第2話
「
駅まであと数メートルというところで、呼び止められる。着いた時は少し迷った道も、帰りはそこそこの人波の中でもすたすたと歩けた。
「なに、
同じクラスの、瀬尾智昭。高校一年の終わり、数回話した程度であんまり印象にない男子生徒だった。
「お前、鑑賞会始まってすぐにロビーに出ちゃっただろ」
「ああ」
今日は年に一度行われる、芸術鑑賞会だった。わざわざ校外のホールだとか劇場だとかに足を運んで、オーケストラとか歌舞伎とかを見せられるやつ。去年はバレエで、今年はジャズ。タダで質の高い音楽やら舞台芸術やらを堪能できるのは贅沢なことなのだろうけれど、興味もない演目のためにわざわざ知らない場所までの行き方を調べて。降りたこともない駅まで電車に揺られて。その苦労を学校側は少し考えてほしい。交通費だって、支給されないんだし。
「どうしたんだよ、具合でも悪くなったのか?」
「いや、眠かっただけ」
私は演目開始数分で会場を出て、ロビーのソファで居眠りを決め込んでしまった。
だって昨日も二十二時まで、きっかりバイトだったし。
ジャズって騒がしいから、クラシックほど昼寝に向かなそうだし。
「お前さあ。どうすんだよ、レポート提出しないといけないのに。成績に響くんだぞ、これも」
「どうしようね」
いやでもさ、バイトもしないとちょっといろいろ、やってけないんだよね。
なんてことを、ただのクラスメイトに愚痴る気にはならなかったけれど。
「わざわざそんなこと気にして追っかけてきたの? 真面目だねえ、瀬尾は」
この人、学級委員かなんかだったかなと思いながらまじまじ顔を眺めていたら、瀬尾は眉を寄せて言った。
「失礼だろ。演奏してくれた人とか、音楽に」
「やっぱ真面目じゃん」
私が言えば、瀬尾はますます眉根を歪めた。
「とにかく。倉田、時間あるか? 今日の演奏会の内容、解説してやるから。それで何とかレポート書けよ」
「えー。まさかホールまで戻るの?」
「いや、店にでも入ってやろう。俺、行ってみたい喫茶店があるんだけど。そこに音符の絵が描いてある電光看板が出てるのわかる? 電気ついてないけど」
瀬尾が指さす先に、確かに音符の絵が描いてある看板があった。電気がついてないどころかひびが入ってるいるようで、本当に営業しているか疑問だ。
「そこでやろう。長居できるかわかんないけど、場所としては悪くないと思う」
長居できるかもわかんない場所を選ぶなよ。
そう言ってやろうかと思ったけれど、それ以前に。
「私、今日これからバイトだから無理」
ばっさりと切り捨てて、私は地下鉄の駅へと急いだ。後に残された瀬尾が、その喫茶店に一人で入ったのかは知らない。
「倉田、今日は時間あるか?」
「ない」
「今日は時間」
「ありません」
「今日」
芸術鑑賞会の翌日から、同じやり取りを三日続けたところで。
「バイト休み」
私の働きづめのスケジュールが途切れた。それはそれとして、瀬尾に付き合ってやる義理など感じなかったが。
(必要はあるのか)
レポートは、提出できるならしたほうがいいだろう。
「よし。俺のスマホに、この前の芸術鑑賞会で演奏した曲、全部突っ込んであるから。とりあえず聴け」
「えー、何時間かかるのそれ。スマホだし、借りてくわけにもいかないじゃん」
「何日かに分けるか」
「いや、また明日からしばらくバイト続くから、提出に間に合わないんですけど」
「じゃあ聴けるとこまでいけ。全部聴いたって二時間だ」
貴重な放課後に、二時間。一瞬、時給換算しそうになるけど虚しいからやめる。
というか、なんで。
「瀬尾はなんで、わざわざ律義に付き合ってくれるのさ」
そんな義理は、瀬尾のほうにこそないはずだ。
まさか、瀬尾のやつ。
「音楽を冒涜されたままにしたくないからな」
勘ぐれば、大真面目な顔でそう答える。
「真面目か! 悪かったね、ロビーで昼寝なんかぶっこいて」
「反省しろよ。ほら、はよ聴け」
「音楽バカめ」
放課後の教室に二人きりというシチュエーションに、音楽鑑賞といういたって真面目な動機だけが存在している。
少なくとも、瀬尾のほうは。
「あ、これ聴いたことある。CMとかで使ってる?」
「んー、どうだろ。有名だからな、それ。いたるところで使われてる」
「なんていうの?」
「『Fly Me To The Moon』。私を月に連れてって、だな」
「ひゅー。ロマンチックう」
サブスクに収録されている曲だったので、私は歌詞ページを展開する。
月に連れて行って、という言葉は、愛の告白であった。
宇宙への憧れやロマンを歌った曲だと思っていたから、まさかこんなにストレートに愛を語ったものだとは思っていなかったのだ。
私を月に連れて行って。
言い換えるなら。
手を握って。
キスをして。
言い換えるなら。
愛してる。
「お、その曲突き詰めてレポート書くか? 名曲だもんな」
「音楽バカめ」
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