第五集 絶望の果てに

 趙娥ちょうがは目を覚ました。


 むき出しの岩を手彫りで堀った天井が目に入る。頭を傾けると塗り固めた土壁が見えた。枯草を敷き詰めた簡易な寝所に寝かされ、体には麻布が掛けられていた。


 部屋自体はそこそこの広さがあり、手作りと思われる木組みの家具が点在し、燭台なども置かれていた事から、誰かの住居だと察する事が出来た。

 部屋に他の人影が見えないが、木でできた扉は開放されていて、閉じ込められているわけではないようだ。その扉の向こうからは陽の光が差し込んでいて、日中だと分かる。その陽光も決して強くはなく、日陰になるような場所に立てられた住居なのだろう。


 全く見覚えのない場所。自分は何故ここにいるのだろうか。

 趙娥は体を起こすが、体のあちこちから痛みが走った。


「おや、目が覚めたかい?」


 趙娥が半身を起こした所で、扉から白髪の老人が入ってきた。顔の皺も深く、髪も真っ白なその老人は、服装や髪型などから漢人と分かるが、服は何年も着潰した物と見え、あちこちに繕った跡がある。


「私は、どうしてここに……」


 素直に疑問を口にする趙娥に、老人が答える。


「ひとり砂漠で倒れてたんだよ。他に人はいねぇし、まだ息はあるようだしで、まさか放っとくわけにもいかんだろうよ。仕方ねぇから俺の家まで運んで寝かせてたってわけさ」


 軽快かつな老人の喋りは、若い頃から粗野な暮らしをしていたであろうと想像される。


 趙娥はそれを聞いても、思い出せなかった。

 西門恪さいもんかくが出て行ってしまって、どうでもよくなって。そこで記憶が途切れていた。

 聞けばここは会水かいすいの近くというから、禄福ろくふくから百里(約四二キロ)以上も砂漠を横断したという事だ。


 老人は杯に白湯さゆを入れて渡してくれる。


「歩けるようになったら、家に帰りな。家族だって心配してるだろうしな」


 優しくかけてくれた老人の言葉に、改めて自身の境遇が走馬灯のように駆け抜けた趙娥は自然と涙を零した。困惑する老人に、趙娥は呟くように言った。


「もう無い……。帰る場所も……、待ってる家族も……」


 老人はどっかりと腰を下ろすと、自らも杯を傾けつつ言う。


「何だったら話を聞くぜ。話したくなきゃいいけどな」


 初めは迷ったが、今更もう誰にはばかる物でもなければ、傷が癒えるまで時間はあるのだ。趙娥は暇潰しと割り切って老人に自分の過去を語って聞かせた。


 父や兄と過ごした幸せだった子供時代。

 父が李寿に殺された事。

 三人の兄が流行り病で全員死んだ事。

 仲介人・張鋒ちょうほうとの交渉の事。

 そして、西門恪との結婚の事。


 半日ほどかけて全てを話し終えると、老人は大きく頷いて言う。


「確かに出口のない人生だわな……。ひとつだけ道があるとすりゃ、その李寿って野郎を、お前ぇさん自身の手で討つ事だろうよ」


 趙娥は鼻で笑った。


「女の身で、強壮の男を殺せと言うのですか……」


 それは家で短刀を見つめながら何度も考えた事だ。しかし武辺が轟いている李寿と戦って勝てる見込みなどなかった。

 だが老人は笑みを崩さぬまま趙娥に訊く。


「お前ぇさん、越女えつじょ伝説って知らねぇのかい」


 趙娥には初耳だった。


「越女……。越と言うと」

「そう、遥か東南にあった、あの越国の事だ」


 それは数百年前、春秋時代の呉越戦争の話である。

 不倶戴天の敵として憎み合った、越王句践こうせんと呉王夫差ふさは多くの逸話を残す。互いに敗戦の屈辱を忘れまいとした夫差の臥薪がしん、句践の嘗胆しょうたんなどはその筆頭だろう。


 そんな越王句践が、呉との最終決戦に臨むに際し、国力も兵数も万事揃ったが、兵士の練度に大きな開きがある事を嘆いていた。当時の呉国は、『孫子兵法』の著者として名高い孫武そんぶが先王に仕えていた事もあり、その練兵は国内外に轟いていたからである。それが決戦への決断を鈍らせていたのだ。

 そこで軍師・范蠡はんれいに剣の達人を探させ、遂に見つけたのが何と若い女だったという。


 句践に謁見した女は豪語した。私は百人の兵を相手に勝てる。もしも私と同じ剣技を会得した者が百人でもいたなら、それだけで一万の軍を打ち破れると。


 初めは冗談と受け取って笑い飛ばした句践であったが、その女は証明してみせると言って、げきを持った百人の兵を用意させ、一斉に斬りかからせた。

 すると目にも止まらぬ速さで次々と兵士たちの戟を叩き落とし、遂には全員の戟を破って見せた。

 その間、兵士たちは誰一人として女に傷を与える事が出来ず、また女は誰一人として殺していなかった。これは殺すよりも遥かに技術のいる事だ。


 感服した句践は、その女を師範に任命して兵の調練を任せ、遂に越国の軍は精強になり、宿敵たる呉を滅ぼす事に成功したという。


 師範としての任を全うした女は、句践の後宮に入る事を望まれたが固辞して故郷に帰ってしまった。後に句践は多くの者に行方を探させたが、そのまま二度と見つからなかったという。


 その女の名前は後世に伝わっていない。

 これが越女伝説である。


 趙娥は話の中の句践と同じく訝しんだ。それは本当の話なのかと。老人は不敵に微笑んで答える。


「さぁ、越女が実在したのかは分からねぇな。だがその剣の極意は実在する。ここにな」


 そう言って老人は腰にいた直剣を鞘ごと抜き取ると、これ見よがしに床を叩いてみせた。


「お前ぇさん、このまま野垂れ死ぬくらいなら、みる気はねぇか」


 こうして趙娥は、人知れず砂漠に住む老人に弟子入りし、必殺の剣を学ぶ事になった。

 その老人は、自分は過去を捨てた身だと言って、最後までその名を明かさなかった為、趙娥はただ「師父しふ」とだけ呼んだ。

 その後のおよそ十年間に及ぶ修行の日々は、趙娥にとって充実した物となった。


 過去を失い、現在に見捨てられ、未来を閉ざされた趙娥は、全てを失い砂漠を放浪した果てに、一縷の希望を見出したのである。





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