270話 覚悟を決める
1570年秋
「家康殿らの陽動が効いているようにございます」
「この城の守りを見ても分かるように、明らかに山間部を抜けての行軍に気がついている様子はございません」
元信や泰朝の報せを聞きながら、麻呂は外の景色を眺めた。目下広がる芦ノ湖。
湖岸を静かに進んだ麻呂達は、闇夜に紛れて城を奪うことに成功する。だが敵将は早々にこの城に見切りを付けると、すぐさま兵を退いてしまったようであった。
「箱根の山には駿河に対する備えの城がいくつかあると聞いている。しかし麻呂が目指すは小田原城ただ1つ」
「我らが露払いをいたしましょう。幾ら陽動に目が向いているとはいっても、全くの無警戒などあり得ませぬ」
「しかし元信がおらぬ小田原攻めなどそれこそあり得ぬ」
元信、この者の率いる兵は麻呂達の中で大きな戦力の1つである。露払いをするにしては勿体ないことは目に見えておった。
しかし代わりに誰を向かわせるか。
山間部の城というだけあって、生半可な者には任せることは出来ぬであろう。
「ならばそのお役目、我らが受け持ちましょう」
手を挙げたのは、先日葛山に養子入りしたばかりの信貞であった。側に控えるのは、武田より信貞に付き従った友綱である。その表情には何の不安も不満も感じ取ることは出来ない。
つまり信貞の暴走ではないということか。
はたまた・・・。
「信貞、本当にそなたに任せて良いのだな?」
「はい。此度武田より寄越された援軍を用いて、周辺の小城を落として見せましょう」
「友綱、そなたも異論は無いのであるな?」
「はい。信貞様と武田家の援軍さえお預かりさせていただければ、殿のお背中を必ずやお守りいたします」
「泰朝、如何思う」
麻呂は泰朝へと問いかけた。妹の言葉もある。あまり信貞を疑うような真似はしたくないが、まだ何も信頼関係を築けていない以上信用することも当然出来ぬ。
信貞に背中を任せる、それも武田の兵を預けて、というのはそれほどまでに危険が大きいのだ。
しかし泰朝には麻呂のような不安が無いようであった。
「お任せしてもよろしいのではありませぬか?むしろ今の状況を1番よく思っておられぬのは、信貞殿自身にございましょう。ここで功を得ることが出来れば、此度の養子入りを心配された方がみな安心されましょう」
「・・・他の者はどうか?異論のある者はおらぬか?」
みなにも問いかけたが、誰からも反論が上がることはなかった。
数人は不安げにしているが、妹も進めた話である。反対したい者も遠慮しているのであろう。
だがこれが今川家中での信貞の評価。親今川派として迎え入れられたはずの信貞からすれば、きっと気の落ち着かぬ日々を送っているのであろうな。
「わかった、信貞に武田の援軍を一部預ける。それと正綱、信忠。2人も信貞に付き従い城攻めを共にせよ」
「かしこまりました」
「お任せくだされ」
これを監視と思われたことは確実である。だがこの者らは麻呂に対して嘘はつかぬ。それは家中のみなが知っていることだ。
つまり信貞に功があれば、それを間違いなく正直に麻呂へと報告するであろう。
それは家中で信貞らが信を得ることに繋がる。功を上げられなければそれまで。
現状が変わらぬのもまた仕方なきことであろう。
「武田の内藤昌豊、山縣昌景を信貞に預ける」
「必ずや成果を出して見せましょう」
その後は麻呂達の行軍について改めて話し合う。
「このまま東に進めば湯坂城がございます。あの城はかつて大森氏によって建てられたものにございますが、北条家の所有となった今も特に改修がされた様子はございません。彼の城を小田原攻めに向けた最後の城とし、そのまま一気に小田原にまで兵を進める予定にございます」
「湯坂城は箱根を通る街道の抑えとなる城。突破出来なければ、小田原までの道は開けませぬ」
「その通りにございます。故に此度は早期決着を目指すことはもちろん、援軍すらも城に近づけることは避けねばなりません」
