最終話 お降りのお客様はお忘れ物のないよう、ご注意ください。



覚えていることなんてないと思ったが、半開きになっていた記憶の棚をこじ開けると奥には彼女の言う通りのものが引っかかっていた。


僕も相当酔っていた。だけどあれきり女の子と、なんてことは一度もない。ベッドの軋む音をただ聞いているだけの、酔いが冷めた自分の白々しさにようやく納得がいった。


「大胆というか、度胸があるね」


「大学生なんてそんなもんですよ。男の人だけが女の子を狙ってるとは限らないんです」


くすくすと笑ってみせる仕草が記憶の中の彼女と、「ゆり」とがダブってようやく頭が理解する。確かにあのときの、僕の手を引いたその人だ。


「だから責任ならわたしにあります。春樹さんは悪くない」


「事実はそうだろうけど、世間的にはわからないよね」


「そうですね、春樹さんわたしのこと置いていったし」


それはごめん、と頭を下げると、責任はわたしにって言ったでしょう、と返される。過去の相手と、こうして友達みたいに話していることが不思議で仕方なかったがなぜか心地良く思う自分がいる。今後彼女とはどうともならないという安心感で、不必要な駆け引きを取り去ったからだろうか。


首都高を走るバスがカーブに差し掛かっても、隣の席に座るの彼女と肌が触れることもない。瞬間的に近づいて、離れて、また少しだけ近づく。



ポケットの中のスマホが震えた。ディスプレイには陽介の名前と僕を心配する言葉。眠れないバスの中で退屈していないかと問うメッセージを眺めて、すぐに閉まった。嫌な優越感に満足したくなかった。


この言葉は、僕には毒だ。



「また不幸そうな顔してる」



会話を続けようとした僕に、由利さんが言った。運転席上の電光掲示板には『ご体調の優れない方は運転主にお申し付けください』と流れていた。


「わたしがどうしてあのとき春樹さんに近づいたか、わかりますか?」


「、わからないけど」


「春樹さんとなら、うまくやれるかもって思ったからです。わたしも、一人だったから」


何か言いたかったけれど、笑顔の消えた由利さんの表情は人形のように浮いて見えて、茶化すような言葉を許さなかった。


「酔わなきゃ誘えるはずもなくて、あのときは本当に最初で最後のチャンスだと思ったんです。そうしたらあなたはわたしがしたいように、最後まで付き合ってくれた」


違う、もっと自分勝手な気持ちだった。僕の、自分のための行為だったはずと思うのに、酔いの冷めた自分はただ終わるのを待っていた気もする。自分がわからなくなる。


彼女の方が自分を知っているんじゃないかなんて、そんな気さえしてしまう。ただ由利さんの手は少し震えていて、握った爪の先には色がない。その血色のない手を僕は自分の指先で何度も見ている。


「あなたの恋人に、なりたかったの。でもしてる間中、春樹さんすごく不幸そうな顔してた。すぐにわたしじゃダメだってわかりました」


「買い被りすぎだよ。僕は何も考えてなかったし、君がダメなんてことなかったよ」


「ほら、またそうやって自分のせいにする」


彼女の人差し指が線となって僕に突き刺さり、知らないふりをしていた何かに刺さる。自分のせいになんてしていないけれど、自分が悪いのだ。友達と同じになれない性質も、うまく人と関わり合えない侘しさも、全部自分の悪癖だ。そんな僕は不幸そうな顔をしていなくちゃ、



「でも、春樹さんにはもうそんな顔しなくてもいい人がいるんでしょう?」


「いないよ、そんな相手」


「嘘、わたし春樹さんのこと好きだったって言いましたよね。好きな人のことはわかります。春樹さんだってそうじゃないですか?」



しまい込んだスマホが震える。連続して何度も、陽介の名前が表示される。本当は筆不精の癖に、こんなときばかり勘違いしないようにと作った壁を軽々と超えてくる。


友達でも恋人でも、誰も僕を好きになんてならない。僕は誰も好きになんてならない。その壁を彼が超えたから、僕は触れ合いもない男友達の結婚式にのこのこ呼ばれていって、自分に渡せる精一杯のお祝いの言葉まで考えている。


不毛だ、こんなものは。でも嬉しい、好きになれたことが嬉しい。




「そうだね。僕もそうだった」




彼女の言う通り、自分には誰にもいないなんて、そんな顔はやめるべきだった。




「わたしはちゃんと幸せになりますよ。春樹さんも、なれるかもしれないでしょ」


「かも、なんだね」


「それは運命の赤い糸と、自助努力ですから」


相反する言葉に笑ってしまった。本当にその通りだと思う。



「あの、おめでとう、ゆりさん」


「ありがとうございます、はるきさん」



その夜は色んなことを思い出した。陽介が好きだと気づいたとき、僕は彼に軽蔑されるのが怖かった。そんな風に思うようなやつじゃないのに怖かったのは、それが自分でも驚くほど純粋な恋心だったからだ。


それからは彼の息遣いが、話し声が、隣りにいるだけで安心感を与えてくれた。たくさんの緊張と勘違いを繰り返しながらも、それらすべてが愛おしくなった。


黒々しく渦巻く嫉妬と諦めの中にまるで中学生の恋のような、自分でも笑ってしまうくらい初々しい気持ちの数々が残っていたなんて。



彼女はそのあと僕からは見えない席に座り直し、東京最後の夜を過ごした。僕の方は陽介に「大丈夫だよ」と返信したところで記憶が途切れていて、すべての緊張の糸が切れたみたいに夢を見た覚えもない。仙台に着くまでのいくつかの停車場でぼんやり目を覚ました気もするが定かではなかった。


結局彼女がどうして僕に声をかけたのか、聞くのを忘れてしまった。だがまるでかつての恋人みたいに暖かなその眼差しが、聞くことに意味などないと教えてくれる。



『お次は仙台駅前。仙台駅前。お降りのお客様はお忘れ物のないよう、ご注意ください』



人よりもずっと遠回りをしている。はじめて見る顔に慰めを求める夜もたくさんあった。


だけど全部が愛おしいと思える日が来ると、信じられる夜もある。



僕は朝焼けの仙台駅に立ち、目尻を拭ってから歩き出した。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

東京駅発、夜行バスの恋人。 七屋 糸 @stringsichiya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