258話 断たれた再興への道筋
掛川城 一色政孝
1570年春
「ようやくこうしてゆっくり酒を酌み交わすことが出来るのだな」
「そうですね」
俺の前に酒瓶を差し出された泰朝殿。ありがたく盃を差し出して酒を酌んで貰った。
満足げに頷かれた泰朝殿は、持っていた酒瓶を子の
俺のそばには昌続だけを残しており、他の者らは別室待機しているはず。もし振る舞われた場合にのみ酒を飲んでも良いと伝えてはいるが、後の判断は道房らに任せている。
今はそんな状況だ。
「あの約束をしてから随分と時が経ちました。あれはたしか・・・」
「飯尾を討伐した後のことであった。おぬしが単独であまりに不審な動きをしておった故、ゆっくり話して化けの皮を剥がしてやろうと思ったのよ。あの時はな」
「・・・昌続の前で、不穏なことを言わないで頂きたい。勘違いされては困ります」
「これは失礼したな」
笑いながら泰朝殿は盃に口をつけた。僅かに減った酒を眺めながら、あの日を思い出しているかのように遠い目をされている。
「あのときはこのようなことになっているなど想像も出来なかった。私も懸命に殿をお支えする覚悟をしていたが、今川家は間違いなく存亡の危機に瀕していた。だが気がつけば、先代義元公の頃よりも今川家は大きくなった。武田をも呑み込み、南信濃を支配するまでとなった。義元公や雪斎様ですら、これ以上戦うことを良しとしなかった北条家と敵対する余裕が出来るまでになった。1番の驚きは織田と同盟を組んだことであるがな」
「誰も想像出来なかったことでしょう」
「確かに。だから今が楽しくて仕方が無い。政孝殿もそう思わぬか?」
「同感にございます」
俺も盃に口をつけた。半分ほど呑んだ俺は目の前に置く。
「此度こうして政孝殿を城へ招いたのは、頼みがあってのこと」
「頼み?化けの皮を剥がすのでは無かったのですか?」
「言ったであろう?あの時はそう思っていたという話だ」
もう一度泰朝殿は盃に口をつけると、一気に傾けた。口から離したとき、酒は残っておらず勢いよく盃を床へと置く。
「葛山城で不穏な動きがある。信置殿が探っていたところ、今川家中の者ではない者が出入りしていたという」
「・・・やはり北条にございますか?」
「そこまでは分からぬ。それを知りたくば、おぬしの目に探らせるしかあるまいな」
栄衆の存在を知るのは、未だに一色家中の者だけだ。今ならばもうバレても良いかとも思ったが、今更敢えて言うこともないだろう。
泰朝殿は元より勘づかれていた。そういうわけで訂正もせず、俺は頷いておくこととする。
「私も家臣を北条へと向かわせております。こちらから寝返ろうとしている者をあぶり出そうかと思いまして」
「成果が出ればもちろん報せてくれるのであろうな?」
「はい。信頼出来る方々にはお報せするつもりでおります」
「ならばよいのだ。・・・話が逸れたな」
泰朝殿は咳払いをすると、残された酒瓶から酒を酌む。俺もついでに酌んで貰った。
「氏元殿はこれまで何度も北条になびく動きをしている。これまでは同盟関係ということもあり、目を瞑ることができていた。だがこれからはそうもいかぬ。分かるであろう?」
「我らが北条と戦をすれば河東地域へと兵を進めます。その最中に葛山城が北条方へと寝返れば、その東にいる今川の兵は孤立することとなりましょう」
「氏元殿以外にも北条へ寝返るつもりがある者がいたとすれば、孤立どころか挟撃されかねぬ。それは我らの勢いを挫くほどの事態となるであろう」
「では飯尾の時と同様に、予め滅ぼすのですか?」
「それは出来ぬ。葛山家は元より北条と縁のある御家。下手に兵を出せば、北条が介入してくる危険もある。そうなればそのまま両家は大規模な戦へと突入することとなるであろう」
確かにそうだと俺は頷いた。
昌続にも酒を運んできた者がいた。困惑しているようであったが、俺が頷いたことで昌続はその酒を受け取る。
だが酒に呑まれるようなこともなく、懸命に俺達の話を聞いているようだった。
「氏元殿はな、おぬしが武田の姫を迎えると知って非常に羨んでいた。いや妬んでいたという方が正しいか。そこで氏真様は考えられた」
「どうされるおつもりで?」
