271話 伊豆河津川の戦い

 伊豆国河津川 一色政孝


 1570年秋


「忍びに情報を盗まれていることを念頭に置いておけば、奴らをおびき寄せるなどなんら難しいことはないな」


 俺は河津川の川上に陣取る北条の援軍を眺めながらそう呟いた。

 本来ならば奇襲を企てていたはずの奴ら援軍は、俺達がすでに川上を見張る形で陣を敷いていたことに驚き、その場で慌てて足を止めたのだ。

 それに忍びを使うのは何も北条だけではない。俺にも頼りになる目がいる。

 あの援軍を率いているのは、山向こうに位置する狩野城の城主。狩野かのう一庵いちあんだ。伊豆衆の1人であり、今は北条氏照の奉行人を任されるほどの者である。

 だがそれよりも、かつて北条氏康の馬廻りとして仕えていたというのだから油断は出来ない。


「俺が発した相模へ向けて兵を進めるという偽報に騙されノコノコと出て来た」

「すでにその報せを持ち運んだ者は始末しております。未だ間者は潜んでおりましょうが」

「良い警告にはなったであろう」


 道房の言葉に頷き、そして改めて正面の敵兵を見る。兵1人1人のザワつきはたいしたこと無いが、それが何百何千ともなれば話は別だ。

 遠く離れた地にいる北条軍は確かに浮き足立っているように見える。


「時忠、使番だ。敵方が攻め寄せて来るまで一切手出しはさせるな。奴らが川を渡り始めたら一斉に攻撃を開始させよ」

「かしこまりました!」

「それとあの者らには別で合図を出す。それまでは決して勘繰られぬように、とも命じるのだ」

「はっ!」


 時忠が使番の支度のために陣の外へと出て行った。俺はその間すらもジッと敵陣の様子を見ている。

 今回の目的は時間稼ぎだ。狩野城の西には景貫殿が落とした高谷城がある。

 本来であればそのまま北上し家康に合流して貰う手はずであったが、あちら陽動隊は敵の目を引きすぎたために行軍速度が大幅に落ちていると報せがあった。

 故に家康と景貫殿との合流を諦め、伊豆内部へと浸透することを決断したのだ。狩野城は伊豆内陸部でも重要な城の1つ。周辺にはかつて関東管領として権勢を振るった畠山はたけやま国清くにきよが居城としていた修禅寺しゅうぜんじ城もあり、これらを落とせば一気に伊豆中部の制圧が進むこととなる。

 俺達がこれ以上北上するには、必然的に敵本拠地である小田原城へと近づくことになるため、むしろこちらが囮となる方が良いとの考えからこの決断に至ったのだ。


「とにかくしばらくは様子見だ。敵の動きが変わったと感じたとき、俺達が動く好機と考えよ」

「はっ!」


 道房と佐助が頭を下げた。他の者たちも頭を下げる。

 俺は一度みなを下がらせて、相手の陣が見える位置へと場所を変えた。何が見たいのか、それはわからない。だが何か変化があるはずなのだ。

 それが出るまでは待つ。だがもし奴らが景貫殿の動きを察知し、兵を引き始めればそれもまた好機。

 がら空きの背中へと食いつくとしよう。


 それから数日が経った。未だ奴らに撤退の兆候は見られず。だが攻めてくる気配もなかった。

 士気が落ちぬよう、毎日兵らを鼓舞して回っているがそれも時間の問題。

 戦から少しでも離れれば、どこかで油断が生じてしまう。それが今1番避けるべきことなのだ。


「殿、朝比奈信置様を筆頭とした援軍が白水城へ入城を果たしたとのことにございます。以降は北へ北へと兵を動かし、いずれは我らに合流することとなりましょう」

「わかった」


 俺は時忠からの報告を受けながら、今日も今日とて飽きずに敵陣を眺めている。

 何か変化がないか?攻め寄せてくる兆候でなくとも、わずかに緩みがあればそれすらも突いてやる。

 そんな気分でただジッと見ていた。

 そんなとき、とある事に気がつく。


「時忠」

「はっ、なんでございましょうか?」

「いつもより煙が多くはないか?」

「煙にございますか?」


 時忠は俺が何を言いたいのかまるで分からないようである。

 側に立っていた頼安も首をかしげている。だが道房はどれのことかは分かったようで、目をこらすようにしながら、その煙をジッと見つめていた。


「あぁ、煙だ。道房、どう思う」

「・・・わずかに多いようにも思えます。ですがそれが何か?」


 川中島で有名な話。第四次川中島の戦いにおいて上杉謙信は海津城より立ち上る煙が多いことを確認、そしてそれから武田信玄が動くタイミングを予測した。

 予想通り信玄は戦支度をしており、それを見破った謙信により啄木鳥戦法は破られ武田は窮地に追いやられたというわけだ。


「奴らは明日、いや早ければ今夜動くはずだ」

「真にございますか?」

「あぁ、だからこちらの策も今夜決行する。前しか見えておらぬ者どもを川へと叩き落とすぞ」


 いつもならば兵の大半が寝静まった頃。突如として大きな法螺貝が鳴り響いた。

 それと時を同じくして、北条の兵が陣を敷いている背後を松明を持った兵らが蹂躙する様子がよく見える。松明のおかげで雲により月が隠れていても状況がある程度は把握出来た。


