162話 命令違反

 沼田城 柿崎景家


 1566年夏


「憲政様、出陣はいつになりましょうか?」

「まだ動かぬ。我らがこの城より動くのは、関東方面の上杉勢が甲斐や信濃に攻勢をかけ始めてからよ」

「関東方面の?いゃ、しかしそれは・・・」


 口答えを許さぬといった様子で睨まれるので、一度は口を閉ざした。

 だがやはりそれはおかしな話なのだ。関東方面、特に武蔵や下総方面は同盟を組んでいない北条と争わぬという、今川家への配慮のために軍事行動を控えるようお達しがあったはず。

 そして確かにそのことは関東方面を任されている北条高広殿に伝えられたはずである。

 しかし憲政様はその関東方面の出陣を待たれているという。


「信じられぬか?これがその文である。読んでみるが良い」


 手渡された文に確かに高広殿直筆であった。それは疑いのようない本物。

 であるならばやはりおかしい。


「憲政様、やはり此度の戦、急がれた方がよろしいかと。殿は関東方面の将らは北条を警戒しつつ、防衛に留めるだけという命が下されておるはずにございます」

「ならばその命を破ってまで、ワシの旧領回復に努めようとしておるのだ。良いことではないか」

「・・・某は即刻箕輪城へ救援に向かうべきだと改めて言わせて頂きます。我らと北条、そして今川が同時に攻め立てているため、武田の上野への攻勢は止んでおります。今の内に手の届く場所にまで詰めておかねば手遅れになりますぞ」


 しかし憲政様に某の言葉が届いた様子は無い。むしろ煙たがられておる。


「景家よ、くどいぞ。ワシは高広を信じて待つ。そもそもあの者らが兵を率いて武田の目を各地に分散させれば、被害は減るはずであろう。楽に上野を取り返すことが出来るならばそれで良いではないか。勝った後でワシが政虎殿へ高広の行動を咎めぬよう伝えておく。これで問題はない!」


 そう言って憲政様は部屋を出て行かれた。何やら廊下の遠くの方で怒鳴っておられる。

 これは拙い。このまま行けば上野平定を託されたこちらの兵は何一つ成せぬまま、この地で足止めを喰らい、そして最悪の結果として上野を全て失いかねない。

 まだ高広殿が裏切ったという確証はないが、何やら嫌な予感がする。

 しかし我らの兵の決定権は全て憲政様がお持ち。勝手に沼田城にいる兵を某が率いることも出来ぬ・・・。


「何やらご機嫌があまりよろしくないようにございますな」

「・・・実乃様にございましたか。いったいどうしてここに?」

「いゃなに、いつまで沼田城で足止めを喰らうのか不安になっての。憲政様にその真意をお尋ねしようとここに向かっておったのだが、いつになく仏頂面の御方がこの部屋より飛び出してきたと思ったら、突然怒鳴られたわ」


 怒鳴られたことを特に気にしておられぬ様子の本庄ほんじょう実乃さねより様は、先代当主である晴景はるかげ様の代より殿の器量を見抜かれ、長く側近としてお側についておられる御方。

 今はお年を理由に側近から外れられたが、今尚上杉家の為に戦場に出てこられている。此度は共に戦えると聞いて楽しみにしておったのだが・・・。


「実乃様を怒鳴られるとは」

「関東管領からみれば儂などその辺の石ころなのよ。気にするでないわ」

「実乃様が石ころであれば某など」

「そう卑下するでない。ところでいったい何をあれほど怒っておるのだ」


 尋ねられれば答えねばなるまい。高広殿の不審な行動と、その行動を何も疑問に思わずただ信じておられる憲政様のこと。

 そしてそれをお諫めしようとしたが失敗し、最早某の言葉を聞こうともされぬこと。


「なるほどの。それにしてもあやつも懲りぬな」

「高広殿のことにございますか?未だ寝返ったという確証はありませぬが」

「寝返っておるわ、間違いなくな。今、武蔵国で兵を起こす利点など何もない。北条を無駄に刺激し、円滑な武田侵攻作戦を行えぬようにしておる。謂わば包囲方に対する妨害である。賢いあやつがそのことをわかっておらぬとは到底思えぬ」

「では実乃様は高広殿が武田に寝返ったとお思いですか?」

「・・・さてな、正直に言えば此度の戦、あまり良い予感はしておらぬ。今川と手を組むのはまだ良い。同盟でなく一時手を結ぶだけであるからな。後に柵が残らぬ。だがそれに北条を巻き込んだのはそもそも間違いではないかと思うておる」


 実乃様の言いたいことをがよくわからぬ。だが、言葉に含みを持たせているからか、本当に言いたいことを隠しておいでのようにも聞こえた。


「儂は長尾のままでもよかったと思っておった。関東管領など最早名ばかり。足利将軍家も力を失い、幕府より派遣される堀越公方も衰えていった。そのような形骸化した役職に何の意味があろう」

「・・・」

「結果として他国より持ち込まれる面倒ごとが増えた。それに対して殿が手を差し伸べられるのが間違いだとは言わぬがな」


 間違いなく殿を一番よく見ておられる実乃様のお言葉。あまりにも辛そうなそのお顔に、言葉を発することが出来なかった。


「しかし殿が決めたことよ。儂はこの身が朽ちるまで殿をお支えする。栃尾城にお迎えしたあの日からその誓いは変わらぬ」

「微力ながら某もお供いたします。よろしいでしょうか?」

「構わぬ。供は多い方が賑やかで良い」


 話が逸れてしまったが、やはり関東方面の動向は注視しておくべきだ。北信濃に兵を進められた殿にもこの状況をお伝えし、こちらでも想定外の事態に対応出来るよう支度を進める。

 憲政様に話を聞いて頂けぬのならば、某が使える男なのだと行動で示すほかない。


「実乃様のお言葉のおかげで、今成すべき事が見えたように思えます。ありがとうございました」

「ただの世間話につきあってもらったのだ。何も感謝されるようなことはしておらぬ」


 実乃様と別れてすぐに行動を開始する。我らがこの地で負けるわけにはいかぬのだ。

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