127話 愚痴

 大井川城 一色政孝


 1565年春


「クシュンッ!?」


 俺の腕の中で眠っている鶴丸が驚いて目を開いた。未だ鼻がムズムズしているが、片手を鼻に動かすと鶴丸が落ちてしまう。

 それにしてもさっきからくしゃみが止まらないな。誰か噂をしているのか?それならいい噂が良いものだ。外部の者で俺の良い噂をしている者がいるとも思えぬが・・・。せいぜい本願寺の坊主共に恨み言を言われているくらいか?


「すまぬな、驚いたか?」

「アー、アー」


 何と言いたいのかは分からないが、何かを伝えるべく必死に俺の顔に手を伸ばしてきている。ちょうどまだムズムズしていた鼻を触られて余計にもどかしい気分になった。


「それでな、みなが側室を迎えろと言うのだ。酷い話だな?お前の母親がいるというのに」

「ダァーダァー」


 相も変わらず何を言っているのかはわからないが、きっとみなの圧力に屈しそうになっている俺を励ましてくれているのだと思う。鶴丸は優しくて良い子だ。出来ることなら、このような時代に生まれて欲しくはなかった。

 親になれば誰もがこう思うのだろうか?父に聞きたかったな、親になってこう思うことばかりだ。


「・・・旦那様、鶴丸に愚痴をこぼすのはお止めください。健全な成長の妨げになりますよ」


 久はどうしようもないものを見るような目で俺を見ていた。今や俺の味方は鶴丸だけなのだ。愚痴りたくもなるだろう。

 そもそも家中では、側室をとることを強く勧めてくる者らが一定数おる。相手は俺が現状渋っている高瀬姫に限らず、今川家中の娘だとか一色家中の娘だとかとにかく色々言われるのだ。

 もちろんみなが面白がっているわけではないこともわかっている。代々一色家の当主は天寿を全うしていない。父と大伯父は戦で討ち死にし、祖父は若くして病で死んだ。そのような緊急時に跡を継げる者がいないと断絶してしまうのだ。

 それを畏れる者らが側室を迎え、少しでも一門衆を増やすよう急かしてくる。

 主に言ってくるのが母と大叔父上、そして時宗。四臣の者らは一色家の舵取りには先にあげた方々よりも権限を持っているが、こと俺のことに関してはあまり口を出してこない。

 いや、出させてもらえないというのが現実だ。


「本当に困るのだ。・・・それで高瀬姫は?」

「今は直親殿の仮墓所がある縁東寺にお墓参りに行かれております。虎松と時宗も一緒です」

「そうか、それでどんな具合だ?」

「随分と熱心に殿の事を聞いてきますね。一体何をしたのやら」


 からかうように久は言った。何度でも言うが俺は何にもしていない。惚れられる要素もない。

 そもそも危機から救ってもらったというのであれば、豊岳様に惚れるのが筋というものでは無いか?・・・いや、現実逃避をしすぎたか。


「何故そこまで高瀬姫を避けられるのです?虎松と一緒に助けると決めたのは旦那様ではありませぬか」

「たしかにな。しかしまさか高瀬姫を助けた途端に側室候補に挙がるなど思いもせなんだ」

「本当にそうですか?どこかそのような予感はあったのでは?」

「なかった。それに高瀬姫は未だ11になったばかりだと言うではないか。俺といくつ離れていると思っているのだ」


 しかし久は首を振った。


「歳など関係ありません。たまたま私は21で旦那様の元へと嫁ぎましたが、もっと早くに別の家に嫁いでいた可能性もあります」

「しかしそれは家同士の関係があってだろう?今の高瀬姫には後ろ盾も、強制する実家もない」

「ですが高瀬姫を側室に迎え入れれば、旦那様がいる限り井伊の血筋を守ることが出来ます」


 なんと言っても久に言い負けてしまう気がした。ここは戦略的撤退をするとしよう。


「鶴丸、残念だが時間のようだ。また来るぞ」


 手を鶴丸の脇に入れ、正面から見据えるように言った。心なしか不満げな顔になった気がする。きっと離れるのを惜しく思っているのだ。

 それは俺も同様なのだ。しかしここにいるとお前の父は負けてしまう。


「久、また来るぞ」

「いつでもお越しください。お待ちしておりますので」


 不満げなのは久も同様であったか。しかし正室で、鶴丸が生まれその地位も盤石とはなっているが、側室を迎えることにあれほどまでに抵抗がないものなのだろうか?

