第140話 明暗

「私のものになるなら、お前の望みだけは聞いてやる。お前の大切なものだけは、放っておいてやる。お前の心は、それほどまでに壊し甲斐のある貴重な心だ。さぁ、私の慈悲を受け入れろ」


「だまれ……」


 ぼやけた視界は、既に明暗しか感じ取れない。麻痺が回った皮膚では、微かな風すら大袈裟に吹いているように感じる。呼吸が浅く、内臓が痙攣を起こしてる。


「良いのか? 私がお前を贔屓にしてやるのは、今だけだ。断るのなら、逆に容赦なく、お前が大切にしているものから潰していく」


「うるさい……」


 五感の内、視覚、味覚、触覚はもはや役に立ちそうにない。僕は目を閉じ、意識を研ぎ澄ませて聴覚と嗅覚に集中し、【地形測量グラビスサーチ】を連続して発動させ、暗闇の中で展開するイメージの中で、地面に立つ人型の影を断片的に見る。

 魔王はゆっくりと、こちらの恐怖を煽るように、一歩一歩に魔力の波紋を広げながら、心にささやいてくる。


「見えるぞ……? 偽善に満ちた理性に惑わされる、お前の本当の姿が……。窮屈そうだ……退屈そうだ……。いっそのこと、全てを曝け出せたなら、全てを思うがままにできたなら、どれほど気持ちが良いかと考えたことはないか? 腹の立つ人間を今すぐに殺せたら、排除できたら、それほど楽なこともない。素直になれば良い。誰だって、己の欲望が一番大切だ。さぁ、お前が大切に思う人間の名を言ってみろ」


 こちらが必死に無視しようとしても、魔王の言葉は引力を持って近づいてくる。払おうとすればするほど、苛立ちが増してくる。体の中にある力を、吐き出したくて堪らなくなる。

 これは……まずい……。何かがおかしい。自分の中に、何かが居る。埋もれた何かが、土を掻き分けて這い上がってくる。

 早く……早く、決着をつけないといけない……。

 まだ意識がハッキリとあるうちに、この矢を射ち込まないと……。

 そう、この矢を、奴の脳天に射たないと……。

 手足を射抜いても再生する。今さら、この体じゃ器用に狙いをつけることも出来ない。なら、それなら、もう殺すしかない。これを殺せば、多少はこの国も、この世界も平穏を取り戻せる。


「いいぞ……その調子だ……。何も躊躇う事はない。楽な方へ落ちればいい」


 魔王の頭を狙って弓を引くと、魔王の声とは違う、心地の良い声が聞こえてくる。


「お前が手に入るなら、この娘を手放すのも悪くない。お前の手で楽にしてやれ」


 優しい声が背中を押す。指を離せと合図を送る。

 

「さぁ、殺せ!」


「ケイル!」


 エリス様の声が聞こえた瞬間、耳元で囁いていた邪気が、遠くに離れていく感覚とともに、どこかに飛んでいた自分の意識が体に戻ってくる。

 正気に戻った脳が、まず最初に取り戻した情報は、指から離れた矢羽が、数メートル先で風に流れて空気を切る音だった。慌てて【地形測量グラビスサーチ】を発動する。正面にたったアルテミーナ様の影は、両手を広げて真正面に立っている。矢を放った感触が現実なら、直感から言って、いま空中を飛んでいる矢はアルテミーナ様の頭に突き刺さる。

