第四集 閉ざされた未来

 闇の仲介人と呼ばれる張鋒ちょうほうに諭されてから、もうどれだけ経っただろうか。趙娥ちょうがは未だ、仇討ちへの思いを捨てきれずにおり、禄福ろくふくから立ち去る事をしなかった。


 そんな趙娥の噂を聞いて、近所の人たちも代わる代わる食事の世話などを気にかけてくれたお陰で、何とか生活を繋いでいたのだが、趙娥が父の仇討ちを諦めていないと知ると、皆が口々に止めた。馬鹿な事を考えるんじゃない、敵うわけがないと。


李寿りじゅが生きている限り、私がどこで生きようと、この心が晴れる事はありません。いつの日か必ず仇を報じてみせます」


 周囲の者から考え直すように言われる度に、趙娥はそう答えていた。


 それから間もなくの事、趙娥は一人の青年と出会った。

 西門恪さいもんかくというその青年は、出会った当初から剣の腕には自信があると折に触れて言っていた事もあり、趙娥は自らの過去を話して聞かせた。


 西門恪は趙娥の話を聞きながら、共に怒り、共に涙してくれた。

 ずっと独りで抱え込んでいた趙娥は、ようやく理解者が現れてくれたという喜びに満ちた。彼もまた家族を失い孤独に生きているという事で更に共感する所も多く、恋に落ちるまで時間はかからなかった。


 数カ月を共に過ごし、自然な成り行きとして婚姻の話も浮上する。


 もしも仮に西門恪が李寿を討ち取ったとしても、趙娥と赤の他人のままでは仇討ちは成立しない。しかし婚姻を結ぶ事で、それは堂々と義父の仇を討つ事になるのだ。


 そして趙娥は西門恪の妻となった。

 孤独な身の上の者同士、二人だけで廟に赴き、神前で誓いを交わす簡易な婚儀であった。

 そしてその晩、趙娥は西門恪に己の貞操を捧げた。


 悲惨だった人生も、ここから明るい未来へと昇っていくことが出来る。


 


 婚儀を済ませた後の西門恪は、来る日も来る日も趙娥の体を求めるばかりで、一向に仇討ちに向かう様子が見られない。


 初めの内は、仇討ちの為の下準備なども必要なのだろうと思っていたのだが、毎晩のように酒楼さかばで騒いでは酔って帰宅する。そこに悲壮な覚悟がほとんど見られないのだ。


 趙娥が意を決して話しかけようとしても、そのまま唇を塞がれ、寝所に押し倒される。西門恪の剣の腕という物を、趙娥は一度も見た事が無かったが、とこの腕は確かであった為、そのまま煙に巻かれてしまう事が続いた。


 そんなただれた生活がしばらく続いた後、西門恪は突然、禄福から隣県の玉門ぎょくもんへ引っ越しをすると言い出したのである。趙娥は耳を疑った。それも相談ではなく、既に決定済みという口調で、何の未練もなさそうに。


「ねぇ、仇討ちは……」


 混乱する頭で、ずっと言えなかったその言葉をようやく発する事が出来た趙娥。それを聞いた西門恪が一瞬だけ覗かせた嫌そうな目が、趙娥の心に突き刺さる。


「いつまでも過去に縛られてないでさ。乗り越えて新しい人生を始めるべきだと思うよ。亡くなった父上も、きっとそう願っているはずだよ」


 西門恪は笑顔でそう言った。

 初めて出会った時、趙娥の過去への共感は確かにあったのだろう。だがその先の結論が、趙娥の考えている物とは全く逆だったのだ。きっと初めから。


「だったら何故……、私との結婚なんて申し出たの……」


 それが最も訊きたい事だった。仇討ちの覚悟を共にしてくれると思ったからこそ、夫婦の契りを結んだというのに。


「君にはそんな事、忘れてほしかったんだ」


 優しくも悲しげに微笑んだ西門恪は、震える趙娥を抱き寄せて、いつものように唇を重ねた。

 だが趙娥はその瞬間に鳥肌が立った。


 この男はずっと自分を騙していた。騙し続けながら、毎日毎日、体を貪っていたのだ。そう思い至ると、今まで体を重ね続けた事も、それに幸せを感じていた自分自身さえも、趙娥には不快極まりない物へと変貌した。こうして今自分の唇をついばんでいる物も……。


 突然走った激痛に思わず飛びのいた西門恪。趙娥が唇に噛みついたのである。

 押さえたてのひらを見れば、真っ赤な血が滲んでおり、彼の口元からも未だに流れ続けている。


 息を荒げて睨みつけている趙娥に、西門恪は怒りのままに殴りかかった。

 突然の衝撃に視界には星が飛び、聞こえる音も遠のいて、その場に倒れ込む趙娥。西門恪はなおも馬乗りになって殴り続け、感情のままに不満をぶつけた。


「この気狂い女め! そもそも相手は! あの李寿だぞ! 勝てるわけが! 無いだろうが! そんなに! 死にたいなら! ひとりで死ね!」


 何度も何度も顔を殴打された趙娥は、髪が降り乱れ、鼻や口からは血を流し、青痣まで出来ていた。意識は虚ろなままだったが、失ってはいなかった。

 一方の西門恪は立ち上がると、床に倒れ伏した趙娥を放置したまま、荷物をまとめて家を出て行った。



 趙娥が身を起こしたのは、それから半日以上経ってからだった。

 或いは頭が冷えた西門恪が、戻ってきて謝罪してくれるかと思った。いやそう願っていた。そうしてくれたのなら、そして改めて仇討ちの方策を一緒に考えようと言ってくれたのなら、やり直してもいいと思っていた。

 しかし何日待っても、西門恪が趙娥の元に戻ってくる事はなかった。


 これは俗に言う、離縁されたという物であろうか。



 こんな事なら、仲介人の張鋒に掛け合った時に、身売りしてしまった方がまだマシだったのではなかろうか。それならば少なくとも仇討ちは果たされていたであろうから。

 しかし今となってはもう後の祭りだ。

 自分はもうとっくに、生娘きむすめでは無いのだから。


 趙娥は不思議な事に笑いが漏れていた。何故だか自分でも分からない。己の男を見る目の無さにか、それとも堕ちる一方の自分の人生そのものか。

 何と滑稽なんだろう。


 もう全てが……、どうでもいい……。





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