第133話 接触

 扉が重い。体重を預けても開かない。アルテミーナ様が僕らを閉じ込めようとして、外側から鍵をかけられたのか。嫌な予感が過ぎり、今度は足を踏ん張って押すと、扉は微かに動いた。単に抵抗する力が強かっただけみたいだ。しかし、なぜ。

 扉に僅かな隙間が出来ると、焦げ臭い匂いの空気が、びゅうびゅうと音を立てて部屋に入ってきて、足元から水が流れ込んできた。


「うわっ!? なんだ?」


 扉が重いのは、外からの水圧のせいだった。開き切らない扉の隙間に身を捩じ込ませ、なんとか廊下に出たら水が部屋に入らないよう、すぐに扉を閉めた。

 白を基調としていた壁は、全てが黒焦げになっていて、赤い絨毯には無数の青い魔法陣が展開されており、そこから水が湧き出ていた。消火機能が働いたんだろう。くるぶしに届く水深の川が、来た道を引き返せと言っているみたいに、進みたい方向とは逆に流れている。

 不穏な気配は既に感じる。僕は【狩人の極意マースチェル】で気配を消し、川の流れに逆らって進む。

 奥の部屋は、最初に見た絢爛けんらんさを失い、やはり壁が黒に染められていた。剣や魔導書、装飾品や意味ありげな紋様が刻まれた品は、魔除けか火の耐性が付与されているのか、炎を免れ、焦げた部屋に浮き上がって見えた。

 窓から差し込む月明かりには、上半身の歪んだ人影が伸びている。影を辿れば、バルコニーから王都を見るアルテミーナ様の後ろ姿がある。


「今日は、良い月だ。あの輝く月を見ると、今すぐにでも、真っ黒に染めたくなる。そうは思わないか? 勇者よ」


 さっき部屋に入った時とは違って、気配を消していても、アルテミーナ様は見なくても僕の存在に気づいた。効力の少ないスキルに魔力を消耗しても割りに合わない。僕は【狩人の極意マースチェル】を解いた。


「……もう少しで、フローレンス様が死んでしまうところでしたよ」


 僕がそう言っても、アルテミーナ様は振り返ることもしない。

 どうする。業火を生み出す力を見た後だ。白銀の矢一本で、素直に事態を終わらせてくれるとは思えない。少し荒くても、木の矢で四肢を封じてからの方が、確実性が高いか。


「お前は……誰だ……?」


 木の矢に触れた時、アルテミーナ様が声を出す。その声は、およそ人間の声とは思えない屈折した奇妙な声色へと変化していった。


「貴方こそ誰だ。アルテミーナ様じゃない」


「フフ……。何を言う……。私こそはこの国の王、世界を支配する者。アルテミーナに相違ない」


 振り返ったアルテミーナ様の顔は、左半分が悪魔のように黒色化していた。左目は紫色に染まり、右目は辛うじて人間の目だが、やはり紫色に発色する眼光は異様だ。

 呪いに豹変する人の顔は嫌というほど見てきたが、人間の様相を崩すほどの豹変は初めて見た。動物が魔素を過度に取り込みすぎて、魔物化し始める時みたいだ。


「お前の持っているその矢は、精霊やつの矢か」


 僕は体の向きを化え、矢筒の中の白銀の矢を隠した。


「まさか、あの精霊が第三王女の身に隠れていたとは……。ふっはっは……。早く気づいていれば、生温い事もせず、首をねてやったのに。苦しむアルテが可愛くて、遊ばせ過ぎたのが良くなかった。酔狂に楽しんでしまう。それが私の悪い癖だ」


「……何を言っている。アルテミーナ様に何をした!?」


「ふふふ……実に楽しかったぞ。増長する憎悪に苛まれ、誰かを傷つけては、一人涙する小さな少女。カッカッカッ! 自分が何者か分からなくなっていく恐怖、あれほど美味しい負の感情は無い。ただ染めるのでは、つまらない。ある程度の自由を与えるからこそ、悶え苦しみ、儚い葛藤を見せてくれる。しかし、自由にさせ過ぎたせいで、精霊を見逃した。危うく私の宝物が浄化されてしまう所だった。私は義理堅い。ここまで楽しませてくれた娘に、少しでも報いてあげようと、私は憑依することを決めた」


