260話 幸せとは
大井川城 一色政孝
1570年春
「虎松のことはそういうことだ。まだ僅かであるが刻がある。元服した後、功績を挙げられるようにこれからも精進せよ」
「かしこまりました。政孝様のご期待に応えられるよう頑張らさせて頂きます」
虎松の言葉の端々には、確かな自信が感じられた。それがどこまでも頼もしい。
「そして久にも話がある」
「私にございますか?てっきり虎松の話だけだと思っていたのですが」
「虎松というよりもな・・・」
俺は母の顔を一瞬だけ見た。母はそんな俺の行動に意味を理解出来ていないようで、不思議げな表情で俺を見返していた。
「侍女をこれまで務めてくれていた初であるが、近くその役目を解くこととなる」
「・・・初を、にございますか?」
「あぁ、元より栄衆との決め事があった。少々長く続けて貰ったが、そろそろそれも難しかろう」
久は潤んだ瞳で、その背後に控える初へと視線を向けた。
初はいつもと変わらぬ表情で久を見ている。だがこれまで俺としても長い付き合いだ。無表情の中に、どこか寂しさを感じるのは俺の勘違いなのだろうか?
「初、それは真なのですか?何故・・・」
「事実でございます。雪女様より、一色の現状をしかと知るべく久様の侍女として選ばれたのです。今後は一色家の為に、栄衆の一員として忍び働きをすることとなりましょう」
「ですがそれならば・・・、それは出来ぬというのですか」
初の手を握って久は懇願するかのように問いかけている。初も少々苦しげであるが、これは俺や落人、そして雪女が初の人としての幸せを願ってのことなのだ。
久の側に残り続ければ、初は忍びとしての人格と侍女としての人格を常に持ち続けることとなる。
それは初の人生全てを久に捧げるということ。それを俺達は望まなかったのだ。
「残念だがそれは出来ない。久、あまり初を困らせてやるな」
「・・・申し訳ございません。取り乱してしまいました」
「仕方あるまい。初も後ほど久とよく話すが良い」
初は無言で頭を下げた。わずかに肩が震えているようにも思える。
「それと話は再び変わるのですが」
俺は最後の問題である母へと目を向ける。
「先ほどより視線を感じるのですが、いったいどうしたのです?政孝殿、まだ何か話があるのですか?」
「はい。母上にもお話ししなければならないと思っておりました。虎上殿のことにございます」
「・・・この子の嫁ぎ先、随分と時間がかかっているようですね」
何かを察したのか、母は先にそんな事を言ってきた。その言葉に反応したのは、俺と虎上殿の2人。
他の者たちはあまりの緊張感に、その様を不安げな眼差しで見つめている。
「先ほどの虎松の話からも分かるように、井伊家の再興は最早ならぬものとなりました」
「聞いておりましたよ」
「今川に残る井伊直盛の血が流れているのは虎上殿のみ。その虎上殿が子を残すことは、今川にも、一色にも、そして一色を頼って来たこの者たちを危険に晒します」
「つまり政孝殿は、この子を誰にも嫁がせぬというのですか」
母の言葉には間違いなく怒りの感情が含まれていた。俺はその圧から逃げることもせず、ただ正面から受け止める。
「その通りにございます。虎松らを無事に一色に残すためには、虎上殿に我慢して頂かなくてはならぬのです。それに」
「何故この子だけがっ!」
母は珍しく声を荒げた。俺の言葉を遮ってまで。
そんな母を随分と久しぶりに見た。幼い頃にはよく父と言い合っていた。いつも父が折れていたがな。
それに佐助にも聞いたな。桶狭間が起きたあの出兵に俺を連れて行くかどうかで、だいぶ揉めたと。
父はよく何度も何度もこのような圧に耐えてきたものだと思った。
「これは私が望んだことでもあるのです」
俺がどう母を説得するか悩んでいると、母の背後に控えていた虎上殿が口を開いた。まさに俺にとっては援軍そのもの。
それにおそらくこの中で唯一母を納得させることが出来るあろう者であった。
「どういうことなのです?何故あなたが自らそのような不幸な道を・・・」
「私は一度出家した身。還俗したからとはいえ、もはや誰の妻になるつもりもございません。それに大方様にお仕え出来るこの毎日を、私は一度も不幸だなんて思ったことはございません」
「それは今しか知らぬ故です。虎上の知らぬことはまだたくさんあるのですよ。あなたはまだ若いのですから、そのようなことを申してはいけません」
たたみかけることが出来るかとも思ったが、母は思ったよりも反撃をしてきた。虎上殿もどうにか説得を試みているが、母がどれほどまでに虎上殿のことを想っていたのかを思い知らされる。
