるかの2択を迫られる。少なくとも負け戦で落城してから、生きてこの地へ戻ることは叶わぬであろう」
「故にあの城を放棄させた、と?」
「その通り。さて幻庵」
「・・・わかっておりますとも。我らは御所へと向かい、ご機嫌伺いにございますな」
「すまぬな、苦労をかける」
今川との戦が勃発した頃にはまだ良かった。だが里見が小弓城を落とし、足利頼純を公方と立てた頃より随分とご機嫌が悪いと伺っている。
政景だけではどうにもならぬのだ。
幻庵には悪いが、そちらの方面で今は力が必要である。義氏は・・・。
いつか我ら北条の役に立つときが来るのであろうか。未だその兆しは見えないままであるのだがな。
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新シリーズ始めました。主人公は皆大好き帰蝶さん。
かなり短め安心安全の下書き完結済みです( ・ノェ・)コソ
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