「憑依……。まさか、貴方は……」


「デム・ガストラ、今の子には魔王と言った方が、分かりやすいか……」


「魔王……」


 闇が正体を名乗ると、肩が沈み、吸う空気に重みを感じる。世界中の悪を束ねたような気を漂わせるアルテミーナ様に、僕は今すぐにでもこの場を離れたくなった。生物として、絶対に触れてはいけないものを、目の前の空間に感じる。全身の細胞が、逃げろと僕に訴えかける。


「せっかく集めた負の感情。こんな事に力は使いたくなかった。私は私として、この世に戻ってきたかった。だが、この娘を守るためなら仕方がない。私のために、これだけ憎悪を世界にばら撒いてくれたんだ。この娘には、世界が破滅する姿を見せてあげたいからね」


 右の頬を触りながら、虫唾が走る労いを寄せる魔王を、心底、嫌悪した。


「ふふ……。素晴らしい。もっと怒れ、もっと悲しめ。それほど美しいものはない。苦しめば苦しむほど、僅かばかりの命は、神々しい程に輝くのだから」


 負の感情は魔王の餌。僕が憎しみを覚えるほど、土壺にはまっていくと言うなら、僕はそれに逆らわなきゃならない。


「ふふふ……。そう、そうそうそう! 抗うのだ……。人は誰しも、憎しみを持つことを恐れる。誰かを傷つけることを躊躇う。アルテもそうだった。小さな抵抗を見せる人間ほど、味が長持ちしたものだ」


 魔王は僕の心の揺らぎを見抜いて、面白そうに逆撫でる。僕は深呼吸をして、魔王の言葉を聞き流し、どう攻略するかに集中した。

 魔王の目的が、アルテミーナ様にさらなる絶望を与えるためなら、憑依したと言っても、完全に魂を侵食することはないだろう。いま浄化すれば、まだ間に合うはずだ。

 形状は人間。でも、半分が魔物かしているとしたら、間接の動きは人間の概念を超えてくるかもしれない。何本か牽制の矢を放ち、体の可動域を調べる。そして、反応の限界を見定め、そこに矢を放つ。

 まだ憑依して間もない。エリス様がティオの力を制御するのに苦戦したように、きっと魔王もアルテミーナ様の体を完璧に操作できる訳じゃ無いはずだ。必ずそこに隙は生まれる。


「私は名乗った。次はお前の番だぞ」


「貴方に名乗るなどありません」


「失礼な奴だ。しかし、実にお前も面白い。感情の揺らぎが、アルテそっくりだ。さぞかし、慈悲の心に溢れた子なのだろう。そういう子供ほど、楽しみ甲斐がある。お前も私の宝物にしてやろう。アルテには聞きそびれた。ならば、お前には今のうちに聞いておかなければならないな。聞かせてくれ。お前の望むものは一体なんだ?」


 独り言を楽しむように不気味な声を並べる魔王は、憑依させたアルテミーナ様の左顔面だけを微笑ませ、質問してくる。当然、答える義理などない。


「金か? 地位か? 名誉か? 破滅した世界でも、お前の欲しいものだけはくれてやる。救いたい者がいるなら、その命だけは見逃してやろう。誰か、殺したいほど憎い者は居ないか? 私なら、すぐにでもそいつを破滅に追い込むことができる。私は義理堅い。嘘はつかないさ」


 魔王の言葉に耳を傾ける気は毛頭ない。だからといって、意図的に言葉を拒否すると、そこには苛立ちが増えてくる。ただの雑音。そう思うようにした。


「……ますます、面白い。人は誰でも、憎むべき人の一人や二人居て当然だが、お前にはそれすら感じない。私の誘惑に乗ってこない。私の言葉を無視できる」


 賞賛しているようで、微かに悔しそうな笑みを浮かべて、舌なめずりをする魔王。


「でも、だからこそ、そんな奴に憎しみの感情を抱かせたい。憎しみのない人間など、いない。もしもそんな者がいるなら、それは人間じゃない。憎むべき相手を、私が見つけてやろう。お前を人間にしてやる」


 闇の波動が室内の家具を吹き飛ばす。

 アルテミーナ様の背中に黒いオーラの翼が生える。持っていた剣を自らの手に突き刺し、引き抜く。高潔さを漂わせていた美しい剣は、血を受けて黒く染まり、穴の空いたアルテミーナ様の手は、何の魔法も唱えてないのに、すぐに回復した。

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