初夏色ブルーノート

いいの すけこ

第1話

 ――智昭ともあきじゃ私を、月に連れて行くことはできないよ。

 その曲を聴いた瞬間、脳裏によみがえった私の声。


 音符の描かれた、古びた電光看板が目に入った。

 年季の入ったビルの一階に構えた、煤けた風情の喫茶店。

(そっか、この駅)

 普段の行動範囲だったら絶対に降りることのない駅で、私は懐かしいものと再会した。高校生の頃、あの時もたまたま利用した駅。

 あの頃から変わったことといえば、高校から短大に進学したこと。スマホは買い替えずに、高校の頃から同じものをしぶとく使っているけど、メッセージアプリのメンバーもずいぶん変わった。

 智明は、スマホを買い替えたりしたのだろうか。

 鮮やかな青のボディには、カバーもつけていなくて。

 それでサブスクと、SDにまで大量の音楽が入っていた。


(喉、乾いたし)

 五月の陽気は穏やかなようでいて、すでに日差しは容赦がない。しっかりとスーツを着ているから、なおさら蒸した。

 日差しから逃れるように思わず踏み入った入り口は狭い。この辺りは小さなビル同士が肩を寄せ合うように建っているから、入居しているオフィスやテナントはどこも小ぢんまりとしているに違いない。

 古くから栄えるオフィス街、みんな速足で歩いていく。人の行きかう歩道にはみ出さないように置かれた電光看板と、色褪せた食品サンプルが並ぶ小さなショーケースが入り口を圧迫していたが、近寄りがたいのはそのせいだけじゃないだろう。

(……駅ナカのスタバのがいいかな)

 開かれた雰囲気で入りやすい、明るいチェーンのカフェが脳裏をよぎった。

 考えてみれば産まれてこのかた、こんなガチめの『喫茶店』なんてものには入ったことがない。


 結局、智明とこの喫茶店でお茶を飲むことはなかったし。 

 この店には、思い出らしい思い出なんてない。だからこだわる必要もない。

 ただ、あの日。この店のそばで智明に呼び止められて。

(……いいや、入っちゃえ)

 えいやとドアを押し込んだ。からからとウェルカムベルが鳴る。

「いらっしゃいませー」

 カウンターの向こうから、控えめな挨拶。

 ダークブラウンのテーブルセット。清潔にしているのだろうけれど、それでも薄汚れてしまっている白い壁や天井。そんな組み合わせなのに、店内は思ったより明るかった。カウンターと、十席程度のテーブルの上から吊られたれた照明が煌煌と輝いている。けれど目を焼くような強さじゃなくて、温かい色だ。ランプみたいなデザインの照明器具に合わせているのかも知れないし、世の喫茶店のスタンダードなのかもしれない。

 恐る恐る席について、そっとあたりを見回した。

 店の奥の席で、ゆらゆらと白い靄が立ち上っている。


(煙草)

 ぎくりとして、私は自分の胸から下を見下ろした。

 真っ黒いリクルートスーツ。

 煙の匂いがついたら、印象が悪くないだろうか。もう成人はしているけれど、就活生たるもの、マイナスイメージがつくものは避けなければなるまい。

「いらっしゃいませ」

 店員さんが水を運んできて、テーブルに置いた。

(……いいや、面接終わったし)

 スーツには、帰ってからたっぷり消臭スプレーを浴びせよう。

 ここは喫茶店だ。煙草を吸うお客さんだって、いるだろう。

「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」

 店員さんはお年を召した女性で、制服というより家庭用といった風情のエプロンをまとっている。カウンターの中の、やっぱりお年を召した男性はきちっとしたベストを着ているけれど、ちぐはぐな印象はあまり感じなかった。あるべきものがあるべきところに収まっている、そんな風に思う。 

「あ、オーダー、お願いします。コーヒー……、えっと、オリジナルブレンド」

 静かな店内で、もう一度店員さんを呼ぶ勇気がなくてその場でオーダーしてしまう。メニューの一番上に合ったものを選んだ。オリジナルというくらいだし、店が一番自信を持っているメニューのはず、だろう。

「かしこまりました」

 私はあまりコーヒーは飲まない。けれどこういう店では、コーヒーを頼むべきなんじゃないだろうかと思ったのだ。メニューのスペースも一番幅を取っているし。


(つかれた) 

 慣れない店で慣れないものを頼んで、どっと疲れが出る。

 就職面接の後ということもあって、緊張がまだ抜けなかった。

(ねえ智明。この店はちょっと、高校生には敷居が高いんじゃないかなあ)

 あの日、智明にこの店に誘われた時。

 もし私に余裕があってコーヒーの一杯でも飲もうとなったとしても、高校生のお喋りに使うような店じゃなかっただろう。

 煙草だって吸える店なんだし。

 流れてくるBGMまで、なんだか大人っぽいじゃない。

 洋楽で、男の人のゆったりとした歌声。甘いような渋いような歌声に、時に寄り添い、時にぶつかるバンドの演奏。


――智昭じゃ私を、月に連れて行くことはできないよ。

 その曲を聴いた瞬間、脳裏によみがえった私の声。


(Fly Me To The Moon) 

 耳に流れ込んできた音楽は、私の記憶にまで流れ込んできた。 

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