第3話

「智昭、帰ろ」

明子あきこ、今日はバイトは」

「もちろんありますよ」

 愛の歌の意味が解っていたんだかいなかったんだかも解らない、鈍感音楽おバカさんと私は、夏休みを迎える頃、晴れてお付き合いをすることとなった。

「最近、ずいぶんバイト入れてるな」

「うん、六連勤ですよ。しんどいー」

「無理すんなよ」

 私は男の子にこんなに気にかけてもらったことはなかったし、智昭もここまで誰かを気にかけたことはなかったと言った。

 私を好きだからレポートの面倒を見てくれたのか、それとも面倒を見ているうちに好きになったのかと智昭に聞けば、それはもうわからないのだそうだ。

 でもそんなことは、もうどうでもいいこと。

「うん、ありがと」

 今、こうして一緒にいるのだから、それでいいことだ。

 私は休日までみっちりバイトを詰めているような人間だったので、智昭と二人で過ごす時間は少なかった。

 だけど智昭は、律義に学校からバイト先まで送ってくれた。帰宅するには、少しルートを外れるのにだ。その短い時間に話して、一緒に歩くだけでも満たされた。


「ん、なんかちょっと味変わったかな」

 智昭は手にしたドリンクカップを、神妙な顔つきで眺めた。

「えー、どれどれ、ちょっと飲ませて」

 考え込む智昭の手からカップを抜き取って、ストローに口をつける。

「にがい」

 ほんのちょこっと中身を口にしただけで、私はそれを智昭に返してしまった。

「明子はコーヒー苦手だもんなあ」

 智昭はコーヒー党で、私はお茶とか、刺激の少ない飲み物派。智昭は私には刺激の強いそれを、涼しい顔で飲んだ。

「味が変わったのなんか、わからんだろ」

 智昭に笑われる。笑われたって、私は楽しかったから構わないけれど。

「私も、せっかくなら智昭と一緒にコーヒー飲めるようになりたいよ」

 ファミレスやカフェに行く余裕なんてないから、私たちはこうして帰り道に、コンビニの安価なドリンクを飲み歩く。これだって立派な制服デート、というやつだ。

「そういや芸術鑑賞の時にさ、行きそびれた喫茶店あるだろ。俺、やっぱりあそこ行きたいんだよね。店の音楽の趣味が良いって話で」

「えー。遠いよ、わざわざ。そんなとこ行く暇ないし、そもそも高そうじゃん、あそこ」

 私は氷で薄くなった紅茶をすすった。ずっと氷漬けのカップを握っているから、指先が冷たい。

「バイトでさんざん稼いでるくせに、何言ってんの。俺の小遣いより稼いでるだろ」 

 指先から、背中にまで冷えが伝わった、気がした。ふるりと、小さく背を震わせる。

 透明なカップの表面にはびっしりと水滴がついていて。深いコーヒーの水色すいしょくと透けた氷と一緒に、夏の日差しにきらきらしていた。

「そんな、遠くのお店までいかなくったっていいよ。学校から帰るまでの、短い時間でもさ。智昭と一緒にいられればそれでいい」 

 それでいい。それだけでいい。

「……そんなこと言われたら、まあ。うん、それでいいか」

 緩んだ口元をごまかすような、むにゃむにゃした口調。それがとても、かわいいなあと、思う。

 バイト先が見えてくる。私たち二人の時間はあっという間。

 

 バイトまでの道のりや少ない休みの時に二人で過ごす、ごく短い時間、歩く距離。

 短くても積み重なれば、月までの距離に届く気さえした。

 月ってどんな場所だろう。

 宇宙だから重力がなくて、きっとふわふわしてる。

 それでもって、何にもないから。

 きっとすごく自由で、面倒なことは何にも考えずに暮らしていけるんだろうな。

「ねえ智昭。いつか私を月に連れてってね」

「なんだそれ」

 現実主義者というやつなんだろう。Fly Me To The Moonが好きなくせに、智昭は甘いことはいまいち口にしないのだった。

 

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