第三集 非情なる現実

 趙娥ちょうがが兄の埋葬を終えて間もなく、ある噂が耳に入ってきた。

 李寿りじゅ酒楼さかばで祝杯を挙げたというのだ。


「天は我に味方をした。趙家の男は全滅。もう小娘しか残っていない。これで


 李寿はそう語ったという。


 趙娥は今まで心のどこかに疑念が残っていた。憎い相手である事に変わりはないが、本当に父を殺したのは李寿なのかと。しかしこの話を聞いた事で確信を持つに至った。やはり李寿が父を殺したのだと。


 だが一体どうすればいいのか。

 腕の立つ強壮な男を相手に、他に頼る者もない十二歳の小娘に何が出来るというのか。李寿が言ったという言葉が、趙娥の目の前に現実として突き付けられた。



 絶望の内に数日を過ごす中で、趙娥はふと「闇の仲介人」と呼ばれる男の噂を思い出した。必要な金さえ揃えれば、それが例え裏の仕事であろうと、相応の人物を紹介してくれるという話だった。


 その話を初めて聞いた時には、今後の人生に於いて関わり合う事も無いと聞き流していたが、事ここに至っては藁にも縋る思いである。街でそれとなく訊いて回ると、北に十里ほど行った砂漠に居を構えているという情報を手に入れた。

 紹介してくれた人からは、子供が会いに行くような相手じゃないと釘を刺されたが、趙娥に聞く耳は無かった。もう他に手などないのだから。



 決意を固めて禄福ろくふくの県城から出た趙娥は、太陽の位置から北の方向を判別して砂漠を歩いていく。

 仮に北山ほくざん山脈を越えた先にある戈壁ゴビ砂漠であったならば目印などほとんどない一面の砂だったであろうが、幸いな事にこの近辺は目印となる巨岩が点在し、小さな泉やその周辺の林なども見つかる。


 それらを辿るようにして半日ほど歩くと、話の通りの場所に茅葺かやぶきの小屋を見つけた。陽が暮れる前に目的地に到着し、すぐに仲介人の男に会う事が出来た。

 四十手前といった風貌で、鋭い眼差しが印象的なその男の名は、張鋒ちょうほうと言った。



 張鋒は、決して小娘などと侮る事はなく、真剣な眼差しで趙娥の話に最後まで黙って耳を傾けた。趙娥が一通りの経緯を話し終えると、静かに訊ねる。


「それで、いくら出せるんだ」


 趙娥は手持ちの銭など持ち合わせてはいなかったが、家族五人で暮らしていた家の家財道具を売り払えば、それなりの金額になると思った。そしてその旨を伝えると、張鋒は自ら禄福まで出向いて見積もりを取ってくれるという話になった。

 今日はもう日も暮れるという事で、張鋒の小屋で一晩泊めてもらい、翌朝すぐに禄福へ向けて出発した。


 再び半日ほど歩いて禄福の自宅に辿り着き、家中を歩き回って家財道具を確認していく張鋒の一挙手一投足を緊張の面持ちで見つめる趙娥。

 そしてその結果……。


「二束三文だな。全て売っても」


 趙娥はその言葉に凍り付いた。

 ようやく見えた唯一の希望が目の前で崩れていく。


「あの……、お願いします!」


 どうにかならない物か。真っ白になった頭で、何とか口から出た言葉がそれであった。だが張鋒は冷たい視線で見つめ返すと、表情を崩す事なく言い放つ。


「お願いされても困る。私は所詮ただの仲介人だ。暗殺という仕事は己の命を危険に晒す。そんな仕事を、二束三文の報酬で紹介などできん。信用に関わる」


 張鋒は子供だという理由で趙娥を侮る事はしなかった。だが同時に子供だからという理由で同情もかけなかった。一人の大人として扱うというのは、そういう事なのだ。


 手荷物をまとめて帰ろうとする張鋒に、なおも縋りついて引き留めようとした趙娥に、張鋒は溜息を吐きながら言う。


「手はひとつだけあるが……」


 趙娥は目を輝かせて次の言葉を待った。


「ここの家財道具なんかよりも遥かに価値のある物を、お前は持っている。何だか分かるか」


 その言葉に困惑し、辺りを見回す趙娥だったが皆目見当がつかない。張鋒に改めて問い直すと、しばらくの間の後に答えが返ってきた。


だ」


 趙娥は思考が停止した。一体何の事を言っているのか。

 張鋒はなおも続ける。


「分かるだろう。お前みたいな若い生娘きむすめならば、娼館に売れば高値が付く。その金額なら充分に暗殺者を雇える。或いはその暗殺者自身に、お前を奴婢ぬひとして買ってくれるように頼む手もある」


 儒教の価値観が絶対視されていたこの後漢の時代では、女性の貞操とは現代とは比べ物にならぬほど重い物であった。婚前に処女を捨てた者は、それが判明するだけで婚約を破棄される事もある。既婚者が不倫を働けば罪に問われ、例えそれが強姦であったとしても離縁される事すらあったのである。

 当然ながら他人に体を売る娼妓しょうぎは、賤民せんみんとして身分自体が格下な物として扱われ、一般的な結婚などは二度と望めなくなる。そして当然ながら、奴婢として人に買われるというのも、自ら賤民に落ちるという事であり、どちらも普通の生活には二度とは戻れないと言っても過言ではない。


 趙娥もまた年頃の少女である以上、漠然ながらいつかは好いた男性に嫁いで家庭を持つという事を想像していたわけだが、その選択はそうした将来を自らの手で閉ざす事を意味していた。


「私は……、娼妓じゃない……」


 色々な想像や感情が頭を駆け巡り、震える唇で何とか発した言葉がそれだった。張鋒はその言葉を聞くと趙娥の肩を掴み、まるで言い聞かせるようにゆっくりと力強く、正面から言い放つ。


「だったら復讐など諦めろ。そこまでの覚悟が無いのなら、どこかへ移り住んで、過去を忘れ平穏に暮らせ」


 張鋒が肩から手を離すと、趙娥は脱力して膝から崩れ落ちた。

 父や兄の無念を思えば、ここで仇を討たずにどこかへ逃げた所で、決して忘れる事などできない。平穏な生活など送れるはずはない。死ぬまで悔恨の念に苛まれ続けるだろう。だがそれで自らの将来を、死ぬまで賤民として蔑まれる人生に堕とす決心はつかなかった。

 放心したまま脳内で延々と自問自答を続ける趙娥を尻目に、張鋒は去り際に声をかける。


「ここに少しだけ銭を置いておく。贅沢をしなければしばらくの食費なり旅費なりになる。俺に出来る事はこのくらいだ。……お前の人生だ。よく考えて決めるがいい」


 そうして張鋒は立ち去っていった。

 趙娥は兄の最期の言葉を思い出す。漢陽かんよう郡の親戚の元へ行け。そこで過去を忘れて生きろと。あの時は背伸びをしてその選択肢を拒絶した。今もまだ拒絶したい。だが趙娥には進むべき他の道が見えなかった。


 かつて家族と笑って過ごした家。

 今はもう誰もいなくなった家。


 そこに独り残された趙娥は、大粒の涙を流し、夜が更けるまで泣き続けた。





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