 俺はこれほどまでに葛藤しているというのに。


「小十郎、少し話し相手になれ」

「はっ!」


 外で待っていた小十郎を連れて部屋へと戻る。俺はいつもの場所に腰を下ろし、小十郎には正面に座るよう指示を出した。

 おそらくだが、今回が初めてだと思う。小十郎を正面に座らせることはこれまでに一度もなかったはずだ。


「よろしいのですか?」

「構わぬ。今年で13であろう?来年には元服させる。時真との約束であるからな」

「はっ」


 俺の側仕えにする際に取り交わした約束だ。元服後は色々な者の下に付け、四臣の筆頭にいずれなるときのための知識を身につけさせる。

 例えば昌友の元へと付け、内政に関係する全てを知識としてつけさせる。佐助や道房の元へつけて将としての経験を積ませる。

 そしてそのころには正真正銘筆頭になっているであろう時真の下に付け、次期氷上家の当主になるための用意をさせる。

 いずれにせよ、俺の側にいる時間は残り僅かなのだ。


「さて、相手になれとは言ったがとくだん俺から何かを話すつもりはない。何か聞きたいことは無いか?なければ小十郎の話したいことを話せば良い」

「・・・はぁ」


 困惑に満ちた顔をしているな。さて、小十郎は何と言ってくるであろう。


「では、どうして高瀬姫を側室にという話にそこまで乗り気でないのでしょうか?」

「またその話か」


 俺があきらかにうんざりした表情をしたからであろうか。「やらかしたっ!」と小十郎は顔面を蒼白させた。

 しかしすぐに俺は、俺の考えが勘違いであることに気がつく。発言権の濃いあの方々とは違い、現状俺の側仕えという立場の小十郎がしたこの質問の意図は単なる興味だ。

 何故俺がそこまで拒むのか。その一点を純粋に聞きたいと思ったに違いない。


「そのような顔をするでない。まず第一に俺と高瀬姫では年が離れすぎている」

「では虎上様は如何でしょうか?あの御方は殿よりもお年は上のはずですが」


 思わず口に入れていた茶を吹きかけた。たしかに一度母より提案されたこともあった。救いだったのはその場に虎上殿がいなかったこと。


「虎上殿は無い。これは好き嫌いや年齢といった話では無く、井伊家の嫡流であることが問題だ」

「井伊家の嫡流でございますか?」

「虎上殿の父は井伊家の現当主にして今川を裏切り武田についた井伊直盛だ。今川家としては井伊直盛を許すことは出来ぬ。その血筋の者もな」

「・・・なるほど」


 これは母にも言った。直親殿のことは未だ知る人ぞ知る状態であるが、どちらにしても直盛が許されることは無い。虎上殿が許された理由があったとしても、何も知らぬ者らは糾弾するであろう。

 俺が側室としていれば井伊もろとも沈みかねない。対して直親殿の汚名はいずれ晴らされる予定である。だから虎松や高瀬姫を匿っているのだ。


「他には何か理由があるのですか?」

「一番は久以外を愛するなど無理だとわかっているからだな。もちろんそのような我が儘が通用する時代でないこともわかっている。しかし俺が一色の当主だ。それに鶴丸もいる。無理に側室を迎える必要もないだろう」


 かの有名な直江兼続だってお船の方だけを生涯愛し続けた。側室はいなかったはず。

 だから正室だけでいいと思う俺がいたって問題ないはずだ。


「殿のお気持ちがよくわかりました」

「それでこの話を聞いて小十郎はどう思った。俺がおかしいと思うか?遠慮はいらぬ、正直に話せ」

「はっ、・・・私は一色に仕える氷上家の人間です。ですので主家の衰退があっては困ります」

「よくわかった。遠回しにおぬしも俺に側室を持てと言っているのがな」


 慌てて否定をしようとした小十郎であったが、どうやら時間切れのようだ。慌てて廊下を走っている音が聞こえる。


「小十郎」

「は、はっ!」


 小十郎は襖を開けて、その足音の主を迎え入れた。


「如何した、時真」

「一色港が一向宗に取り囲まれたと報せが届きました!一揆が再びっ!」

「わかった。みなに出陣の支度をさせよ」

「ははっ!!」


 慌てて飛び出していった時真を見送った俺は小十郎を再び近寄らせた。


「妻を迎えたとき、おぬしもまた俺の気持ちが分かるはずだ。そのとき、改めて同じ事を問おう。答えが変わっていないことを願っているぞ。・・・さぁ、出陣だ!戦支度をせよ!!」


 小十郎は元服前のため、此度も大井川城にて留守番だ。

 まだ見ぬ世界を、これから出来るであろう時間でどう考えるか、それが楽しみだ。せめて俺の気苦労くらいは知ってもらいたいものだな。

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