 僕は何も考えずに【風速操作ウェザーシェル】で風を起こしたが、生み出した風は瘴気が発生させる乱気流に飲み込まれていく感覚がある。

 【地形測量グラビスサーチ】には空中に浮かぶ矢は映らない。嘘であってくれ、矢が外れてくれと、ぼやけてしか見えない視界に祈った。

 バキッという、矢が折れる音が聞こえた後、重いものが地面に当たる衝撃音と振動が伝わってくる。

 直ぐにまた【地形測量グラビスサーチ】を発動させると、さっきまで居なかった場所に、見覚えのある人の形が浮かび上がる。

 マントを靡かせる大きな体は、オーバス・ロッドメイルそのものだった。


「オ、オーバス様……ですか……?」


 【地形測量グラビスサーチ】から受け取る情報が信用しきれず、僕は恐る恐る聞いたが、返ってくる声は無かった。

 魔王だけでも精一杯なのに、騎士王が出てくるなんて……。一体、どう攻略したら良いのか。

 気落ちすると、【地形測量グラビスサーチ】からオーバス様が消える。風の音を聞けば、こちらに向かって来ているのは分かる。石のように固まりつつある足を体ごと倒して、僕は勘だけを頼りに、右の方へ転がる。オーバス様が足を着地させた瞬間に、【地形測量グラビスサーチ】を更新すると、イメージの中の騎士王は左にいる僕に向かって槍を振ろうとする形になっていた。僕はその場で宙返りすると、頭の上で槍が通過する音が聞こえる。

 槍は辛うじて避けたが、当然、無駄な動きをする僕を騎士王が見逃すはずもなく、服をグイッと引っ張られ、地面に叩き落される。

 もう体の感覚も遠く消えた。すぐに立ち上がることも出来ず、イメージの中で槍を振り下ろす騎士王の姿を、黙ってみているしか無かった。

 斬り殺される。そう思った刹那。側面から強烈な爆音を響かせ、空気を揺らす人影がイメージの中に入り込んでくる。


「ハッ! 結局お前は、一人じゃ何にもできない負け犬だ」


 人を小馬鹿にする事になれた口調は、全身を毒に苛まれても、今すぐに立ち上がって挨拶をせねばいけないと、条件反射で違った恐怖を僕に与えてくる。


「ロ、ロイド様……?」


 【地形測量グラビスサーチ】の観測結果には、ロイド様の形を模した影が、僕の前に立ってオーバス様に立ちはだかっている。


「ケイル! 大丈夫ですか!?」


「エ、エリス様……ですか?」


「ケイル……目が……。待ってください。いま治療します。【精霊の祈りアテナス】」


 日溜まりに居るような暖かさと共に視力が戻ると、ティオを憑依させ、光の鎧を身に着け、白い翼で僕を包み込むエリス様の心配そうな顔が見えた。足首の傷、針の刺さった痕が塞がるが、どうにも痛みが引かない。大分、良くなっていはいるが、それでも皮膚の痺れは残っている。


「す、すみません、エリス様。浄化のスキルもお願いできますか」


「わ、わかりました。【精霊の息メルトゥークス】」


 虹色のオーラに囲まれると、血管内を洗われているような冷たさを感じ、体中の毒が抜けていくと、痛みも痺れもどこかへ消えていった。


「……くっ!? 奴を……奴を今すぐ殺せ……」


「アルテミーナ様……」


「何をしている!? さっさとエリスティーナを殺せ! 聞こえないのか!」


 頭を抑えて苦しそうに悶える魔王。恐らくはエリス様の声に過敏に反応しているんだろう。異様な姿をする国王を横目に見るオーバス様は、戸惑った間を持つ。


「おい、オーバス! そんなバケモンみたいな王女の姿を見ても、まだ誠心誠意に尽くすつもりか!?」


「オーバス! アルテは呪いに苛まれています! どうか手を貸してください!」


 初めて見るオーバス様の汗。返答を探し視線を落とすオーバス様に、エリス様は大きな声で訴えかける。


「私は……王国に仕える騎士……。陛下を守るのが、私の務めだ」


「だから、その陛下が操られてるって言ってんだろ!? 馬鹿なのか、テメェは!?」


「それが事実だったとしても、検討するのはお前たちを全員、捕まえてからだ」


「融通の利かない奴だ……。おい、さっさと立て」


 背中を向けて言うロイド様は、聞くからに自分に言っていて、僕は慌てて立ち上がった。


「愚図なお前でも、今だけは役に立つ……援護しろ」


 ロイド様は一度だって僕を認めたことは無かった。神童の集いでも、僕に何かを頼むような事はせず、合図もしないで自分だけが前線に突っ込んでは、それが上手くいかなかったら、やはり僕は使えない後衛だと言われるのが常だった。

 だから、「援護しろ」と頼まれたのは、とても意外で、不思議な感覚で、今度こそは役に立てることを証明する最後の機会だと思った。


「やれんのかよ」


「は、はい! やれます!」


 奴隷根性とでも言われるかもしれないが、それでも僕はこれまでにないくらい、良い返事をしてしまった。

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