泰朝は改めて地図を広げた。物見の者や予め北条領へと放っていた者たちの持ち帰った地図によれば、湯坂城は須雲川と早川が合流する地の西にある山城である。つまりこれらの川を守ることが出来れば、北条の援軍が湯坂城の救援に入ることは出来ぬということ。
「ではその露払いこそ、我らにお任せを」
「私も元信殿にお任せするのが良いかと思います。野戦において元信殿は無類の強さを誇りますので」
「必ずや敵の進入を防ぎ、殿をお助けいたします」
「わかった。では他の者で城を取り囲み、小田原城を攻めるための拠点となる城を落とすとしよう。それと以降は北条も麻呂達の動きに気がつくであろう。いっそう厳しい状況の中での進軍が求められることとなる。油断無きように進むのだ」
「かしこまりました!」
元信の言葉にみなが頷いた。各々が与えられた役割を果たすため、部屋より出ていく。
残った泰朝は麻呂へと2枚の書状を手渡した。
「1枚は陽動隊を指揮しておられる家康殿より。もう1枚は別働隊を指揮しておられる政孝殿よりにございます。どちらも伊豆侵攻の進捗に関してにございました」
「こちらの状況を見る限り、どちらも上手く敵の目を引いてくれているようであるが果たしてどうなっておるのか」
先に家康からの書状を開ける。
内容は北条の重臣の1つである笠原家の当主がこちらに寝返ったこと。そして援軍としてやって来た北条の者たちを策と火縄銃を用いて一方的に追い払ったことが書いてある。
その後、派手な戦を多く繰り返した結果、北条の目を引いたらしく少々進軍が困難な状況となっているようだ。
当初の最終目標としていた堀越御所跡は未だ遠く、最早そこまで進むことは難しいとのことである。
「家康への負担があまりに大きいの。だがその役目はしかと果たしているようであるな」
「はい、この状況を見れば一目瞭然にございます」
続けて政孝からの書状を開けた。しかし麻呂の中ではどこか安心して読むことが出来る。
あの者、麻呂や家康の3人の中で1番戦場の経験が浅い。にも関わらず、1番戦果を挙げている。
「忍びに手を焼かされたようであるな」
「北条には風魔の忍びがおります。こちらの動きが常に筒抜けであることも考慮した上で策を立てるべきにございましょう」
「ここまでが上手くいきすぎていると捉えるべきであろう。だが忍びの関与を疑い始めて以降の戦果は上々のようである。別働隊だけで伊豆南部の大部分を制したと書いてある」
「これならば家康殿の遅れもそこまで悪い影響はないでしょう。あとは我らが小田原城にまで迫ることが出来れば」
「落城させられずとも、じゅうぶんに奴らを慌てさせることが出来るであろう」
当然であるが、我らが此度の戦で北条領を完全に切り取ることなど不可能であることは分かっておる。
それよりも目指すべきは、関東圏内にて構築された大規模な同盟。それを瓦解、もしくは綻びを生じさせること。
さすれば次回起きるであろう北条との戦で優位に立ち回ることが出来るはずなのだ。
「先日の政孝殿からの報告のこともございます。此度も幕府の介入があれば・・・」
「・・・泰朝、麻呂もみなに言っていなかったことがある」
「言っていなかったこと、にございますか?何でございましょうか?」
「もし次に幕府が麻呂達の戦に介入してきた時、その時は――――」
麻呂の言葉に泰朝が息を呑んだのがわかった。だが麻呂もそれほどのことを言ったことは理解している。
しかし最早このようなところで足踏みをしているわけにはいかぬのだ。今川家はたしかに足利将軍家にとっても、ある意味重要な御家であるのであろう。
だがそれ以前に我らはこの乱世に生きる家なのだ。綺麗事だけで生きていけるような易しい世界ではない。
そのことを表明する必要があるのだ。だからこそ、もしものときは・・・。
「殿が決めたことにございます。我らは付き従うまで。信じております」
泰朝は深く頭を下げた。それもまた覚悟を表明したのであろう。麻呂はみなをまもるために戦うと決めた。その覚悟をこの戦にて示す。
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