くろいかぜのものがたり
名堕トシ
序章 雨が去る
中華の国、時は宋代の話。
とある小さな町では、早朝から役場の前に、百人にも届こうかという数の町民どもが押し寄せていた。これから流刑に処される、妻殺しの罪人を一目見ようと集っているのだ。小雨が富豪も貧農も等しく濡らしているが、皆、それを厭うそぶりすら見せない。示し合わせたように伏し目がちで、しかし、間もなく開くのであろう役場の大きな鉄扉を、それぞれ胸に思いを抱いて見つめている。
「押司(おうし)様だ」
町一番の暴れ者の張(ちょう)が、だみ声で言った。怒鳴る、という程の大声ではなかったが、雨音の遮りを抜け、その場にいる全員の耳に届いた。それを合図に、皆が罪人に一方的に声を掛けだした。更にそれを無念の溜息が追う。
「宋江(そうこう)様」
「宋押司どの、何ということ……」
護送の役人二人に脇を固められ、小男がとぼとぼと歩き出てきた。木製の枷を首にはめ、両手は後ろに縄で縛られ、自然、頭を前に差し出すような体勢。小男の元来冴えない風体も相まって一層惨めに映る。小男は表情を一切動かさない。自分を取り囲む皆の声が聞こえているのかいないのか、浅黒く、小さなシミが目立つ顔を雨がつたうに任せていた。
「膝を折られよ、宋江殿」
役人に促され、素直に地に膝をつける。皆の嘆く声が一層大きくなった。生き仏さまとか、宋江様は悪くねえだとか、何の御恩も返せていないだとかいった声が混じる。
その後、開いた鉄扉から何とも大儀そうに出てきた代官が、手に持った罪状を抑揚の乏しい声で読み上げる。
「宋江。その方は民を安んじ、町の規律を司る押司という官職につきながら、小さな諍いから自らの妻を殺し、その後逃亡……」
その間に代官への罵声や慈悲を求める叫びも飛ぶが、場にいた役人の誰一人、それを咎めようとはしない。そして、事の張本人である宋江を罵倒、非難する声はただの一つもなかったのである。
「……なれど、この度畏れ多くも皇帝陛下に於いては、慈悲の御心をもって恩赦を発令されており、また宋江本人の殊勝なる出頭に対し、寛恕の心を以って此度は江州への流刑という沙汰を下すことに相成った」
形式的な判決が読み上げられた。その間は形式的に髪を掴まれて地に顔を押し付けられ、その後形式的に代官に拝礼する。形式形式の手続きを終え、では出立というので、ひょこ、と立ち上がった宋江に真っ先に駆け寄る者がいた。先ほど、最初に声を上げた張だ。
「押司様っ」
「張、聞こえていたよ」
宋江は、その日初めて口を開いた。少し微笑んで、そのせいで無精髭から雨が一粒落ちた。
「仕事は、続いているか」
「へ、へい」
張はひれ伏して、返事をしながら宋江の足元に縋り付こうとした。脇にいた役人に護身用の樫の木の棒で止められて、それでもなお、さらににじり寄るのだ。
「親方が、荷役ばっかりじゃなくて、今度木を伐らせてやるって、言ってくれやした」
「それは良かった、大したもんだ、以前の乱暴者だったら、とても斧など持たせられなんだろう」
「押司様のおかげなんでさ、酒飲んで暴れてた昔の俺だと、きっと人殺しかやくざになるしかなかったんでさ、押司様が酒を止めさせてくれて、仕事まで見つけて下さって」
「お前は元々あった善性と力を持て余していただけだ、それが花開くのを少しばかり手伝っただけだよ」
さっきまで表情を消していた宋江が、顔を崩してして笑った。つぶらな眼が細くなってしまって、額に付いた泥も僅かに剥がれ、元々の不細工がさらに滑稽になってしまう。しかし、決して自分の利得では笑わない、弱き人々にしか見せない宋江のいつもの笑顔を見て、その場の皆がたまらなくなってしまい、わあっと一斉に駆け寄って、止めようとする役人たちを押しのけて群がってしまったのである。
