第78話 名門武田家の跡取り

 躑躅ヶ崎館 武田信玄


 1563年春


「御屋形様、室町第にいらっしゃる公方様より使者が参られております」

「公方様から?一体どのような用向きか?」

「この文を」


 家臣である秋山あきやま信友のぶともより手渡された文には確かに公方様の文字でこう書かれておった。


『今こそ美濃の混乱を治めるときである。名門武田家の力もって美濃の平定に協力せよ。小里城には、正当な美濃の国主である土岐とき頼芸よりあき頼次よりつぐ親子を入れている。武田の力をもって旧斎藤家臣と、西美濃を不当に占拠しておる安藤某とやらを討伐するよう命ず』


 と書いてあった。

 ふむ・・・、力なき御方ではあるが随分と上からであるな。

 ワシはその文を控えている信友へと渡した。信友もその文を読みなんとも言えぬ表情をしておる。


「どう思う」

「某は美濃を攻めるべきであると」

「公方様のためか?」

「武田が上洛するために」


 迷わずそう言い切ったか。ワシも公方様のために兵を出すのはつまらぬと思うが、上洛のためというのであればやる気も出るというものだ。

 しかし足らぬな。何も足らぬ。


「兎にも角にもみなの意見を聞かぬ事には話が進まぬな。越後と飛騨、美濃との国境を守らせておる者以外を至急集めよ。重要な軍議を行うぞ」

「かしこまりました」


 信友はワシの前より下がっていった。側に唯一控えておった者、真田さなだ昌幸まさゆきである。この者の父である幸隆ゆきたかより人質として預かっておるのだが、頭がとにかく良いのだ。

 ただの人質としては勿体ないと言うことでワシの側に置いておる。


「昌幸、今の話如何思うか」

「美濃を攻略しても、甲斐の民が望む海を得ることが出来ませぬ。上洛を果たしても、民には何も意味がない。領民を蔑ろにすると、あとで痛い目を見るのは武家でございましょう」

「美濃へ行くのは反対か」

「美濃へ行くのであれば、井伊谷城から南下し遠江を獲る方が武田のためにはなります」


 やはり昌幸もそう思うか。

『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』か。

 己が目的のために、ワシを信じる全ての者を裏切るわけにはいかぬ。しかし公方様の言葉を無視することも出来ぬ。


「昨年高遠城へと入られた諏訪すわ勝頼かつより様を大将として美濃の平定戦に臨まれた方がよろしいかと」

「何故勝頼なのか」

「御嫡子義信様は八幡原の戦いにてめざましい活躍をされましたが、諏訪家をお継ぎになった勝頼様は未だ初陣を果たしておりませぬ。そろそろよろしいのではないかと思った次第でございます」

「初陣で大将は荷が重いが、それは経験豊富な家臣らを着ければ問題なかろう」

「それがよろしいかと。しかしこれはあくまで私個人の考えにございます。皆様がご到着された際には、十分にご相談くだされ」

「当然よ。誰も16になったばかりの者の意見をまともに聞かぬでな」


 昌幸は頭を下げたが、ワシは本気でこの案を採用しても良いと思っている。一度は滅ぼしこそした諏訪ではあるが、やはり潰したままにしておくには惜しい家柄。ワシに忠実な家として再興しておくが吉である。

 だからこそ勝頼には立派な諏訪家当主として振る舞って貰う必要があった。


「しかし美濃を落とすことが出来ようか」

「それは皆様のご活躍次第かと」

「ふむ、勝頼にはよく言い聞かせておかねばならぬか」


 まだ決まっていないことを本気で考えておったわ。

 それにしても昌幸は真に周りをよく見ておる。家中の事もそうであるが、井伊谷城城主である井伊直盛をこちらに寝返らせるよう助言したのもこの者であった。

 直盛の立場の悪さを指摘し、今川の当主である氏真の優柔不断さを突いた。

 現に明らかに今川から離れた井伊を野放しにしている始末。やはり今川との盟を切り、駿河と遠江を奪う方が先ではないか?


「ワシの話し相手になって貰って悪かったな。少し休む。みなが来るのが楽しみだの」

「まこと、そのとおりにございます」


 昌幸を部屋へと残して自室へと戻った。

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