「母上、俺も虎上殿よりその話を聞かされたとき、何度も確認したのです。ですが虎上殿の言うとおり、人としての幸せが全て誰かと夫婦になることではございません。誰かに仕えることが幸せだと思う者もいるのです。そんな虎上殿を誰かに無理矢理嫁がせては、母上の思いは何も叶わぬままにございます」
「政孝殿・・・。虎上?」
「はい」
母は何かを思ったのか、僅かに間を開けながら虎上殿の名を呼んだ。虎上殿も覚悟を決めた様子で返事をする。
「まだ時間はあります。いつあなたの考えが変わってもいいように、政孝殿には継続して嫁ぎ先を探すよう頼みます。それでも良いですか?でなければ、金輪際私はあなたを侍女として側に置く気はありません」
「それで問題ございません。今後ともどうかよろしくお願いいたします」
母はまだ諦めた風では無かったが、虎上殿はそう捉えなかったらしい。嬉しげに笑われると、母に頭を下げていた。
そんな虎上殿を見て、母はまた困惑していた。まさか今の言葉を勘違いして捉えられるとは思っていなかったのであろう。
「これにて一件落着にございますか?」
「そういうことにしておいてくれ」
時宗の言葉に俺は頷いた。これ以上余計な言葉を口にして、引っかき回されてはたまらないからな。
母が妙に納得してしまったここらが引き時だろう。
虎上殿の勘違いが上手く作用した形となった。よかったよかった。
「ではこれまでとする。各々部屋へと戻ってくれ、それと菊を呼んでくれるか?」
俺は二郎丸にそう伝えると、二郎丸はかしこまりましたと廊下を歩いて行った。みなは俺達の仲が良いことに嬉しげではあるが、単純に今回呼んだのは泰朝殿の頼みを伝えるため。
まぁこちらに戻って来てからまともに話せていないから、2人でゆったりとした時間を過ごしてみても良いかも知れないな。
観音寺城 足利義秋
1570年春
「従五位下左馬頭、そのお役目謹んでお受けいたしましょう」
「左馬頭への任命。その意味、将軍家の御方であればご存じであるはず。心穏やかにお過ごしくだされ、それが主上の望むことにございます」
予の元には武家伝奏である飛鳥井雅教がやってきておった。帝からの言葉を受けたこの者は、予を左馬頭へと任ずると申したのだ。
この役職、次期将軍に任じる者へと就けるものであり、朝廷としては義助の次の将軍は予であるといっているのだ。
悪い気はしない。だが信長が引き返さずに三好を京より追い払えば、すぐにでも予が将軍になれたのだ。
それだけは悔しいことである。
「お礼の品を近々京へと運び入れましょう。そうお伝えくだされ」
「主上もお喜びとなられるでしょう。ではでは麻呂はこれで」
雅教が帰ってしばらく、藤英が予を訪ねてきた。その背後には此度予に協力した浅井の当主がついておる。
この者も気に食わぬ。
何故あの場で進軍を申し出なかったのか。あっさりと信長に従い、小谷城へと兵を退いたと聞いている。
「上様、此度の任官おめでたいことにございます。これで次期将軍の座は約束されたも同然にございましょう」
「・・・そのようなことはよい。それで如何したのだ」
自分でも驚くほどに不機嫌な声が漏れてしまった。だが藤英は気にした様子も無く、話を続ける。
「はっ、近江の全域を支配するに至りました浅井長政殿が上様にご挨拶をと」
「・・・」
予の沈黙を了承と捉えたのか、この男は予の前へと座り頭を下げる。
「此度こうして近江一国を平定出来たこと、上様のお力のおかげが非常に大きく。そのことお礼申し上げます。しばらくはこの観音寺城に滞在されるとのことで、何かあれば私に申しつけください」
「では1つ問う」
「何でございましょうか?」
「何故信長の撤退に賛成したのだ。そのまま攻め込めば京も予のものとなっていたであろうに」
長政は一瞬唖然としたかと思うと、すぐに何事かと考え始めたようである。
そしてしばらく。
「・・・延暦寺の抵抗が激しいのです。あの者らを放っておけば、例え京に入れたとしても上様と我らは分断されかねません」
「それをどうにかするのがそちらの役目であろうが」
「ですので此度は退いたのです。信長殿含め、我らにはどうにかするための考えがございます。ですが此度の出陣では用意が間に合いませんでした」
「では次に戦をすれば延暦寺をどうにかすることが可能であるというのだな?」
「間違いなく」
だが信長の僧に対する行いの中には許せぬことも多々あった。何故仏に仕える者たちをあのように長島で殺したのか。
あのような仕打ちをしなければならなかったのか。
だが顕如は予の将軍就任を邪魔する者の1人。本願寺は許せぬが、延暦寺は予を認めておらぬのでは無く、信長らの行いを認めておらぬだけだ。
あのように非道な真似をせぬよう、予からも言っておかねばならぬな。
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