「押司様っ」
「例の高利貸しに畑を取られなくて済んだんです」
「うちもお陰で、あいつらに危うく娘を売られるところだったのよぉ」
「そうだ、あの野郎が追い払われて、我らも真っ当に商売出来るようになったんですよ」
口々に己の身の上を語り、その後には決まり文句のように宋江様のお陰、押司様がお力添えを下さって、と言いながら深々と頭を下げる。そしてこれまた判を押したように、なんでそんな宋江様が、と嘆き、ある者は地に伏し、ある者は天を仰いで涙するのだった。二人の役人も日頃からの宋江の振る舞いを知っている。彼に危害を加えるものなどいようはずもないので、皆を怒鳴り散らして追い払うような真似はしない。ただ、体勢の良くない宋江が押されて転んだりしないように支えるのみだ。否、もう一人、皆の話を嬉しそうに聴いている宋江の傍らに付いて、ただ一人、この場であからさまな不機嫌を隠さない男がいた。弟の宋清(そうせい)だ。兄に群がる百姓たちを一人一人、半ば恨みを込めて引き剝がして、兄の出立のための道を作っている。
「宋押司さまっ、甘(かん)の女房でございます、常々お世話になって……」
「おお、お前の事も気にしていたんだ、お子さんは、ちゃんと産まれたか」
「は、はい、無事に産まれました、押司様に一目だけでもご覧になっていただきたくて」
宋清もこの女は知っている。身籠って、腹も目立つようになってきたという時期に、漁師の亭主を嵐で亡くした不憫な妻。その後の生活や産婆の手配、全てを宋江がみていた。しかし当の宋江が罪を犯し、街から逃げ出した後、自ら役場へ出頭した先日までの間、どうしていたのかは知らない。そして、こいつも間違いなく、兄の。
女が抱えていた赤子を宋江へ差し出そうとする所に、宋清が割って入った。戸惑う若い母。宋江も眉を潜ませ、己より大きな弟の背を睨んで咎めた。
「何をやってるんだ、どいてくれ、見えない」
「嫌だ」
弟は仏頂面を崩さず答えた。仕方なく宋江は縛られた身体で器用に弟の脇から顔を出し、女が大事に抱える赤子を覗き込んだ。大人しい子だ。早朝からの小雨、さらに赤子には何やら訳のわからぬことで喚いて泣く大人たちに囲まれ、自分は別段、何も悲しくはないので泣きもせず、僅かに瞬きし、少しばかり首を横に向けては不思議そうに目をやり、そして宋江と視線が合った。首枷をはめた浅黒い肌の泥にまみれた髭面を見て、どうやらお気に召したのだろう、赤子は笑い出した。
「ほほ、肝の据わった子だ。男か、女か」
「男の子にございます、お陰様で何の病もなくて」
「うんうん、きっと将来大器となろう」
宋江は再び満面の笑みとなり、隣で舌打ちせんばかりの顔をしている弟に声をかけた。
「清(せい)、あれを出してくれ」
はあ、と宋清は溜息をついた。やはりこんな時にも始まった、兄の悪癖が。
「いい加減にしてくれ、もう、うんざりだっ」
宋清が思いっきり怒鳴った。一瞬で群衆がすすり泣く声は止まり、雨音だけが絶えない。少し遅れて、宋清の怒号に驚いた赤子が甲高く泣きだした。皆、宋清を凝視している。隣の兄は、低い声で弟をたしなめた。
「赤子がおる、静かにせんか」
「いいや、黙らない。兄さん、出せって言ったのはこれだろう」
宋清は罪人の兄を睨みつけ、己の懐から小さな袋を取り出した。金が入っている。見た目よりも、重い。
「兄さん、これが何であるか、当然わかっているよな」
「……ああ」
「父さんと俺で必死に作った、江州のお役人に渡す、賄賂だ」
「……私は、元々嫌なんだ、それを使うのは」