「景里、抱え大筒で全軍に合図だ。奴らをここで叩き潰すぞ!」

「お任せを!」


 こういう急ぎの場面で使番は用いない。時間がかかりすぎて指揮系統に乱れが生じる危険が大きい。

 だから予め決めた合図で全軍を纏めて動かすのだ。それにうってつけなのが、1発放てば轟音鳴り響く抱え大筒というわけである。


「見よ!足場もまともに見えぬ中、奴らは川を渡り始めているぞ!川には入らず敵も岸へと登らせるな!」


 すでに配置していた佐助や道房、その他の兵達が俺の考えを理解した動きを展開した。

 慌てふためく北条は川へと重なり合うように飛び込み、足を取られて溺れる者、踏み潰される者、そしてこちらの攻撃を受けて死ぬ者まで様々である。

 もはや敵の将など確認出来る状況ではない。すでに死んでいるかも知れない。

 だが敵が目の前にいる限りは戦い続けるのだ。


「槍隊を下げよ!火縄銃隊、前へ!」


 一色や雑賀衆、それに火縄銃を手に入れている家臣の兵らが岸に立って構えた。ズラッと並ぶその姿がきっと見えたに違いない。先頭をきって川を渡りきろうとしていた者たちがどうにか逃げようと反転するが、後ろから大挙して押し寄せる味方によって前へ前へと押し戻されていく。

 南無。


「放て!」


 一色の兵が景里の号令に従い弾を放つと、それが伝播していくように1人目を任された者たちが引き金を引いた。

 前線にいた敵兵がそれらに撃ち抜かれて川の中へと倒れ伏す。それに驚いた後方の敵兵は慌てて逃げ帰ろうとするが、最早遅い。

 そこはすでに射程範囲だ。


「2人目、前へ!」

「前へ!」


 景里の声がよく響く。スムーズに入れ替わると、すぐさま腰を据えて射撃姿勢へと入る。

 敵は懸命に逃げようとしているが、水の勢いと川底に沈む兵の骸で上手く歩けてはいなかった。転び、潰される。押し倒されて溺れる。

 まさにそこだけ地獄絵図なのだ。


「放て!」


 だがそれでも遠慮は出来ない。1人もこの地から狩野城へと帰しはしない。

 2人目の射撃により、多くの者たちが川の中へと姿を消した。そして3人目、4人目・・・。

 気がつけば立っている者は今川と雑賀衆のみになっている。

 他は地面や川に倒れており、わずかに明るくなり始めた景色により気がついた。川下は真っ赤に染まっている。


「みなを本陣へと集めよ。これからのことを話す」

「かしこまりました」


 時忠に指示を出して俺も本陣へと戻った。側に付き従う道房も同席し、俺と2人になったタイミングで小さく息を吐く。


「上手くいったな」

「はい。敵の目を潰すとこうも動きやすいとは」

「俺も過去の戦で嫌というほど痛感したわ。忍びは便利な者たちではあるが、依存しすぎると痛い目を見る。それを奴らは死をもって知ったことであろう」

「生きている内に知ることが出来たのは真に運が良かったということでしょうか?」

「そうだろうな」


 わずかに外が騒がしくなった。その後続々とみなが集まってくるのだが、その内の1人が1つの桶を持参していた。

 そして俺もそれが何かは知っている。


「康用殿、それは」

「こちら敵将、狩野一庵の首級にございます。どうかご確認を」


 桶を開けるとたしかにそこには首があった。坊主のようであるがもう一つ持参していた甲には北条鱗と狩野家の家紋が彫られており、間違いなく本人であると確認出来る。


「あの乱戦の最中、よくぞ一庵であると見抜いたな」

「敵陣の中央にて兵を指揮している者がおりました。名のある者であろうと思い、その中へと切り込み名乗るよう叫ぶとそう言ったのです」

「なるほど、わかった。此度の功績は氏真様に必ず報告しておこう」


 その後首実検の一式の儀式を終え、俺達は改めて軍議へと移る。

 まず今後どうするか、だ。目的であった時間稼ぎは十分すぎるほどその役割を果たした。狩野城より引き連れた狩野一庵を破ったことにより、城は容易に落とすことが出来るだろう。問題はその次だ。

 景貫殿らはそのまま北上し修禅寺城へと向かうはず。

 俺達は如何する?


「これより北にはあまり城がないようにございますな」

「そのようですね。あってもせいぜい港くらいか・・・」


 次にあるのは、かつて伊藤家が治めていた地域。だがこの辺り、もはや小田原が近いせいか、はたまた今川との同盟があった影響なのかわからないが城があまりにも少ない。

 かつて北条早雲によって落とされた城がいくつかあるのだが、それらもまともな改修が成されているわけではないのだ。

 故に兵を減らしてまで、落とす必要性があるのかどうかと言われれば疑問符が付くわけである。


「水軍の大部分を相模湾へと集める」

「相模湾にございますか?つまりまた・・・」


 忠久の恐ろしげな問いに俺は頷いた。

 それを見て一気に顔が青ざめた。先日の白水城の攻防戦がよほど堪えたのであろう。あれは本当に危なかったから、トラウマになるのも無理はない。

 しかもそれからあまり月日の経っていない今、再び同じ事をしようとしているのだから当然か。


「信置殿の援軍が到着し次第、河津川の河口から船を出す。目指すは真鶴まなづる半島だ」


 俺達もそろそろ氏真様に合流するとしよう。伊豆のことは家康と景貫殿に任せたぞ。


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