第二集 奪われた過去

 それはまだ趙娥ちょうがが幼かった頃の話。

 正確には思い出せないが、まだ桓帝かんていの時代(西暦一四七年~一六七年)だったのは確かであるというから、十二年以上前の事だ。


 父の名は趙君安ちょうくんあんと言った。

 元はりょう州東部である漢陽かんよう郡の生まれであるが、永初えいしょの大乱(西暦一〇七年~一二六年)や永和えいわの乱(西暦一三九年~一四四年)といった、漢人ときょう族との間で起こった戦争が終わった後に酒泉まで移住して開拓に従事。豪放磊落な典型的肉体労働者であった。

 元より病弱であった母は、四人の子供を産んだ後に亡くなっている。趙娥はその末娘で兄が三人いた。

 そんな男ばかりの家で末っ子として可愛がられた趙娥が、気の強い娘として育ったのは必然と言えた。


 ある時の事、父の趙君安が禄福ろくふくの通りを歩いていると、腰に刀を携えた若い男が気弱そうな商人の胸倉を掴んで怒鳴りつけている所に出くわした。擦れ違いざまにぶつかった等のくだらない理由で金品を脅し取ろうという、いつの世にも見かける光景である。

 道行く人々は憎々し気な視線を送るも、自身が巻き込まれる事を危惧してか咎める者がいなかったのだが、義侠心の強かった趙君安はそこに割って入り、若者を叱りつけたのである。

 その若者こそが、件の李寿りじゅであった。


 趙君安が商人を逃がした事で、その口論は彼と李寿の物へと変わる。互いに一歩も引かず、遂に李寿が腰の刀に手を掛けようとした時、数人の巡回兵を伴った県尉けんい(保安官)がその場に現れた。

 それによって口論は収束したのであるが、これが全ての始まりとなった。



 趙君安が殺害されたのは、それから間もなくの事である。

 夜が更けても帰宅しない父を心配して探しに出た長男・趙伯文ちょうはくぶんが、夜道で血を流して倒れている趙君安を発見した。県尉が調べた所、それは背後から刀で斬りつけられた物であり、目撃者はいなかった。


 趙君安の遺体が運ばれていく様子を城市まちの住人たちが人だかりを作って見つめるその中に、不敵な笑みを零しながら見つめる李寿の姿を見た趙伯文は、父を殺害したのは李寿であると察した。県庁に訴え出るも、物的な証拠が何ひとつないという理由から、役人たちは一切調べようとはしなかった。


 そこで趙伯文は、二人の弟と共に李寿による殺人の証拠を掴もうと独自に活動を始めた。しかし李寿は元より表立った犯罪行為を起こさない慎重な男であり、それゆえに役人たちも容易に手が出せなかったのだ。素人の若者三人が少し尾行した所で、明確な証拠など掴めようはずもなかった。


 折しもその頃、酒泉郡を中心に伝染病が流行しており、趙家の三兄弟が全員その病にかかってしまったのは正に不運としか言えなかった。


 長男・趙伯文、次男・趙仲武ちょうちゅうぶが既に息を引き取り、三男の趙叔傑ちょうしゅくけつも、もう間もなく限界を迎えるという時。

 独り残されるであろう趙娥を寝台に呼び、父の故郷である漢陽郡に親戚がいるはずだから、そこに行けと告げた。だが趙娥は兄の手を取って首を振る。


「この病禍にあって、李寿は未だ健在です。父上の仇を報ずる事なく生き延びて、どうして私が平穏に暮らせると思いますか。例えどれだけかかっても、私が必ず仇討ちを成し遂げてみせます」


 眼に涙を浮かべる事もなく、精一杯に背伸びをして発した妹の言葉を聞いた趙叔傑は苦笑する。


「お前は、本当に……」


 趙叔傑は最後まで言い終える前に力尽きた。

 その後に続く言葉は一体何だったであろうか。馬鹿な妹、強情な妹、強い妹、自慢の妹。趙娥は頭の中でその全てを受け取った。いずれであろうと仇討ちを諦める事は無かった。握っていた両手の力を緩めると、既に脱力した兄の腕が抜け落ち、床へと垂れ下がる。


 そして趙娥は、三人の兄の遺体を父と同じ場所に埋葬した。誰の助けも借りず、両手も服も砂に塗れながら、たった一人で墓穴を掘って。


 墓碑銘も何もない、天然の石を重ねただけの、簡易な墓石が四つ並ぶ。


 物心ついてから共にあった家族を全員失い、ただ独り、生き地獄に取り残されてしまった事を、趙娥は実感した。悲しみの感情が濁流のように押し寄せ、歯を喰いしばって耐えても、両の眼から涙が溢れ出す。

 趙娥はここに至り、家族の死に初めて涙を流したのであった。





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