当然、役人に金品を送って便宜をはかるなどという行為は重罪だ。しかしこの頃、政治の腐敗は都から地方へ、大臣から小役人へと広く伝染しており、贈収賄などというものは、悪しきとはいえ、既に習慣と化していた。
「こら、しまわんかお前、ここで出すんじゃない」
役人が顔を青くしながら宋清に掴みかかり、あっという間に、雨に濡れた地面に組み伏せた。さすがに街中、しかも代官がおわす前で大声で賄賂がどうこうと叫ぶ者を放置するわけにはいかない。本来、宋清の役割は、宋江と護送の役人が街からある程度離れたところまで着いていき、人目を避けて懐の金を渡す、というものだった。あくまで無法、されど無法の中にも作法あり、とでも言おうか。
「兄さんの、命が懸かった金だぞ。それを易々とくれてやるなんて、どうかしてるっ」
地面に押し付けられながらも叫ぶ宋清の声が再び響いた。皆、黙る。赤子は泣き続け、それを胸に抱いた若い母はへたりこんで蒼白になってしまった。そんなつもりじゃ、私、そんなつもりじゃ、と呟きながら身を小刻みに震わせる。
「お前ら、兄さんが金持ちだとでも思ってるのか」
宋清が周囲を睨みつけながら続ける。宋江がもう良い、と声をかけても、この場の全ての暢気者に対して一度吐き出した怒りが、もはや抑えられない。
「身内の恥を晒すようだがな、うちは、かの高名な晁蓋(ちょうがい)どのや柴進(さいしん)どののようなお大尽じゃあないんだ、押司なんて木っ端役人が、どれほどの微禄か。お前らがへこへこと頭を下げるだけで貰えてる金は、兄さんの指から爪みたいに勝手に生えてくるとでも思ってるのかよ、挙句に兄さんがあの性悪女に強請られた時、お前らはひたすら狼狽えるばかりで、役所に減刑の嘆願一つも出さず」
「やめんか、清っ」
「いいや、言わせてもらうぞ兄さん、この、兄さんのお人よしに甘え切った連中、普段は生き仏様だ*及時雨(きゅうじう)だと祭り上げておいて、いざという時には何の役にも立たねえで、挙句この付け届も江州で代官に渡せなかった日には、兄さんがどんな酷い目にあうか……お前らだって、兄さん以外の役人の、ああ、こいつらの日頃の無法を見てればわかるだろうに」
「清、もう止してくれ、わかってる」
「兄さんが捕まって、父さんは僅かな財産も尽きて、俺は、俺は家を、兄さんが帰ってくる家を、もうお役人に戻れなくても、せめて一家で食べていけるように」
そこまで言ったところで宋清は地に顔を伏して嗚咽し、挙句喉を詰まらせて咳込んでしまった。宋江は、散々苦労をかけてきた弟の元へ屈んだ。かける言葉に迷った。
己の性分のせいで、借財などはしないまでも、父への仕送りが不十分になっている事は承知していた。その分、父の傍で面倒を見ている弟の苦労も、承知している、つもりではいた。
「顔を上げてくれ、弟よ」
兄の優しい声を頭上に聞き、宋清はゆっくりと頭を上げた。無理をしてしゃっくりをこらえようとするが、そうするとまた咳込んで、やはり涙と鼻水が止まらない。兄は弟を見つめ、ゆっくりと話し始めた。諭すのではなく、懺悔のために。
「知ってはいたんだ。私が罪を犯して逃げている間、父上とお前がどんなに苦労していたか。いや、その前から常日頃、宋家の弟は、兄と比べてけちで器が小さいなどと陰口を叩かれて」
「……」
宋清は何も言わない。こんな悲しそうな兄を見たことがない。
「私が思い付きで皆に配った金や飯、あれは実際、お前の懐から出ていたようなものだ。お前が、酒も博打もやらない働き者で、本当ならとっくに妻を迎え、家を構えていて当然のところを、私のせいで病の父を看るのも難儀にしてしまっている、わかっている、わかっているんだ。それを、私はお前にここまで甘えてしまって」
