ノアの箱舟
三笠るいな
ノアの箱舟
私の名前はブランカ。両耳は黒いけど全身を真っ白な毛皮に包まれた雑種犬だ。今日も飼い主のベルタと一緒にバスに乗って山のふもとにある公園に行くところだ。ベルタは現在自宅でテレワーク中。私はそんなベルタと一日中一緒にいられるのが嬉しかった。
爽やかな春晴れの朝だった。
バスには盲導犬のチャビが乗っていた。床に伏せて目を閉じている。いつものように考え事をしているようだった。
―おはよう、チャビ。パンデミックのせいでどこも大変みたいね。
―あぁ、ブランカか。
チャビは、片眼を開けて私を見た。
―まったく……、人間ってのはおろかな生き物だよ。
以前は私の口を覆う銃口をからかっていたチャビも、最近は何も言わなくなった。銃口を付けているのは、もはや私だけではない。バスの乗客も街を行く人々も皆平べったい布で口と鼻を覆っている。もっとも、その布は銃口ではなく、マスクと呼ぶそうだが。
―君たちは今日も公園に行くのかい?
―そうよ。あなたたちは学校に行くのかしら? あなたの飼い主はずいぶん勉強家ですものね。
フン、と鼻から息を吐いてチャビはそっぽを向いた。
―僕は学校なんかに行きたくない。あんな所に行っても退屈なだけだ。
―じゃあ、どこに行きたいの?
―このままずっとバスに乗っていたい。今朝は特にそう思う。なぁ、ブランカ。このバスの乗客を見てみろよ。人数も乗客数も理想的じゃないか。
私はバスの車内を見回した。二両編成の連結バスの中にいる乗客数は30~40人くらいだろうか。皆物静かできちんとした身なりをしている。
―何が理想的なのかしら。
―鈍いね君も。
と皮肉な笑顔を浮かべてチャビは説明を始めた。
―人間の集団って言うのは、大人数になればなるほど沢山の問題が起きる。社会って言うのは最低30人くらいいればちゃんと成り立つんだ。僕が知る限り、今朝の乗客は皆ある程度の知性と教養を備えている。頭が良すぎてずる賢い人もいない。年齢も職業もまちまちだ。男女の数もちょうど半々。それなら僕たちだけで十分に幸せな社会を形成できる。それにバスのドアを開けなければ、これ以上余計なビールスも入って来れないじゃないか。あぁ、このバスがノアの箱舟だったらいいのに! そうすれば、いつまでも走っていられる。理想の土地が見つかるまで。
高度な教育を受けた犬だけあって、チャビはとても物知りだ。だけど、文句が多くて極端な事を言うことがある。
ベルタにリード線を引っ張られたので、私はチャビに別れを告げた。バスが停留所に着いたのだ。
―さようなら、ブランカ。今度会った時に君の意見を聞かせておくれよ。
―わかったわ、チャビ。またね。
バスを降りようとすると、背中を誰かに触られた。母親に連れられたよちよち歩きの赤ちゃんだった。振り返ると、チャビがそんな私たちを寂しそうな目で見つめていた。盲導犬である彼の背中には、「私に触ったり、エサをあたえないでください」という注意書きの札が取り付けられている。
【この公園は当分の間閉園します】
私たちがいつも遊んでいた公園の扉が固く閉ざされていた。おまけにあれほど晴れていた空が曇りだしていた。強く吹き出した西風が驟雨を連れてきそうだった。私たちは公園の周りを一周して帰ることにした。
公園の内側で鳥たちが鳴いている。私たちは金網越しにポプラとプラタナスの木に囲まれた芝生の広場を覗いた。いつもは犬たちがじゃれ合って遊んでいた場所を小鳥たちが我が物顔で跳ねまわっていた。悔しいと思うと同時に、もしかしたらもともとそこは鳥たちの遊び場所だったのかもしれないと思った。
芝生の広場のとなりには、最近作られたばかりの花畑がある。【犬と人、立ち入るべからず】の札が立てられている。植えられたばかりの草花を守るため、花畑はさらに青いネットで囲まれていた。ところが、見るとその花畑はすっかり荒らされていたのである。ところどころが盛り上がって赤茶色の土があふれ出している。モグラのしわざだ、と私は思った。
いくら囲いで覆っても、モグラは地中から侵入して草木の根をかじってしまう。せっかく育ち始めた花畑もこのままなら全滅してしまうだろう。私ならモグラを追い出すことができるのに、閉まった扉のせいでそれもできなかった。
―ノアの箱舟なんか要らない。
チャビにこう言ったら、
―君は何もわかっていない。
と呆れられてしまうだろうか。それでも私は、誰にでも扉を開いてくれる箱舟の方が良いと思った。
ノアの箱舟 三笠るいな @mufunbetsunamonozuki
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