第81話 井伊からの来訪者
暮石屋商会屋敷 氷上時宗
1563年夏
殿が今川館を出られてはや数十日が経った。
田植えの時期も終わり、各地で戦が起こるとすればまさにこれからという時期。事実、武田が美濃領へ侵攻したという話もあった。それに織田も動くであろう。悲願の美濃攻略のために。
しかし今川家当主の氏真様は井伊谷城の一件を宣言通り静観されておる。
不満を漏らす者もいるようではあるが、北条との盟約もあり現状は落ち着いてきたというところであろうか。
「して儂を呼ぶとは珍しいな。庄兵衛」
「政孝様が未だ越後におられますので、話し相手になって頂こうかと思いましてな」
「儂が相手では盛り上がる話などあるまいて。何やら相談があるのではないか?」
図星であったのか、やや苦しそうな顔で笑いおる。普段遠慮のない庄兵衛にしては珍しいことだ。逆に言えば、それだけ厄介なことが起きたということであろう。
「数日前に我が商会に尼が尋ねてきたのです。それもまだ自力で歩けるかどうかほどの幼子を連れた」
「どこぞの女に手を出したのか・・・」
「滅多なことを言わんで頂きたい。隣の部屋には妻もいるのですぞ」
あえて小さな声でからかったのが功を奏したか。しかし庄兵衛の関係者でないとすれば、一体誰が尋ねてきたのか。
そして何を其処まで困らせておるのか。
「・・・分からぬな。一体誰だ?」
「その尼、次郎法師と名乗りました。井伊谷城城主である井伊直盛様の娘であるようです。現在は龍泰寺にて出家し尼になったと」
「井伊の娘か・・・、ではその幼子とは?」
「直盛様の養子である直親様の子であると。直親様に、己が死ぬ前にどうかこの子だけでも逃がしてやって欲しいと頼まれたと言うております」
庄兵衛の言葉に、儂は言葉が出てこなかった。直親が死ぬ前。ということは己の命が残り僅かなことを悟ったということであろう。それが病なのか、はたまた別に理由があったのか・・・。しかし何故子を逃がす必要がある。これからは今勢いのある武田に属すことが決まっておるのではないのか?
儂には全く状況が理解できぬ。殿であればご存じなのであろうか。
「庄兵衛よ、まさか儂を呼んだのは」
「直親様は一色であれば信用出来ると言われたそうです」
「・・・儂には判断がつかぬ。1つ間違えれば一色も滅びかねぬわ」
「しばらくは私が2人を内密に保護しておきましょう」
「頼む」
庄兵衛の屋敷を出た儂はまっすぐ大井川城へと戻り、お方様の側にいる侍女初を呼んだ。
「頭領代理に話がある。急ぎ城に来るよう伝えてくれるか」
「かしこまりました。ではこれより参ります」
何も聞かずに初は部屋から姿を消した。静寂の後、儂のため息だけが聞こえる。
殿は儂ら四臣にも告げず、栄衆を使って何やら調べているようではあった。美濃と、そして井伊だ。
何も申されずに越後に向かわれたということは、おいそれと口に出して良いことではないのやもしれぬ。
氏真様は何か知っておられるのか?口止めをされた可能性もあるな。なんせ小野殿を井伊谷城へと派遣されたのは氏真様であるのだから。井伊谷城で起きていることを知り、そして静観を選ばれた。
不思議な話ではあるまいな。
さて・・・、他の者にも伝えておくべきであろう。少なくとも四臣の者らにはな。
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