そこまで聞いて、宋清は静かに頭を垂れた。俺の事は良いと思っていた筈だ、なのに。今度は周囲の皆も続いて涙を流し、後悔は雨と交じった。
宋江はゆっくり立ち上がろうとしてふらつき、役人に支えられて何とか持ちこたえた。その時、遠く、大木に身を半ば隠しながらこちらを見つめている老人が目に入った。苦労に肉を削がれた腕。とても、昔は自分を抱き上げていたようには見えない。少しの間視線が合い、そして、不肖の息子は深く一礼した。
罪人の宋江は、二人の役人、そして弟の宋清に従って街の門を出た。後ろから人々の別れを惜しむ声が聞こえるが、彼が本来聞きたいのは皆の笑い声だった。それを求めて才も徳も乏しいなりにやってきたはずだが、結局自分の迂闊のせいでこんな別れ方になってしまった。
「でもなあ、嬉しいんだよ、清、みんなが僅かばかりの世話の事なんて覚えていて、今でも慕ってくれるのが」
「僅か」
宋清は思わず、この野郎、もう一回やるか、と思ったが、兄が次に、
「戻ったら、親孝行しないとなあ」
と漏らした一言で堪忍してやることにした。
「じゃあ、兄さん、俺はここで」
と言って役人の二人に目配せした。護送のために付いている彼らも元より宋江の世話になった事が一度や二度ではない。気を利かせて少し離れた木陰で世間話などを始める。宋清はさっきの金を出すと、兄の懐に強引に突っ込んだ。
「とにかく、無事で帰ってきておくれよ。親孝行、するんだろ」
宋江はやはり眉をひそめたが、結局は小さく頷いて、それを受け入れた。
「じゃあ兄さん、達者でな、向こうで上手くやれよ」
宋清は言い捨てて振り向き、帰ろうとしたが、宋江は、弟を一旦呼び止めた。
「この金な、半分でいいから、さっきの母親に渡してくれないか。あそこは稼ぎ手がいないんだ。どうにも心配で仕方ない。私が逃亡してた間に、世話をする者もいなくて借金でも作っているかもしれない。清よ、こんな事を頼めるのはお前しかおらんのだ」
宋清は振り向いた。やっぱりもう一度怒鳴ってやろうと思った。しかし、目の前の兄は見かねるほどに狼狽して、弟の憤りなどお構いなしに続けるのである。
「ああ、でも直接手渡すのは駄目だ。あの母親が私の金を取ったと皆から勘繰られては困るからな。全くお前のせいだ、皆の前であんなに喚きおって。あれでは母親も後ろめたくて受け取れんだろうが。だから何か適当な偽名で手紙を書いて添えてくれ、その方がきっと穏便に済む」
「兄さん」
「だって、いきなり家に金だけポンと置かれても気味が悪いだろう、きっと、違うか」
真顔で問う兄を見つめ、一つ大きく溜息。そして、宋清は噴き出した。腹の底からの笑いが止まらなくなった。ついさっき喚き散らした時の万倍、気持ち良く、混じり気なく笑う。そんな弟を兄は意表を突かれて見上げている。この人は、こういう人だ。俺がこの人に涙を流して怒るのも、それでもこの人を見捨てないのも、そして俺が今、とてつもなく誇らしいのも、きっとこの人がこういう人だからだ。宋清は、訝し気に自分を窺う兄の肩を叩いた。
「ちゃんとやっておくよ、だから、自分で皆の面倒がみられるように、早く帰って来な」
少し離れていた役人が、止んだな、などと話しながら陽の強い光に目を細めた。踏んでいる土も、さっきまで降られていた兄弟の衣も既に乾いている。暑さに悩まされる旅になるかもしれない。
*及時雨(きゅうじう) 宋江のあだ名。恵みの雨という意味。
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