259話 虎松の将来

 大井川城 一色政孝


 1570年春


「そうか、信長は兵を退いたか。思ったよりも早かったな」

「朝廷が三好家擁する足利義助を14代将軍とすることを決定したようにございます。すでに権大納言である山科言継がその旨を伝えるべく、飯盛山城に入ってようにございますれば、これ以上は戦えぬということに御座いましょう」

「であろうな」

「織田が近江坂本に築いた砦には、武家伝奏である飛鳥井あすかい雅教まさのりが入り、朝廷による織田・三好の和睦を提案したのではないかと思われます。それに従って織田は兵を退いたのかと」

「・・・まだこちらは北条と開戦していない。思った以上に早い撤退は最も恐れていた事態を引き起こしかねない」

「上杉の動向も探らせましょう」

「頼む」


 落人は姿を消したが、そのあとにはまだ1人残っていた。

 久しぶりに顔を見た、栄女衆のまとめ役である雪女である。俺がここに呼んだのだ。


「すまないな。急に呼び出してしまって」

「いえ、お気になされず。それで此度は一体どういったご用件でございましょうか?」

「菊に一色からも侍女をつけたいのだが、久と同様栄衆の者を側に置きたい」

「なるほど、適任であろう者に心当たりがございます。すぐに大井川城へと呼び寄せましょう」

「頼む。それと初についてであるが・・・」

「そろそろ約束の時期にございます。また新たな侍女を用意いたします」

「すまぬな」

「いえ、元よりそういう話でしたので」


 初は新たな侍女がやってくると共に、久の侍女を辞めることとなる。以後は栄衆へと戻り、本来の務めを果たすのだ。

 それが元々侍女に任じたときの約束だった。


「それと足利義助の側に人を潜り込ませたい。男衆の中からでも良いのだが、お前達の方が都合の良い場合もあるであろう。あちらの動きが詳しく知りたいのだ。頼めぬか?」

「お任せください。そういうこともあろうかと、すでに支度はすんでおります」

「流石だな」


 あまり話題が出ないだけで、栄衆の働きは尋常では無いほどに大きい。特に女衆の働きで普段は知ることが出来ない情報まで得ることが出来るのだ。


「では早速手配させて頂きます」


 雪女はそういうと姿を消した。俺は側に控えていた二郎丸に声をかけてから、廊下を進む。目指すは俺の部屋。

 おそらくだが、既に集まっているであろう。

 先日の一件を伝えるべく、そして先ほどのことと同時に虎上殿のことも伝えなくてはならない。


「そろっているか?」

「はい。あとは旦那様だけにございます」


 久が頭を下げると、他の者らも気がついたようで同様に頭を下げた。

 その場にいるのは久と母、そして初と虎上殿、虎松とその世話役であった時宗である。


「早速話がある。虎松」

「はっ」

「本当は俺の側につけてから、独り立ちさせようと思っていた。だがそうも言ってはいられぬ事態となったのだ。故に来年中に元服することとする」

「元服、にございますか?ですが何故急に?」

「・・・先日泰朝殿、掛川城の朝比奈殿とともに話をしたのだ。その際に聞いた。おそらくであるが、虎松は井伊の名を継ぐことは出来ぬ。井伊谷城も廃城とされ、新たな城を建て、新たな領主が任じられることとなるであろう。だがそれは井伊では無い」

「なんと!?」


 母が驚いて声を上げた。なんだかんだ言って、虎松は井伊を再興するものだと皆が思っていたのだ。

 驚くのも無理は無い。

 声を上げたのは母であったが、実際、誰もが困惑した様子で俺を見ていた。


「どういうことなのです、政孝殿?では虎松は?虎上は?高瀬姫は?」

「落ち着いてくだされ。井伊家の再興が認められぬということだけで、3人にも沙汰が下されるという話にはなっておりませぬ。それに井伊の血縁者が一色に匿われているという話自体、まだほとんどの者が知らぬのです」

「そ、そうですね。たしかにそうでした」


 前のめりになった母は、俺の言葉を聞いて元の体勢へと戻っていった。

 だが虎上殿も母に隠れて、静かに動揺しているようであった。


「泰朝殿は虎松らの扱いは俺に一任すると言われました。俺は俺を頼れと信じてくださった直親殿の気持ちを裏切りたくは無い」

「では」


 母の言葉に俺は頷いた。


「虎松、最早井伊を名乗ることは出来ぬ。だがもしお前が俺を信じることが出来るのであれば、このままこの城に残って欲しい。俺の息子を守ってやってはくれぬか?」


 ずっと静かに俺達の話を聞いていた虎松の目には確かなる覚悟が見て取れた。未だ10才になるかどうかという少年にそのような目を向けられれば、馬鹿な質問をしたのだと己が恥ずかしくなる。


「井伊の名を語ることは幼心ではありますが、とうに諦めております。それに井伊の名にこだわるつもりもございません。ここまで匿って頂いた一色家のため、私は忠誠を誓いましょう」

「いや、話はまだ続きがある」

「・・・続きにございますか?」


 虎松の覚悟も嬉しいものであったが、やはり俺には家臣として虎松を迎え入れる気にはならなかった。

 井伊家はそもそも一色家と同格。一門衆で無ければ、遠江に根を張る同じ領主なのだ。だから井伊の再興が果たせないとしても、虎松の扱いはそれなりで無いといけないと思った。


「娘をいずれ虎松に嫁がせたい」

「旦那様!?あの話を本気にされたのですか」

「随分と懐かしい話を持ち出したな、久。だがあれだけが理由では無い。虎松を一色の一門に加えるのは、それだけ大きな意味がある」


 迎え入れた当初から思っていた井伊の赤鬼こと井伊直政を一門衆に加えたい、なんてそんな幼稚な気持ちが全くないかといえば嘘になる。だがそれよりも、現状で将来有望な才を有し、その血筋も申し分ない。

 一色家は兄弟があまり多くないせいか、分家があまり存在しないのだ。何かあったときにそれでは困る。

 だから娘と結婚させて婿養子とし、一門衆として迎え入れたい。それが虎松であれば将来を考えてみても心強いことこの上ない。そういう理由があった。


「元服を急がせるのは、はやく家中で認められるほどに手柄を立てて欲しいからだ。だがもちろん逸っては何事も上手くいかぬであろう。故に時間を多く与える。俺の期待に応えたと思ったときに、娘を嫁がせようと思う。どうだ、虎松?豊を嫁には迎えられぬか?」


 少々狡い質問であったようにも思えた。これは立場の上の者が断れないように、逃げ道を塞ぎまくった言い方であると。

 だが虎松はいっさい迷うこと無く答える。


「いえ、豊姫様を妻として迎えることが出来ること、至上の喜びにございます。政孝様に認めて頂けるよう、今後も努力いたします」

「あぁ、期待している。時宗も長い間、虎松を立派に育ててくれて礼を言うぞ」

「いえ、ワシなど何もしておりませぬ。周りの方々からたくさんのことを学んだのでございましょう」


 虎上殿は喜んで涙を流され、母もそれにつられていた。久はどこか安心したように安堵の息を吐いている。

 大井川城へやって来たときから、虎松のことを随分と気にしていた様子であるからな。

 それも当然の話であろう。

 だが今日の話はこれで終わりでは無い。

 むしろここからが本番。ここからが俺にとってはある意味戦だ。虎上殿のこと、母に話さなくてはならぬ。

 1番の強敵だ。身を引き締めねばならぬな。

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