「武田の一門衆の中には、親今川で有名な御方がおられるという」
俺には誰のことか分からず昌続を見た。
昌続は一瞬考えた後、誰のことを言われているのかすぐにわかったようで、
「おそらく
「義久?それは一体?」
「ご隠居様の御子にございます。先日元服を果たしたばかりにございますが、この御方は先代当主である義信様のお方様であった松様に随分とよくして頂いていたため、今川様への想いは強いのかと思われます」
「そうなのですか?」
俺は昌続の言葉そのまま泰朝殿に尋ねる。
泰朝殿は頷くと、1枚の書状を俺へと渡された。
「これは殿から武田家へあてた書状である。武田はより今川と強く結びつこうとしていると聞いている。葛山の治めるあの地一帯は今川にとってみても要所の1つ。親今川派である義久殿を彼の地に迎え入れるのであれば、武田家も悪い気はしないであろうし我らも今よりは安心出来る」
「たしか氏元殿には・・・」
「男子はおらず、1人だけ姫がおる。たしか名をふちといったか?それもちょうど良いという話になったのだ」
つまり武田の一門衆を、今川家の要所を任される御家へと養子入りさせる。葛山家は今川の一門衆では無いが、長年そのような地を任されているという点からも武田は不満に思わぬであろうということらしい。それに関東にて覇権を握ろうとしている北条の血筋も混ざっている。
そこまで悪い話でもないということか。
「万が一に備えて甲斐の民心をよりいっそう握っておく必要がありますね」
「それも頼むつもりであった。甲斐は内陸が故、一色の商人らにとってみれば厳しい道であるやもしれぬがどうか頼めぬだろうか」
「わかりました。話してみるとしましょう」
「頼む。だがそれとは別に、菊様に一筆書いて貰いたい。そしてこの書状と共に武田へと届けて貰いたいのだ」
俺は再び差し出された氏真様の書状を受け取る。
なるほど、このタイミングで呼ばれたのは菊に頼み事があったからか。急ぎと言われるから慌ててきてみれば納得の理由だった。
「それと一色で匿っている井伊の遺児のことであるが」
「はい」
思わぬところで出て来た名に俺は僅かに警戒した。それは反射的なもので、泰朝殿からそれほど悪い話は出ないであろうと勝手に思っていた。
だが俺の予想に反して、泰朝殿から出た言葉はあまりに非情なもの。
「井伊の名を再び名乗ることはおそらく出来ぬ。井伊谷城は、南信濃を制したことと三河の安定、織田との同盟を理由にその重要性は低下し廃城されることとなった。新たにあの地周辺に城を築くこととはなっているが、井伊家を許さぬという家中の空気に後押しされたものであることも確か」
「ならば虎松は」
「もう井伊家を再興させることが出来ぬ。その子らの扱いは政孝殿が改めて決めるがよい」
「・・・そうでしたか。虎松には正直に話しておきましょう」
「それと遺児らを連れてきたという尼僧、今は還俗しているのであったな?」
「はい」
「私からの助言としては、迂闊なことをせぬ方が良い。下手をすれば井伊谷城の廃城だけではすまぬ事態になりかねぬぞ」
「・・・その助言、ありがたく受け取らせて頂きます」
昌続をこの場に連れてきたのは、泰朝殿と懐かしい日々の話が出来ると思ってのことだった。
俺が泰朝殿に気にしないで良いと言ったから、泰朝殿も昌続を気にせず話されたのであろうが、思った以上に重たい話。
「しばらくゆっくりしていくが良い。輿入れ等で疲れているであろう」
泰朝殿はそう言うと席を立ち、俺達の前から去って行く。
「昌続」
「決して他言はいたしませぬ」
「それは疑ってはいない。だが」
「ご隠居様は一色に関して、あまり深く探りを入れぬようにと言われました。大きく強い御家ではあるが、不気味であるからと。故に某は何も聞きませぬ。ただ一心に政孝様を支えるまで」
今はそれで良いか。それよりも虎上殿のこと、先に手を打たれてしまったな。
とはいえ、あの話のこともある。きっと母が怒られるだろうが、どうにか説得して貰うほか無いか。
北条との戦を前に、厄介な話が舞い込んできてしまったな。
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